第17話 ラーメン
「ラーメンが食べたい」
あっという間にゴールデンウィークに入って初日の昼時、俺はベッドに突っ伏していた。
「ラーメンが食べたい」
一人暮らしを初めてからおよそ1ヶ月。
人並みには自炊に取り組んできたつもりだ。元々は料理はできないというほどでもない。毎日作っていれば自分の上達も窺えて、楽しくないこともない。自炊をするのが懐事情的にも良いのだろう。
だけど、そういうこと全部丸ごと投げ捨てて、どうでもよくなるくらいに——
「ラーメンが食べたい」
そういう時ってないだろうか。
俺はある。
俺は今、すごくすごくすごくすごくすごくすごくすごくすごくすごくすごく!!
「ラーメンが、食べたい!!」
思い立ったが吉日。
即座にスマホで近隣のラーメン屋を検索する。そして良さげな店を見つけると身支度を整え部屋を出て、お隣のインターホンを押した。
「祈璃さーん、ラーメン食べ行こー!」
ひとりで食べるラーメンはもちろん美味い。
でも、お隣さんとなら。
ふたりで食べるラーメンはもっと美味いはずだった。
祈璃さんのおでかけ準備を待ってから出発する。
「なんでいきなりラーメンなんて……」
「食べたいからです」
「私はべつに食べたくない。そもそも食べたことないし……」
は?
今、この人なんて言った?
祈璃さんの肩を掴んで迫る。
「ラーメン食べたことないんですか……!?」
「な、なによいきなり……べつに珍しいことでもないでしょ。あんな脂っこくて身体に悪そうなの、食べる人の気がしれな——むぐぅっ!?」
「それ以上はいけません」
俺は祈璃さんの口を塞ぐ。
「日本全国のラーメンファンを、いや、全世界のラーメンファンを敵に回すことになりますよ……!?」
んー、んー! とジタバタしている祈璃さんを押さえつけつつ周囲の安全を確認する。
どうやら聞いていた人はいないようだ。命拾いした。
口から手を離す。
「ぷはっ、な、何するのよいきなり!」
「いいですか祈璃さん。祈璃さんには馴染みがないのかもしれませんが、ラーメンとは今や日本が誇る一大文化のひとつなのです」
「はぁ……?」
「それを食べたことがないなんて、人生の損失と言えます……!」
「そ、そこまで? そんなことってあるの……?」
「あります」
祈璃さんは勢いに気圧されて困惑し、オロオロしている。俺はふっと笑みを浮かべた。
「かくいう俺もラーメンは大好物なので、祈璃さんも好きになってくれると嬉しいです」
「…………そこまで言うなら、美味しくなかったら許さないから」
「それは保証できません」
「なんでよ。意味わかんない」
「俺だって初めて行く店ですからね。失敗する可能性もあります。でも、それもまたラーメン道」
評価の高い店を選んだつもりだが、やはり自分の舌で確認するまでは分からない。
地元だったらおすすめの店をいくらでも紹介できるのに。口惜しいところだ。
こんなことならまずは1人でリサーチに行くべきだったか。祈璃さんがラーメン童貞とはさすがに予想外である。
果たしてどんな反応を得られるだろうか。
「何にしても、今日はきっといい思い出になりますよ」
「……そうだと良いけれどね」
半信半疑ながらも、少しはラーメンに興味を持ってくれたようだった。
改めてスマホのマップに従いながらラーメン屋を目指して歩き始めると、いつもの桜並木を通ることに。
「散っちゃいましたねぇ、桜」
「そうね」
「また来年、見れますね」
「ええ。また見れるわ」
桜が見れる期間は短い。花びらは儚く散ってゆく。けれど何度散ろうとも、毎年また満開の花を見せてくれる彼らは、とても強い植物なのだろう。
春になれば、また会える。それを有り難く感じた。
なんて浸っていたら対面からヨロヨロと歩いてくる、見覚えのある姿があった。
「お婆ちゃん! お久しぶりです!」
「なんじゃ、おまえさんかい」
駆け寄って声を掛けると無愛想ながら応えてくれる。今日は荷物を持っていないから、ただの散歩のようだった。
祈璃さんがちょっと遅れて背中に付いてくる。
「……知り合い?」
「命の恩人です」
「は?」
「祈璃さんと再会する前に、ちょっと助けられまして」
俺の不注意をその場で簡単に説明させてもらった。
「あ、あの、お婆さん」
すると祈璃さんはおそるおそるお婆ちゃんに話しかける。
そして、大きく腰を折って頭を下げた。
「その節はありがとうございました。その、蒼斗を助けてくれて……」
「ふん。なぜあんたが礼を言うんじゃ」
「それは、蒼斗は私の、幼馴染だから……」
「そうかい」
「はい。だから、本当にありがとうございました」
「……………………」
それは俺にとって想定外としか言えない祈璃さんの行動で、黙って成り行きを見ることしかできなかった。
やがてお婆ちゃんは鼻を鳴らして、俺に視線を投げつけてくる。細まった瞳がジッと俺を見つめていた。
「おい、若僧」
「はい? 若僧?」
「あんたのことさね」
「は、はぁ……」
自己紹介しておこうかと思ったが、そんな暇もなくお婆ちゃんは言う。
「いい顔をするようになった」
「え」
「だか、まだまださね。まだまだ、気張って生きぃ」
お婆ちゃんは好き勝手に喋って、そのまま杖でコツコツと歩いていった。
俺は衝動的に、その背中にお辞儀する。祈璃さんもそれに続いた。
思えば、お婆ちゃんに助けられなかったら祈璃さんに出会えてなかったかもしれない。
——そんな辛気臭い顔しちょらんで、精一杯生きぃ
お婆ちゃんの言葉がなかったらあの時、祈璃さんが玄関から出てくるまで粘らなかったかもしれない。
そしたらお隣さんとの交流は生まれなくて。ずっとニアミスしていた可能性だってあるのかも。
人生って、案外そんなものな気がする。
「いい人ね」
「ちょっと偏屈だけどね」
「そんなこと言っちゃダメ」
「……うん」
今度会ったら、もっとお話しさせてもらおう。
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