The presents to the bone.

成瀬七瀬

 タキという男がいた。


 彼は外見からは年齢の掴めぬ顔をしていて、血色の良くない薄い唇が印象的である。いつも穏やかな雰囲気を身に纏っていたが、一方で、修羅場を潜ってきたような静かな威圧感を持っていた。


 その威圧感の原因の一端はタキの左手にある。彼の左手、その小指は第二関節から先が無かった。しかし本人はどう見てもヤクザやチンピラの類には見えず、酔って物怖じしなくなった私が指が無い理由を聞くと、タキは「事故で無くした」と簡潔に答えた。


 タキによると、彼がなまじ真面目そうに見えるせいか真っ正面からそんなことを訊いてくる人間は少ないという。彼は答えた後にそう付け加えて少し笑った。


 かくして私はタキに気に入られたらしい。勿論私も彼を気に入った。




 私達の共通点は酒しかない。知り合ったのもバーのカウンターだし、そういうわけでタキとは飲み友達として付き合っていた。


 話は酒が喉を流れるように、取り留めもなく進む。したがって、タキが何故、知り合ってから間もない私に自分の秘密を話そうと思ったのかわからない。きっかけは何だったろうか。


 しかし、私はタキの秘密を知ってしまったのだ。




「火葬場に行ったことがあります?」


 タキの問いかけに私は頷く。それなりに生きていたら葬祭には出逢うものだ。


「焼き場でお骨を拾ったことは?」


「あるよ。祖父のを……あまり覚えていないけど」


「とても軽い、それぐらいは覚えているんじゃないですか」


 少し考えて再び頷く。祖父は大往生だったせいもあってか骨は脆く繊細だった。箸で掴むのに躊躇ったのは、今思うと畏怖を感じていたのだとわかる。




「焼くとどうしてもそうなるんですよ。スペアリブだってそうでしょう?」


「スペアリブ? ……ああ」


 話の行く先が掴めないために愚鈍な返事をする私を、タキは気にも留めないようだった。


「生のは違う。肉も血も……特に骨だ。とにかく大変なんです」


「君は外科医か何かなのか?」


 訊ねると彼は笑いながら首を振った。そうしてしばらく黙ったあとに、テーブルの下に置いていた左手を持ち上げる。私の視線は失われた小指に吸い寄せられていた。




「僕はこれを無くした訳を何と言いましたっけ?」


「事故だろ。若い頃、誤ってプレス機に挟まれて……」


「違うんです。実を言うと、僕はこれを自分で切ったんですよ」


 多分、その時の私の顔はあまりにも強張ったからだろう、タキは大笑いした。彼はやっぱりヤクザな稼業だったのか、いやしかしタキ自身は良い奴だ、いやしかし嘘を吐かれていたのは心外だ。ぐるぐる考える頭がぴたりと止まった。タキの言葉によって。




「落とし前なんかじゃなくて。僕は今までもこれからも堅気の人間です。ただ、昔から、いつかは切ってやろうと決心していただけです」


「何故?」


「骨が好きだった。理科室の骨格標本の前には休み時間いっぱいまで座っていた。骨は僕の中にも間違いなく存在する、そう考えると――」


 タキは言葉を切って私を見つめた。少し悪寒が走る。まるで、私の皮膚と肉の下の骨を見定めているような目つきだったのだ。


「――わくわくしましたよ。でも生きている間に自分の全身骨格標本を見ることは現実的に不可能でしょう? だから、小指を切り捨てたんです」


「……い、痛かったんじゃないか」


「そりゃあもう。麻酔なんか使わなかったから、テーブルにタオルを何枚も敷いて左手を広げて乗せて、第二関節に肉切り包丁を当てて一気に。でも骨で止まっちゃって、鋸引く要領でギコギコやったらやっと断絶できましたけど。終わる頃には貧血になっちゃったし、そりゃあもう痛かったなぁ」


 私なら想像だけで気絶しそうだ。タキの隣に座っている状況がたまらなく嫌になってきた。多分、おそらく、彼はおかしい。




「切り落とした指の方は密閉して冷蔵庫に入れて、すぐ病院に行ったんですけど、ねえ、医者がうるさいったらありゃしない。指を持ってきたら繋げることが出来たのに、って。そんなことしたら意味無いだろうに」


「……で、骨の話は?」


 一刻も早く話を終わらせたい一心で声を掛ける。タキは穏やかに笑いながら答えてくれた。




「処置が終わって帰宅してすぐにやりましたよ。爪と皮を剥いで肉を落として、小指はそんなに肉は無いから楽だった。骨の断面も綺麗なものでしたよ。奇跡的だね……どうしましたか、顔色が悪いですけど」


「ああ。飲み過ぎたみたいだ」


 言い終わらないうちに私はグラスを呷った。これは冗談だろうか、それなら笑えない冗談だがマシだ。しかしタキの目は真実そのものであるように感じる。


 この歳になると利害無しの友人を新しく作るのは難しい。せっかく知り合えた楽しく飲める友人が狂っていたのだ、私は複雑な感情を覚えていた。裏切られた憤慨に近い。そんな風に感じるのは、きっと酔っているせいだろう。タキへの腹立たしさをも交えつつ、私は乱暴に言い放った。




「それでどうだってんだ。切り落とした指で何かが変わったのか? そんな価値があるとは思えねえけど」


 そう、私は酔っていた。それも、恐ろしく気が大きくなっていた。タキと知り合った縁も酒のせいだ。彼は柔らかい笑みを浮かべて、折り畳んだハンカチを取り出す――私のアルコールまみれの脳みそに警笛が鳴ったが、遅かった。




「価値は、ありました」


 ハンカチの中心には、白く細い棒のような、いびつなチョークのようなものが載っていた。先端へと続く関節はきれいに原型を留めている。タキの言葉通りに切り口も美しい。


 しかし何よりも美しいのは、それが、人間の骨だということだ。今私の目の前にいる左手の小指を無くした男の一部分であったもの……『骨』だという事実だ。光を内包するように美しい。焼かれた骨とは違い、少しくすんではいるものの然るべき処理をしたのだろうか、骨は生きている気配を纏っている。私はちっぽけな骨から目をそらせなかった。


 これが、私にもあるのだ。




「不思議なものでね、いつも無意識に動かしている指と別れてみると格段に……本来の姿が見えます。何だか玩具みたいな、それとも標本みたいな。でもこれは確実に僕の小指だ。この感覚は切り落としてみなければわからない。僕は僕の骨を、在るべき場所から離して、いつも持ち歩いている」




 誰かが嘆息を吐いたのを聞き、自分だと気付いてから私は私を訝しんだ。何を考えているのだろう、これはただの骨だ。私も間違いなく持っている骨に過ぎない。何も珍しくない。


 珍しくない……だが、タキの骨、そして私の骨。そのものは、他人が決して持たないものだ。珍しくないのか? 本当に? 普段は我が身の赴くままに動く指の真髄を手のひらに乗せる、それはどんな気分なのだろうか?




「……触ってもいいか?」


「どうぞ」


 手を伸ばして細い棒をつまみ上げる。関節には針金で細工をしてあるが目立たない。まさに骨格標本の指だ。私は、またもや溜め息を洩らしていた。タキの左手に目をやり、小指の骨を手のひらで触れると背筋が震える。


 わずかな畏怖と、大いなる好奇心の及ぼす震えだった。




「どうして私にそんな話をしたんだ」


 骨をそっと返してから訊く。もうタキに対する怒りは消えていた。彼は再び元のようにハンカチにくるみ、空虚とも見える笑みを浮かべて言った。




「気まぐれですよ。あるいは最後だからかもしれません」


「最後?」


「僕は町を出ます。バーには来ませんし、あなたと会うことも無いでしょう。別れの挨拶です」


 タキの顔をまじまじと見つめる。それだけで私にこのような話を打ち明けるとは思えなかった。いや、思いたくなかった。ずいぶん長く睨み合った結果、彼は根負けしたみたいに首を振った。




「――僕はもう小指じゃ満足できなくなってしまったんですよ。今度は脚を切るつもりでいます」


「右か? 左か?」


 即座に問うとタキは驚きの反応を示した。私はばつの悪い気分を味わった。左右なんて、どうでもいい問題じゃないか? 私は止めるべきだったのだ。




「左です。膝から下を電動鋸でやります。それが終わったら町を出ます、事故として誤魔化せるかわからないし……少なくともアパートは出ざるを得ないでしょうからね」


「答えになっているか? 私は何故、私に話したかを訊いているんだ……そんな……突拍子もないことを」


 知らずに声を荒げている自分に焦りを覚える。私は何故こんなにも動揺させられているのか。まるで、自分の恥部をあからさまに見せ付けられたように激するのは何故だ? タキは落ち着いていた。青白い顔が死に神を連想させる。




「あなたと酒を飲むのが楽しかった。だから最後に話してみようと思った。もう一つには……何だろう、贈り物かな。ともかく大きな理由ありません」


「贈り物だって?」


 スツールから滑らかに立ち上がるタキにすがりつきそうになる。私の心は危うい崖に揺れていた。彼の言葉を聞きたくない、聞かなければ良かった、聞かねばならない、しかし訊いてしまう。頭には矛盾が介在していた。




「僕は帰ります。やっぱり忘れていたんですね、もしかしたらそうじゃないかと思っていましたが。あなたの右手の薬指を走る傷はだいぶ古いみたいですから。それじゃあ、さようなら」


 さっさと背を向けてバーを出て行くタキを呼び止める声すら出なかった。頭がぼうっとして、喉が渇いて、グラスに残っていた酒を飲もうと伸ばした右手が震えていた。




 右手を見つめる。


 私の薬指には深い咬傷が生々しく跡を残していた。幼い頃に咬み千切ろうとした傷だった――今、ありありと思い出していた。私は忘れていた。私は、自分の指を喰い千切ろうとしたのだ。ずっと昔の子供の頃に。




 薬指を見つめる。


 歳をとって皮は皺が寄り、他人の、例えばタキの指とは微妙に違うラインをしている。その中には薄い肉があって……骨があるのだ。あの、美しい骨が、私のなかにもあるのだろうか。無性に確かめたくなるのは私の頭がおかしいせいだろうか。指を咬んだ子供の頃からおかしかったのだろうか。




 贈り物。とんでもない贈り物だった。それは骨への記憶を呼び覚ますプレゼントだった。しかし、私は妙に高揚して一人きりで笑い声を上げる。右手の薬指を見つめて――困ることは少ないだろう。大丈夫だ。


 何故なら、私は左利きだから。








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The presents to the bone. 成瀬七瀬 @narusenanase

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