第58話 最初の殺人
人間は人間を否定したがる。
俺には、他人を貶める人間の心理など理解出来ないが、少なくとも、それがこの世に実在することだけは確かなことだ。
いじめ、差別、村八分……。
俺が通っていた高校でも、いじめられる人間と、いじめる人間、ごく当たり前に存在していた。
俺はいじめられる人間でもなければ、他人をいじめる側でもなかった。目立たずに教室の端で読書して、たまに人間観察をする程度だった。
そんな俺が、ある日を境に、差別される側に回ってしまった。
きっかけは、体育館の裏でリンチにあっていたクラスメートを救ってやったことにある。
いじめている連中は、別に不良でもなんでもなかった。他の人間と付き合っている分には普通の奴らだった。だが、不良やヤクザよりもタチが悪いのは、「自分たちは決して下種ではない」と思っているところであった。
誰かをいじめることは当然の行為であると、三度の飯を食べるのと同じような感覚で、深く考えていなかったのだろう。
彼らからしたら、いじめを妨害した俺は、単なる異端者しかなかったのかもしれない。
いじめられっ子を救った次の日から、彼らの悪質な嫌がらせが始まった。
誰もが自分たちの行為を深く省みようとしなかった。
もともと俺はクラスの中でも変わり者で通っていた。運良く周りから標的にされていなかっただけで、一度目を向けられるようになってからは、ことあるごとに迫害されるようになっていった。
何か言えば物笑いの種となる。何か行動すれば些細なことでも批判される。下らない連中の遊びにつき合わされるのは不愉快で、俺は極力無視してやり過ごすようにしていた。
が、エスカレートしたいじめっ子側は、ある日とうとう一線を越えてきた。
「お前さあ、前から気持ち悪いって思ってたんだよ」
リーダー格の生徒、池田は、そう言って俺に突っかかってきた。
相手にする気がないので、黙って読書を続けていたら、池田は俺の本を弾き飛ばした。
「人の話を聞けよ!」
どうせ対話する気などないのに、人の話、とはよく言ったものだ。ちょっと自分の思い通りに相手が動かなかったら、すぐキれる。人間のクズを相手に喧嘩する気など起きない。
俺は冷ややかな目を向けて、無言で本を拾った。
改めて読書を続けようとしたら、また池田は本を弾いた。
「喧嘩なら時間と場所を決めろ」
馬鹿を放置することに疲れた俺は、仕方なく奴の宣戦布告を受けてやった。まさか正面切って戦いを挑まれると思っていなかったのか、池田はたじろぎ、逡巡していたが、
「ちょ、調子乗るんじゃねえ!」
と怒号して、決闘の日取りと場所を決めてきた。
※ ※ ※
「で、遠野さんが勝ったんですか?」
寒さに震えながら、ユキは白い息を吐いて、手の平を暖めようとしている。ランニングを中断してから、体が冷え始めている。北陸のじっとりと臓腑に沁み込んでくる寒さは、東海地方育ちの彼女には慣れない気候だろう。
「盛大に負けた」
「負けた――んですか?」
「喧嘩は弱かったんだ」
「うそ……信じられない」
目を丸くして、彼女は俺の顔を見つめている。
「冗談だ。勝ち目はあった」
だけど俺は勝ちに行かなかった。
「負けてやれば、多少は気が紛れるかと思った。だが考えが甘かった。奴らはますます図に乗って、俺を攻撃するようになった」
「ひどい……」
ユキは唇を噛む。
「面白いことに、以前に標的にされていた奴は、見逃されるようになっていた。要は誰でもよかったわけだ。クラスというコミュニティの中で、最底辺に位置する人間を作らないと、気がすまない。それだけのことだったんだろう」
「どうして、いじめって、なくならないんでしょう」
「人間だからだ」
俺には自分なりの結論がある。
「人間の大半は、お互いがお互いを認識しているよりも、遥かに程度の低い生き物だ。互いを傷つけあうことに大した理由はない。人間であるがゆえに、人間同士で否定しあっている。多くの善良な人々は、いじめや差別の問題に取り組み、何に原因があるか、どうすれば止められるかを必死に考察している。だが、俺は解決不可能な問題だと思う」
「なら、遠野さんはどうすればいいと考えてるんですか?」
ユキの口調には、多少の反感が込められている。
彼女の若さでは、俺のようにネガティブな物の考え方は受け入れがたいものがあるのだろう。
「解決を考えてはいけない。対策を考えるべきだ。俺はそう思っている」
「でも、その問題が起きなくなれば、対策を練る必要もないじゃないですか」
「解決可能な問題であればな」
「やってみないとわからないです」
「やるまえから、解を求めることが不可能だと判断出来る問題もある。例えば、人はいつか死ぬ。老衰か、病気か、事故か。あるいは殺されるか。誰にも止められることは出来ないし、これからも解決方法などないだろう。それでも、その解決方法を求めて、無茶をやらかした人間は、歴史上数多く存在している。大勢の人を犠牲にしながら、死や老いから逃れようとした。その結果得られたものは――何もない――やはり死を迎えただけだ。自然の摂理を捻じ曲げようとするのは、愚か極まりない。そんな無駄なことに時間を費やして、周りの人間まで不幸にして、結局何ひとつ解決しないのだったら、むしろ如何にして苦痛を和らげるかの対策を練る方が、ずっと前向きで有意義だと思う」
「いじめや差別を無理やり根絶しようとするより、諦めて、どれだけ苦しまないで過ごせるか、迫害される側が我慢しろ……ということですか?」
「君も極端な捉え方をする子だな」
俺は肩をすくめた。
「諦めることと、事実を認識することは大きく違う。事実を事実だと認識した上で、その中で苦痛を少なくするよう努力することは、諦めとは違う領域の振る舞いだ」
「遠野さんって……大学の専攻、なんでした?」
「東洋哲学」
「やっぱり」
「なにか?」
「やけに熱の入った話し方だなあ、って思って」
彼女が遠まわしに言わんとしていることはわかった。話が脱線している。
興に乗ると、俺はこの手の話であれば、何時間でも続けられる。この辺で話を元に戻すことにした。
「次第に、連中の態度もエスカレートしていった。俺はどこまでも耐えられるつもりだったが、現実はそれほどぬるくはなかった。そして――」
初めての殺人の日を迎えた。
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