逃避香草
成瀬七瀬
ただひたすらに走るという事がこんなにもつらく厳しく面倒くさいものだとは今の今まで知らなかったけど何なら知らないまま死んでも別に後悔は無かっただろうに何故ぼくはただひたすらに走って走って走っているんだっけ? ああちくしょう! 脚なんか伸びたソーメンみたいに感じるし肺はニワトリの脳みそよろしく揺れている。苦しい苦しい苦しい。考えるのを止めなきゃ多分ぶっ倒れるのも遠くない。
そしたら地面に額を擦り付けて夢の中みたいに譫言を繰り返して毒々しく波打つ心臓を休めるのにだけ集中できるんだ。それはちょっと魅力的なものだ、けど、十秒も経たないうちにぼくの心臓は永遠に止まっちまうんだろうなぁ。ああ、やっぱりまだ死にたくないや。
父さんや母さんはちゃんと逃げたのかな? 多分無理だったろうな……だって聞いてしまったし。最初の打撃音のあとの、びっくり箱系の悲鳴と一緒に聞こえた、あの……何ていうか、豚の塊肉をトンカチで潰したような音を。豚肉はトンカチで潰すものじゃないよなぁ、豚肉はトンカツにしなくちゃ。
もう母さんが作ったトンカツは食べられないんだ。父さんはゴマだれが好きで、母さんは醤油で、ぼくはスタンダードにトンカツソース。おいしかった。もう食べられないんだ。そう考えると泣きたくなったけどトンカツで泣いたなんて恥ずかしい気がするから、ぼくは涙を堪えた。
友達みんなは大丈夫かな? ユウジやタッチャンやニノガワ。あいつらは強いからぼくと同じように逃げてるかも、一瞬そう考えたけど会えないなら同じことだよ。ぼくは走り狂うのに精一杯だし、みんなも多分そうだろう。これじゃあ仲間を探すなんてできそうにない。
ハヤカワ。ハヤカワは生きてるのかな。名前をこころに浮かべると、一緒に姿も思い出して不思議に胸が締め付けられた。ハヤカワユキ。長い髪、かわいい笑顔、頭も良いクラスメート。ぼくはハヤカワが好きだったんだ。今頃気付いても遅すぎたけど、ぼくはハヤカワが大好きだった。ほんと、結婚したいぐらい好きだ。考えるとまた泣きそうになる。好きな子で泣くのは映画っぽくてすてきだけど、泣いたら走れなくなりそうだったからぼくは涙を我慢した。
それにしても奴らの卑怯さには開いた口がふさがらない。真夜中を狙うなんてどういう神経をしているんだろう? ぼくはたまたま夜更かしゲームしてたからすぐに逃げ出せたけど、こんな田舎町じゃほとんどみんな寝静まってる時間だ。
家から逃げ出してすぐに向かいのおばちゃんちに助けをもとめにいったけど、その時に初めて気付いたんだ。奴らが単なる居直り強盗とかじゃないって。
向かいのおばちゃんは干されてた。仕事をって意味じゃなく、物干し竿に身体を干されてたんだ。部屋から少し届く、点けっぱなしの蛍光灯の明かりに照らされてボロボロになったおばちゃんの皮膚が風で揺れてた。自分でも吐かなかったことを誉めてやりたい。ていうか、もし吐いてたら今頃はぼくもおばちゃんの隣に仲良く並んでたんだろうけど。おばちゃんとは大した思い出もないけど、それでも悲しい。いつもにこにこして優しそうだった。死なないといけない理由なんか無かったよ。
ぼくは奴らの姿を見た。うん、奴らは「奴ら」だ。いっぱいいたから複数形で、でも人間かどうかはわからない。クマかと思ったけど、それにしては身体が細すぎたし、でも妙に手足がだらだら長くて……奴らは一体何なんだろ。わからない。けど、奴らに捕まったら間違いなく死んじまう。そしてぼくは死にたくない、これだけは確かなことだ。
ぼくが逃げているのを奴らは知っているんだろうなぁ。でも足音も何にも聞こえない。だから、たまに立ち止まりたくなる。けど真後ろに立ってたらどうするよ? 奴らの足はひょろひょろ長かったから足音なんか立たないのかも。そう考えると走るのを止められない。今ならマラソン大会で一着になれるかもしんない。いや、やっぱり三着が限界かな。ぼくはいっつもスタミナが足りないって怒られてたから。
誰にってオニセンにさ。ほんとはオオツカって名前の先生なんだけど怒った顔が超怖いからオニセン。オニセンには死ぬほど説教されたし尻も叩かれたなぁ。ああ、あの怒鳴り声や張り手ももう味わえないのか。でも別にいいや、冷たいようだけどオニセンが死んでもぼくは泣けないよ。
冷たいといえばいつの間にかみぞおちの辺りが冷たい。息がぜぇぜぇいってるし、さっきより走るのが遅くなってきたのが自分でもわかる。ちょっと休まなきゃやばいかも。ほら、ぼくはスタミナが足りないからさ。
暗がりに目をこらして、やっと見覚えのある山あいに飛び込んだ。町のなかはいたるところに血みたいなどろどろや壊れたブロック塀があって異常なかんじだったけど山は何にも変わらない。いつもと同じ。ここではよく友達と遊んだから、もしかして他にも逃げて隠れている仲間がいるんじゃないかなって思ったけどもう探す力がない。ぼくは生い茂った草むらに座り込んでしまった。
心臓が抗議するみたいにどくどく動いているのがわかる。足も膝が震えて筋肉が強張ってる。全身が悲鳴をあげてるよ、むちゃくちゃな運動をするなって。ぼくも悲鳴をあげたいよ。さっきまでは家でのんきにゲームなんかしてたのに、なんでこんなとこに隠れてんだろ?
随分前に映画で見た兵士や、牢獄から逃げ出した囚人みたいだ。できたら兵士になりたいなぁ、囚人はイメージが悪いから。思いながら、頬が濡れているのを感じた。あれ、ぼくは泣いているみたいだ。トンカツでもハヤカワでも泣かなかったのに、なんで今になって涙を我慢できなくなったんだろ。
多分走ってないからだな。逃げてないからだ。一生懸命になる目的が無くなったから、泣くのをこらえるバネが利かなくなっちゃった。涙がぼろぼろ出てきて鼻水もだらだら出てきて、小さな子供みたいにしゃくりあげてしまう。なんで? なんで? お父さんは死んだ。お母さんも死んだ。きっと、みんな死んじゃったんだ。
ねえ、なんでだろう? 疑問が次々湧いてきて胸が苦しくなる。
遠くで草がガサガサ動く音がした。それはだんだんぼくのいる方に近付いてくる。そりゃ、これだけ泣いてりゃ気付かれるに決まってるよなぁ。でもぼくは逃げなかった。逃げられなかった。もう疲れきっていたし、あんなに走るのは二度と無理だろう。
草が動く。ひょろながい影が見える。ぼくは思った。せめて最後に、奴らの顔を見てやろう。ぼくを殺す奴の顔を見てやろう。影の頭らへんはやけに小さくて、髪が長く垂れ下がっている。……女? でもそれにしては背が高い、っていうか男だとしても高すぎる。2メートル以上あるんじゃないのかな。見上げながら考える。
そいつの顔を見た瞬間、涙が反射的に止まった。太い首の上に乗っかってるのはハヤカワの顔だった。ハヤカワは眠っているみたいに目を閉じて、口から一筋の血が流れている。
ハヤカワ?
いつの間に背がそんなに高くなっちゃったんだよ、でもぼくは全然気にならないよだってわかったんだずっとハヤカワが好きだったんだってやっと気付いたから気にならないよ……。
でもそいつはハヤカワじゃなかった。だって、そいつは手に持った刃物をぼくに向かって振り下ろした。硬い感触が首に当たった時、ぼくが思ったのは、それでも最後に見たのがハヤカワのかわいい顔で良かったという満足感だった。
だって、これがオニセンだったら死んでも死にきれな
逃避香草 成瀬七瀬 @narusenanase
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