お隣の蔑み美人が死に別れの幼馴染だった。
ゆきゆめ
Main story
1 再会と約束とパンツ
第1話 再会
決して忘れられない、子どもの頃の記憶がある。
「————大嫌い」
それが難病に侵された少女——
「あなたみたいな人が、私は一番嫌い。だから、どっかいって。私に関わらないで」
鋭利な刃物のように研ぎ澄ました瞳で、一心にこちらを睨みつける。
拒絶されていることは明白だった。
それでも俺は何度でも、その一歳年上の幼馴染の病室を訪ねてとびきりの笑顔でこう言う。
「ぜったい、離れてやるもんか!」
それが病気についても、死についても、ろくに理解できないバカな子どもの、子どもなりの向き合い方だったのかもしれない。
「……勝手にすればいい」
消え入るように低く抑えた声は、ぷいと背けられたその口からポツリと落ちる。
「どうせ私は死ぬんだから、私と一緒にいたって————」
「あ。そうだ、聞いてよ。今日昼休みのサッカーでさー?」
「………………」
「ん、祈璃ちゃんどうかした? もしかして何か言った?」
「……べつに」
「そっか。でね、今日は絵描こうよ、絵」
「……昼休みは?」
「え? なんのこと?」
「……はぁ」
呆れ混じりのため息を吐かれてしまった。
「おれはドラゴン描くから、祈璃ちゃんは……うーん、なんか、ザコモンスターね」
俺はランドセルから取り出した自由帳にさらさらと鉛筆を走らせた。
「……もんすたー?」
「うん。おれのドラゴンに焼き殺されるやつ」
「……わかんないよ」
困ったように眉をひそめながらも、ほんの少しだけ表情を緩ませていた気がする。
そんな日々を3年ほど続けた、新学期前の春のことだ。
家族旅行から帰ってきた俺は、両手で抱え込んだ大量のお土産を渡すことができなかった。
駆け込んだ病室はもぬけの殻だった。
まるで早咲きの桜が散り果てるかのように、彼女は唐突に姿を消してしまった。
当時はその状況をまったく理解できなかった。病院中、街中でその姿を探した。でも、やっぱり見つけることはできなくて。彼女の痕跡は面白いくらいに残っていなくて。幻影を追いかけるばかりで。記憶の中の弱々しい姿ばかりが大きくなっていった。
そしてまた、数ヶ月が経って——
ひとつ、どうしようもなく悲しいことがあった。
そうして俺は、少しだけ大人になってしまったのだろう。
漠然とだが、理解した。もしくは、諦めた。
人は死ぬ。
例外はない。
——夜桜祈璃は、死んだのだ。
◇◆◇
「おいあんたっ、赤だよ!」
瞬く間にいくつもの季節が巡り、大学進学を機に都内で一人暮らしをすることになった。
一浪の末に受験を終えて、3月のことだ。
「え?」
春風に誘われるようにボーッと歩いていた俺は横断歩道の前でふと足を止める。目の前を大型トラックが横切って行った。危うく異世界転生するところだった。
「あ、ありがとうお婆ちゃん、助かったよ」
後ろで信号待ちをしていたお婆ちゃんに頭を下げて感謝を伝える。
「まったく、今どきの若者は本当になっちょらん。覇気のない目をしよってからに」
「あはは、すみません。ちょっと考えごとしてまして」
「考えごとで死んだら世話ないわ」
信号が切り替わると、仏頂面で杖をつき、ヨロヨロと歩き出した。背中には重そうな荷物を背負っている。
「荷物持ちますよ。さっきのお礼に」
「いらん」
「そんなこと言わずに」
「いらんったらいらん。そこまで落ちぶれちょらん」
「そうですか」
「……気持ちだけ、受け取っとくわ」
道が同じようなので、隣り合って歩く。
「……学生かい?」
「4月から
「しっかり勉強せえよ」
「ほどほどに頑張ります。お婆ちゃんは足が悪いんですか?」
「そうさな。だからもう、遠くへは行けんな」
「大変ですね」
「それが歳をとるってことさね」
話をしながら歩いていたら、先に俺の目的地である引越し先のアパートにたどり着いた。
別れの言葉を口にするがお婆ちゃんは特に応対してくれず、そのまま愛想なく通り過ぎていく。
「……あんたはどこへでも行ける。そんな辛気臭い顔しちょらんで、精一杯生きぃ」
腰の曲がった小さな背中が、最後にそう語ってくれた。
「お疲れ様です。ありがとうございました」
引っ越しのお兄さんたちを見送り、さっそく荷解きをする。
荷物は多くない。
外が茜色に包まれる頃には、1Kの部屋がシンプルにまとまっていた。
ベランダから差し込む夕日が眩しくて、目を細める。カーテンはなかった。
「まぁ、それはひとまず後回しとして……次はこれだな」
あらかじめ用意しておいた手土産を持って、外に出た。
「最近は引っ越しの挨拶とかあまりしないらしいけど……」
このアパートは星彩大学から徒歩10分の好立地で、大家さんからも大学生の住居人が多いと聞いていた。今のうちに交流を持っておくに越したことはない。
人間関係は、なるべく広い方がいい。何かとおトクだろうから。
アパートは3階建て、それぞれ3部屋ずつの合計9部屋だ。
俺の部屋は202号室で、ちょうど真ん中。挨拶は全員にするのが無難か。
同階は後回しにして、3階から始めることにした。
301号室のインターホンを押す。
「はいはーい。どちら様?」
音声通話を挟むことなく、ショートボブの女性が直接顔を出してくれた。
まるで陸上選手が着るようなヘソ出しのセパレート姿だ。腹筋がキュッと引き締まっていて非常に健康的かつ刺激的である。
室内で運動でもしていたのか、首筋にしっとりと汗が浮かんでいるのが色っぽかった。
「202号室に引っ越してきた
「わお、新人さん? これはこれはご丁寧にどうも。私は
「よろしくお願いします。こちら、つまらない物ですが」
「あらら、そんな気を遣わなくてもいいのに。でも、ありがと〜」
「足がはやいのでお早めに召し上がってください」
「了解。美味しく頂かせてもらうよ。本当にありがとね」
「いえ、ほんのご挨拶なので」
テンプレートな挨拶になってしまったが、初めてにしては上出来だろう。椎名さんはニコやかに対応してくれた。
「では、俺はこれで。これからよろしくお願いします」
ひとまずの目的は果たした。初対面で長居することもない。俺は会釈して踵を返す。
「ちょっと待った」
しかし、背後からぎゅむっと力強く肩を掴まれてしまった。
「な、なんですか?」
「ふむふむ。ふむふむ」
腕から胸、腹、脚までの隅々を値踏みするかのようにモミモミと揉まれていく。
正直、非常に居心地が悪い。今すぐ逃げ出したい。
「なかなかいい身体してるね。運動部だった?」
「はい?」
「というかキミ、星大だよね?」
「は、いや、そ、そうですけど何かっ?」
羞恥に悶えながら頷くと、椎名さんはニヤリと笑った。
「私が会長を務める筋肉研究会に興味はないかな?」
「は? き、筋肉!?」
「いえす、筋肉。もし入会してくれたら、私が毎日キミの筋肉のお世話をしてあげるよ。なんなら今からでも私の部屋でふたりっきり、と〜ってもイイコト、してあげちゃおっかな」
頬を夕日よりも濃い朱色に染めて、鼻息荒く迫ってくる椎名さん。どう見てもふつうじゃない。
「さ、サークルは色々見て決めるつもりなので、失礼します!」
身の危険を感じた俺は必死のバックステップで距離を取り、無我夢中で疾走した。
「大学生って、こえぇ……」
いやいや、きっと初回から奇人に当たってしまっただけに違いない。
ほとぼりが冷めるのをしばらく待ってから、椎名さんの姿が見えないことを確認して挨拶の続きに戻った。
「何かわからないことがあったら遠慮なく聞いてくれていいから」
「ありがとうございます。その時はよろしくお願いします」
これで1階と3階は終わり。
残るは同階の2部屋だが……
「あれ、ここって空き部屋だったのか」
201号室のインターホンと郵便受けにはガムテープが貼られていた。
お隣さんの片翼は不在。
寂しさを感じると同時に、ちょっぴり胸が空いた。
気を取り直して、最後の203号室へ。
インターホンを押す。
「…………あれ」
応答なし。外出中だろうか。そう思いながらも間隔をおいて何度か押してみる。
『……どちら様?』
椎名さんとは打って変わって、警戒心を露わにした女性の低い声がインターホンの音声通話で聞こえてくる。
『セールスなら結構ですので』
「隣に引っ越してきた者です。ご挨拶に伺いました」
『隣……? ……それはどうも。でも挨拶なんていらないから。それじゃ』
「え、ちょ、待ってください!?」
不審者の疑いが消えて警戒心が緩んだように思えたのも束の間、会話が打ち切られそうになって、慌てて呼び止める。
『……まだ何か?』
かろうじて留まってくれた。
「手土産が……さ、笹団子あるのでそれだけでも受け取ってもらえませんか!? 残ってしまうと勿体無いので……!」
『……ちっ』
え……?
今のってまさか舌打ちか?
いや、感じわるッ。
もしかして、関わっちゃいけない人だったか? 奇人2号?
「そもそもなんで俺、こんなに必死になって……」
直後、部屋の扉が静かに開いた。
ついに203号室の住人がその素顔を見せる。
「……は?」
その鋭い瞳に射抜かれた瞬間、頭が真っ白になった。
止まっていた歯車が、動き出す音がした。
数分後、俺は203号室の中にいた。
物が少ない俺の部屋と違って、立派なテレビデッキやソファーがある。その間に小さな白いテーブル、奥には柔らかそうなシングルベッド。おしゃれな小物や観葉植物にも抜かりがない。
ほどよい生活感の中に大人っぽい落ち着きを感じる空間だ。妙に甘い香りも漂っている。
ソファーに座るのは気が引けて、その手前のクッションに腰を下ろした。
部屋の主はどうやらお茶を入れてくれるようで、ポットにお湯を沸かしていた。
さらさらで艶のある黒髪ロングに、化粧っ気なく雪のように透明感のある美肌。まっすぐ整った鼻筋に長い睫毛、背筋の伸びた美しい姿勢に清楚感のあるロングスカートはまさに大和撫子という言葉を連想させた。
ただ、キレ味鋭い瞳が冷ややかで、いささか近づき難い印象を与える。今もまるでポットを睨んでいるかのように見えた。
——大嫌い。
ふいに脳裏をリフレインする記憶。
その氷点下の瞳には覚えがある。容姿にもそこはかとない面影を感じていた。
ああ、狐につままれているかのように現実感がない。
とても幻想的な彼女——
「どうぞ」
やがて紅茶の芳しい香りが漂うティーカップを持ってこちらに来ると、手前のテーブルへ置いて、隣に座った。
テーブルの真ん中には、俺の手土産である笹団子が鎮座する。
「いただきます」
ティーカップを手に取り、一口飲んだ。
「……美味い」
紅茶で初めてそんな感想を抱いた気がする。
俺の知っているペットボトルやインスタントのそれとは明確に異なる、繊細な味わいだ。
「っ、そうでしょう? 茶葉に拘っているのよ。最近すっかりハマってしまって、ようやく入れるのも上手になってきたんだけど——」
パッと瞳を煌めかせて語ってくれたかと思うと、急に我に帰ったようですんと澄まし顔に戻ってしまう。
「ま、まぁ笹団子には合わないでしょうけどね」
ふんと鼻を鳴らして笹団子を手に取り、笹を剥く。それから勢いよくパクッと食いついて、流れるように紅茶を飲んだ。
「どうです?」
「……それぞれ、美味しいわね」
「ですよね」
当たり前だがその組み合わせにシナジーはない。
「…………………………」
「…………………………」
沈黙は何も生まなかった。
紅茶を一気に飲み干したのち、俺は意を決して口を開く。
「名前を聞いてもいいですか?」
「……
「そう、……ですか」
核心から迫った。結果、二の句が継げない。一瞬にして感情は破壊される。準備も何もできていない。
できる事なら一度出直して、時間をいただきたいくらいだ。聞きたいことはいくらでもあるはずなのに、心が追いついてこなかった。
「……海外で、新薬が開発されたのよ」
口をパクパクとさせていた俺の気持ちを読み取ったかのように、彼女は語る。
「私はその治験を受けさせてもらえることになった」
「……治験?」
「要するに、新しい医薬品の効果や副作用を調べる臨床実験ね。私のような人間にとってそれは、いち早く最先端の治療を受けられるということ」
割のいいバイトを探していたときに治験というのを見た事があった気がする。なんだか怖くて、受けてみることはなかったが……。
「先生が私のために色んなツテを辿って、辿って、数少ないその機会を私の元へ持ってきてくれた。病を治せるかもしれない、最後のチャンスよ」
当時を思い出すかのように遠い目をして、ティーカップをなぞる。
「……それで、海外に?」
「ええ。ヨーロッパへ」
「ヨーロッパか……」
子どもの頃の俺がいくら探したって影も形も見つからないわけだ。
「……新薬と言っても、それが私に効くかどうかなんて誰にもわからなかった。一縷の望みをかけた、一種の賭けのようなモノ。だから家族以外の誰にも、あなたにも、言わないことにした。私が死ぬ運命であることに変わりはなかったから」
余計な希望なんて持たない方がいいでしょ、とぶっきらぼうに言葉を締める。
俺はそれにすっかり騙されて、死んだと思い込んでいたわけだ。
しかしその彼女が今、目の前にいる。
死んだと思っていた幼馴染——夜桜祈璃は生きていた。
「……帰ってきたのはいつ?」
「2年くらい前かしら。高校卒業資格を取って、大学受験をしたわ。4月から星彩大学の2年生」
「そっか。ちなみに俺は星大の新入生」
「……変な偶然ね」
俺は彼女の方へ、視線と身体をまっすぐに向けて、居住いを正す
「……ごめんなさい」
するとまるで先手を打つかのように、申し訳なさそうに俯いて、謝られてしまった。
それは俺が今、最も聞きたかったことへの返答であるような気がした。
「ふむ」
その顔に両手を伸ばして顎から掬い上げるようにして持ち上げ、こちらを向かせる。
「ふぇ……?」
ようやく視線が重なる。いや、玄関でも一度目が合った。あれは怖かった。
恐ろしいほどの美人がちょっぴりあどけない困惑の表情を浮かべている。
そのまま驚きの吸い付き触感な頬を存分に揉んでやった。
「ちょ、ちょっと。にゃ、にゃにするのよ……っ」
クセになりそうな柔らかさ。赤ちゃんのそれに近い。永遠にこうしていたくなる。
「や、やめなさい……ってば!」
「うわっ」
俺の手から抜け出そうと黒髪を振り乱す。危うく力強い頭突きを喰らうところだった。
「……めっちゃ元気」
「はぁ?」
羞恥で頬を染めたまま鋭い視線でこちらを睨んでくる。
「いや、マジで生きてるんだなぁと思って。感慨深くなっちゃって」
「っ、…………ふん」
一瞬だけ瞳を揺らして、すぐに罰が悪そうに伏せた。
「もう病気は治ったってことだよな」
「……ええ」
「ふつうの人と変わりないのか?」
「……まぁ、多少身体は弱いかしらね。ずっと寝たきりだったんだもの、仕方ないわ」
「でも、生きてる」
「ええ」
「めっちゃ元気だ」
「ええ」
もう一度ぷるもちほっぺに手を伸ばしてみる。今度は完全に避けられた。取りつく島もない。それは残念だけど、今はいいか。
俺は胸の奥の奥の方から、はぁぁ……、と長年溜め込んでいたおどろおどろしい何かを全て吐き出した。
まるで先も読めない分厚い霧の中、一気に視界が開けたかのような、途方もない安堵の嵐。
「よかったぁ」
両手を伸ばして、ダラシなく背後のソファーにもたれかかる。
「ほんっとうに、よかったぁ…………!!」
結局、思うことはそれだけだ。
こんなに嬉しいことはない。
大学合格? 初めての一人暮らし?
そんなことと比べることが烏滸がましい。
「……泣いてるの?」
「そりゃ泣くでしょ。泣かなきゃウソだ」
「……そう」
「相変わらずの塩だなぁ」
泣いて抱き合ってもいい場面だろうに。
しかし、その態度もまた懐かしい。
とめどなく頬を伝って流れていく涙を拭うこともせず、歓喜に打ち震えた。
「ソファーが汚れる」
無愛想な顔のままハンカチを取り出し、目元を拭ってくれる。
距離が近づいて、その体温を感じた。温かい。血が通っている。
「……何か私にしてほしいことはある? なんでもするわ」
思わぬ提案。
どこか思い詰めたような、複雑な表情を浮かべていた。
「なんでも?」
「ええ、なんでも」
「それなら、————っ」
一瞬、何を言おうとしたのだろう。
わからないまま、同時に混乱した俺はゴクリと唾を飲み込んで、告げる。
「————パ……パンツ見せてください」
バカなのか、俺。
救いようがないほどに浮かれている。
「……は?」
その瞳は即座に光を失い、まるで薄汚い生ゴミでも見るかのような侮蔑の視線に変わった。
「……気持ち悪い」
「うっ」
「本当に気持ち悪いわ」
「……じょ、冗談だって。冗談」
「……ちっ」
必死に両手を振って訂正を図る。
やっぱり舌打ちが怖すぎるッ!
「……わかった」
「は?」
今度は俺の思考がぶった斬られて、口があんぐりした。
「見せるわ」
「み、見せるって何を?」
「だから、パンツ」
遠慮がちの瞳は力なく震えている。
「見たいんでしょう?」
「……見たいです」
「なら、いいわよ。どうすればいい?」
「え、あ、じゃあ……そこで膝立ちになって、スカートをたくし上げてもらえると……」
「ちっ」
「ひぃぃ……!?」
明らかに苛立っている彼女だったが、どうしてか言われた通り膝立ちになる。
そしてロングスカートの両端に手をかけた。
「くっ……」
ギリギリと歯を食い縛り、顔を赤くする。心の底からイヤそうな顔が嗜虐を煽った。
少しずつ、ゆっくりと、スカートが捲られていく。
やがてあの頃とはまったく異なる、成長した健康的な太ももがあらわとなり……
「……なーんて」
ふっと蔑みの表情が抜け落ちた。スカートから両手が離され、ぱさりと床に落ちる。
「見せるわけないじゃない。えっち」
そして、俺の額にデコピンした。
「いったぁ」
「……こういうことはもっと、親しい人にやってもらいなさい」
人生に労せず甘い話などないのだろうか。あと少しのところで桃源郷への道は閉ざされた。
「……はーい」
俺は渋々、頷いた。
およそ10年会っていない幼馴染は、親しい間柄とは言えないだろうか。少なくとも、彼女の基準では言えないらしい。
話はそこそこにして、部屋に戻った。
お隣さんになったのだからこれから話す機会はいくらでもあるだろうし、第1邂逅としてはこれくらいがちょうど良いだろう。
夜になって適当に夕食を済ませると、俺はなんとはなしにベランダへ出る。
「あ……」
すると近くから聞き覚えのある声がした。
左側へ視線をやると思った通り、仕切りの向こうの隣室のベランダでお隣さんが黒髪を揺らしている。
「こんばんは。何してるの?」
「……夜空を見てる」
「へー」
「……あまりにも興味がなさそうでムカつくんだけど」
「いやだって、ろくに星も見えないし」
ベランダから見る星空はまばらで、お世辞にも満点の星空とは言えない。都会はどこもかしこも建物や街灯、電光掲示板で溢れている。それらの光が星を見えにくくしてしまう。
そして生まれるのが、この形容する言葉の見つからないほど物寂しい星空だった。
わざわざ見るようなものとは思わない。
「そう、あんまり綺麗じゃない。でも、病室のベッドから見る空よりはずっと広いから、好きなの」
「……そっか」
自分という狭すぎる価値観で物事を察るなんて、愚かな話なのかもしれない。
子供の頃から、今もきっと、俺と彼女が見つめる世界は違っている。だから世界とは人の数だけ存在して、人の数だけ見え方の異なるものなのだろう。なんとなく、肌でそう感じる。
「ところで、祈璃さん」
「祈璃さん……?」
「俺だって成長したんですよ。大学の先輩に敬称くらい使います」
「……それにしては随所にタメ口が垣間見える気がするけれど」
「それは失敬」
「子どもの頃からそう。礼儀なんてカケラもないんだから」
「あの頃はただのクソガキだったから」
「今は違うの?」
「イケメン紳士です」
「ヘンタイの間違いでしょ」
相変わらずツンと澄ましている。
その仕草は昔と変わらないはずなのに、横顔はどうしようもないくらい、大人っぽく見えた。
祈璃さんと、そう呼ばせてもらうことにする。敬語もなるべく意識してみよう。
「祈璃さんはいつもこのくらいの時間に、こうやって夜空を見てるんですか?」
「……天気がいい日だけね」
「じゃ、俺もそうします」
「……五月蝿いのは御免だわ」
いかにも迷惑そうに口を尖らせて、黒髪を揺らした。
「いいじゃないですか、昔みたいで」
俺は気にせず、笑いかける。
「また昔みたいに話しましょう。くだらなくてどうでもよくて、意味なんか何もなくて、明日には綺麗さっぱり忘れてるようなこと。たくさん、たくさん、話しましょう」
「……………………」
祈璃さんは頷きこそしないが否定することもなく、ただ夜空を見つめていた。
このちょっぴり冷たい瞳を揺らしたとびきりの美人が、死んだと思っていた幼馴染だなんて、本当にフィクションみたいな話で、笑えてくる。
「……そろそろ、桜が咲きますね」
ずっと、どこか色褪せて見えていた、この世界。
今年は、あの頃のように美しい桜が咲く。もしかしたら星だって、降るかもしれない。
過ぎ去った時間を取り戻すことはできないが、それでも、一瞬、1秒ずつ、塗り替えていこう。
——そんな辛気臭い顔しちょらんで、精一杯生きぃ。
本当にその通りだ。
これからはきっと、たくさんの楽しいことが待っているのだから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます