7.天使と悪魔
「うぐっ……」
天束エインは、血を流していた。飛びついてきた暴食のアペティットに腕を噛まれたからだ。本来は心臓を狙っていたが、彼女が咄嗟に飛び退き、自らの腕で庇ったため、なんとか致命傷を逃れていた。
「エインさん!」
アンジュ・ド・ルミエールが駆け寄る。
「下がって!」
「へっ?」
目を見開いている赤髪の天使を後目に、天束エインが叫び、手を前に突き出す。腕からは未だ血が流れ続けており、苦悶の表情を浮かべてはいるが、それに耐えながら、魔術を唱え始める。
「
次の瞬間、天束エインとアンジュ・ドルミエールが霧に包まれ、完全に見えなくなる。透明化の魔術は、天使から流れている血すら消し、アペティットも”匂い”で感知することができなくなっていた。
「ほう……。逃げる姿だけは一丁前じゃのう。じゃが、もはやお主らにはどうすることもできまい? のぅ、失翼の天使よ」
ハッハッハ、と彼女たちを嘲笑う悪魔。まだ遠くには行っていないだろうと、近くの隠れられそうな場所を一つずつ潰していく。しかし。
彼女たちが逃げ込んだのは、逃げ場のない屋上だった。
「エ、エインさん、どうしましょお……」
泣きながら慌てふためくアンジュとは対照的に、天束エインは冷静に自分の傷を魔術で手当しながら、アペティットを討つ為の策を考えていた。
ヤツには他の有象無象の二級悪魔と違い、知能がある。獣のように本能だけで向かってくる悪魔と違い、アペティットは言葉を発し相手を惑わす。おまけに、その残虐性を考えると、相手を殺すことに喜びさえ感じているだろう。
だが知能があり、獲物を狩る行為に恍惚とした表情を見せるということは、少なからずともヤツには感情があるということだ。獣のように本能で向かってくるのではなく、自らの一挙一動を考えながら行動するということは、そこでアクションを起こせば隙が必ず生まれる。
「アンジュ、良い作戦があるの」
止血は終わったものの、未だ痛みは引いていない。しかし、天束エインの口は、ニヤリと笑っているようだった。
「は、はい! 私にできることなら何でもやります!」
弓を手に取り、アペティットに見つかりかねないぐらいの大きさの声で返事する赤髪の天使。
「ば、バカっ! 大きな声を出さない!」
「全く。何でもやると言ったこと、後悔しないでよ」
「へ?」
ぽかん、とした顔のアンジュに天束エインが告げたのは、驚きの作戦だった。
・
・
・
天束エイン達が姿を消した場所から少し離れた、屋外のテラス。自らを倒そうとするのなら、いずれ姿を表すのではないか──。しかし、待てど暮せど一向に現れず痺れを切らし、
「……儂もそろそろ飽きてきたのう。さて、天使を喰らう機会を捨てるのは惜しいが、そろそろヒト共の欲望でも貪りに行くかの」
そう言って、赤黒い獣がその場を去ろうとした時、獣の後ろに”それ”は現れた。
「い、行かせません! あなたはここでアンジュ・ド・ルミエールが食い止めます!」
彼女が持っている弓は同じだが、彼女の背中からそれなりの大きさの翼が生えている。通常時は小さな羽がぴょこぴょこと揺れているだけだが、天使たちがその力を最大限に引き出すときに、翼は本来の姿を表す。
「散々逃げ続けて、漸く出てきたと思えば”食い止める”じゃと? ヒヒっ。どれ、あの羽なし天使が見えぬようじゃが、儂の傷で死んだかの? 致命傷ではなかったはずじゃが、無様なことよ」
アペティットは、この見習い天使が挑発に乗ってくるものと思っていたが、アンジュとしては、作戦の通りに事が運んでいた。
「食い止めるのが駄目なら」
アンジュ・ド・ルミエールは、弓を構えて、こう言い放った。
「あなたを、ここで倒します」
だが、その明らかな格下からの下剋上に対し、暴食のアペティットはいつものように言葉の応酬ではなく、不快感を示すことで答えた。
「なるほど。なるほど。儂はどうやら
日が落ち、影の影響で赤黒い肌が黒く見えるその”獣”は、その見習い天使へ牙をむき出しにする。
「弱さに加え、自らの力量すら把握できぬ愚か者めが」
「儂の前から消えよ」
彼は、あの羽根無しの天使同様、一瞬で終わらせてやろうと考えていた。ヤツよりも力量が劣る天使が、反応できるはずがない。しかし。
「馬鹿なっ!? 外しただと!?」
まさに、天束エインに対して用いた技と同じものであったが、獣の予想に反し、その歯に何かを”噛んだ”という感触はなかった。
「甘いです!」
その声は、アペティットの後方から聞こえた。それと同時に、ヤツに向けて矢が放たれる。
「甘いのはどちらかのう!?」
先程、天束エインの魔法とアンジュの矢を
その悪魔は、その後も見習い天使が追撃してくるものだと思っていたが、次にアンジュがとった行動は──”逃げ”、だった。
「儂を馬鹿にするのも大概にしろよ……小娘」
もちろん、先程のように魔術が使われているわけではないため、透明になっているわけではない。しかし、散々天使たちを探させられたアペティットにとっては、その鬱憤を爆発させるには十分過ぎる理由だった。
この商業施設を、ぐるっと取り囲んでいる屋外テラスの通路。そのドーナツ状の場所で、天使と悪魔が生き死にをかけたオニゴッコをしている。
「しぶといですねっ……!」
アンジュは矢を放ちながら、翼を用いて逃げているが、暴食のアペティットも放たれた矢を喰らいつつ、それに負けじと追随する。
そして──。赤髪の見習い天使が、一瞬の疲れによって飛行の速度を落としてしまった隙を、アペティットは見逃さなかった。
「しまっ」
速度の落ちた天使に、獣は体当たりをした。その巨体の質量から繰り出される体当たりの威力は、細い体をしているアンジュにとっては致命傷クラスのものだ。回廊の地面に落とされた天使は息を荒くして、自分の方へ、ゆっくりと、ゆっくりと近づいてくる”獣”を見る。
「はぁっ……はぁっ……」
体全体にダメージを負った彼女にとって、もはや意識を保つことがやっとであり、弓は消え、翼は、いつもの小さいサイズのものへ戻っていた。
「そう凄むな、見習い天使よ」
自分を真っ直ぐに睨みつけるアンジュを見下ろしながら、アペティットが呟く。
「儂の怒りを鎮める為に、その命を貰うだけじゃ」
「死ぬがよい。弱き天使」
口を開き、アンジュを喰らおうとする赤黒の獣。しかし、その寸前。
「
「!?」
背後から聞こえた聞き覚えのある声。自らの身体に、殺し損ねた天使の魔術が到達する前に、それを
目の前に居る、手負いの獲物を見て、その獣は邪悪な笑みを浮かべる。しかし、それに臆することもなく、突如現れた天使──天束エインは、ただ、その蒼色の瞳で、アペティットを睨んでいた。
「弱くはないわよ、アンジュは」
ただ、冷たく、淡々とした口調で、獣に天使は語りかける。
「敵から逃げたものが強さを語るか。愚か者の天使が二人も居るとはな」
「まぁ良い。死を待つだけの獲物を喰らうのもつまらぬ。まずは貴様から喰らうてやろう!」
獲物へまっすぐ向かっていくアペティット。天束エインは動く気配がない。もはや、抵抗する意思すら持たぬのか、と、口をあんぐりと開き、その突進の勢いで、一気に喰らおうとした暴食の獣は、
またもや、敵に到達する寸前で、動きが止まった。しかし。傍目から見て同じでも、当事者であるアペティットには、明らかに、その違いを体感していた。それは、
「うっ……あ……ああああああああ!!」
腹部の”耐え難い痛み”という感覚を通じて。
「何じゃ……はぁっ……儂の腹に……何をした……」
未だその四足で姿勢は保っているものの、体の毛は逆立ち、足は震えており、立つのもやっと、といった状態であった。
「あの
「ふざけるなよ……こんなもの、儂の体から排出してくれるわ……!」
先程とは対象的に、息を荒げるアペティット。それをただ見ていた天束エインが、口を開く。
「無駄よ」
「何……? 儂の体の機能を見くびるなよ」
「あなたの体に排出機能があることは予想していたわ。だから少し”工夫”をさせてもらった」
そう言った天束エインは、手のひらを出し、小さな光を出してみせた。
「あなたは私達の力を喰らう。それを利用させてもらったの」
「馬鹿な……ふざけるなっ」
それでも、冷淡に、彼女は語る。
「ふざけてないわよ。これは爆発系の魔術。その基礎中の基礎の魔法。
「そんな魔術で儂がやられるわけがっ……!」
はぁ~っ、と彼女はため息をついてみせ、
「話は最後まで聞きなさいよ。これは他の高純度の光の力に反応して炸裂する。確かに、それ単体で用いたとしても、アンタは殺せないでしょうね」
「でも、アンタは、これを飲み込む前に、
アペティットは目を見開き、驚いた顔で後悔した。アンジュ・ド・ルミエールが放った矢を、全て飲み込んでいたことに。
「
天束エインは、痛みに耐えかねて横たわっている暴食のアペティットを指さし、
「それがアンタの腹の中に既にあったアンジュの矢と反応して、今ちょうど炸裂し始めている」
既に、獣の腹は膨れ上がっており、中で爆発し始めているであろう、光が漏れ出していた。
「クソっ! クソっ! 儂が負けるなどありえん! 儂は暴食のアペティットぞ!」
彼女は、そう、とだけ言い、
「……せいぜい後悔することね」
「自らが見下していた見習い天使の技が、自分を殺す原因となったことを」
暴食のアペティットは、その言葉に返すこともなく、ただ光の爆発に飲み込まれ、”消失”した。天束エインは、敵の消滅を確認すると、倒れているアンジュ・ド・ルミエールへ駆け寄った。
「アンジュ、大丈夫?」
横たわっている赤髪の天使は、天束エインの方へ顔を動かし、
「は、はい……。動けないだけですから」
「ごめんなさい。あなたを囮にするような事をして」
治療の魔術式を展開しながら、銀髪の天使は詫びる。しかし、横たわっている彼女はニコりと笑って、
「ふふっ……。確かに痛かったですけど……。エインさんの力になれて良かったです!」
精一杯微笑んでみせるアンジュ。誰が見ても無理をしていることは明らかだったが、エインはそれを指摘することなく、ただ、治療に専念した。
「──ありがとう、アンジュ」
だからこそ、未だ気づいていなかった。暴食のアペティットが消えた場所に、いつの間にか、
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