イト・弓可可

サニ。

【Nine point eight】

 久しぶりに兄の部屋に入った。兄は還暦を迎える直前であったが、首を吊って死んでいた。その処理のために特殊清掃員を呼んで、片付けてもらっている。2人ほど来てもらったが、随分とまあ美人がベテランそうな人間の隣にいる。首を吊った兄も喜んでいるだろう。

 そうして綺麗になった兄の部屋は何も無く。残されたのは天井からぶら下がっていた紐の痕跡だけ。随分ともの寂しい部屋になったものだ。まあ、この部屋に入ったのはもう覚えてないくらいに昔なんだけれど。

 ふと、ちらりと隅っこの方を見れば、そこには僕が可愛がっていた愛犬がいた。愛犬の名はカトトスと言ったか、そのカトトスはある一点を見つめてずっと動かない。気になって近寄ってみれば、既にカトトスの息はなくなっていて、その隣にあった皿に乗せられているパンは、若干固くなっている。カトトスはまだほんのり温かくて、本当に直近で死んでしまったのだと悟った。それがわかった瞬間、僕は涙が溢れ出てきた。どうしてだろう、兄が首を吊ったのを見た時は何も感じなかったのに、カトトスが死んだとわかったら何故こんなにも、とてもとても辛いのだろう。僕はカトトスは好きだったが、世話はほぼ誰かがやっていたのに。

 溢れ出る涙を必死になって押さえつけ、僕はカトトスを丁寧に外の庭に埋葬した。あいつの好きだったおやつも供えて。


 カトトスを埋葬した僕は、他のきょうだい達に兄が死んだことを伝えようとした。が、皆無関心でそれどころかこちらの話を聞こうともしない。試しにカトトスが死んだことを言ってみれば、その話だけは真面目に聞き、全員が涙した。そして揃ってカトトスの墓に手を合わせた。ああ、やはり皆カトトスの事は好きだったんだ。誰一人として世話という世話をしていなかったが、それでも愛情というものはあったのだろう。今となってはその愛情を捧げるべき存在は、悲惨な姿になって地中で眠っているのだが。

 カトトスへの手向けが終わると、きょうだい達は皆いつもの日常へと戻って行った。1人は仕事へ赴いたり、1人はジムへ、また1人は趣味の教室へと。残された僕は冷えきった家の中に戻るわけも行かないので、ほかと同じように外へと出かけることにする。行くあては特にないが、まあふらついていればそのうちいい場所が見つかるだろう。


 車を出し、暫く街中を運転していると、ふと遺書という物の存在を思い出した。大抵の人間が自分が死ぬ前に伝えたいことなどを書き残しておく書類だが、そういえば兄は遺書を書いていたのだろうか。それらしきものはパッと見た感じどこにもなかった。だがもしかしたらあるのかもしれない。兄が最後に残そうとした言葉が。やれやれ、帰ったらまたあの部屋に入らなくちゃならないらしい。すこしウンザリした。もうあの部屋には1ミリたりとも入りたくはないのに。

 昔から兄はおかしな人だった。きょうだい達は皆大手企業への就職や芸能界入り、そして僕のように作家になったりと、それぞれ素晴らしい職業になっているというのに、兄という人は家から出ないでパソコンを叩いている始末。テレワークだなんだと言っていたが、外に出ない言い訳にしか過ぎないなと思っていた。実際稼ぎは出せているのかと言われれば否定できるだろう。であれば首を吊ることなんて考えもしない。というか首を吊ること自体おかしいことだ。普通に生きていれば、そんなくだらないことはしないのに。本当に変わった人だった。そのくせ僕らきょうだいに対しては全くと言っていいほど話しかけてこないし、いざ僕らと顔を合わすとなると、話もそこそこに適当に切り上げてどこかへと行く。折角話す場を設けてあげたのにも関わらずだ。

 カトトスのこともそうだ。僕らきょうだいが拾ってきた子犬時代のカトトスを、兄は何も言わずに連れて行ってしまった。折角僕らが助けてあげたというのに、可愛がってあげていたというのに、カトトスは何も言わずに自身を連れ去った兄の方に懐いていたし。あれだけ可愛がってあげていたのに、餌もたんまりとあげていたのに、カトトスは変人の兄の方に懐いた。カトトスはどうやら僕らが助けた恩を忘れてしまっていたようだ。それでも僕らはカトトスを可愛がっていた。なぜならカトトスがとても可愛かったからである。まあそのカトトスも死んでしまったので、もう僕らには関係の無い話になってしまったが。

 

 そういえば兄の部屋は処理してもらったが、肝心のの処理はどうしたものだろうか。死亡したとなれば様々な手続きをしなければならない。あの兄の事だろうから配偶者など居ないだろうし、そもそも居なかったとしてきょうだいでその代わりは務まるだろうか。一応血は繋がっているのだからできないことは無いだろう。全く、余計な仕事で時間を無駄に消費するのは本当に嫌なのだが、やるしかなさそうだ。なぜなら僕以外のきょうだい達に話したとしても無視をされるか、よくてもお前がやっとけという一言だけだろう。面倒くさいから分けてやって欲しいんだけれどな。

 死体だってそうだ。例え自分で死んだとしても、残った肉の抜け殻は誰が処理をすると思っているのか。せっかく死ぬのであれば、僕達に迷惑がかからない場所で、認識していない時に死んで欲しかった。というより、そうしていれば良かったのに。なぜわざわざ当てつけのように僕らの家で寄りにもよって首を吊ったのやら。

 考え出したら苛立ちが止まらない。憂さ晴らしのように舌打ちをしつつ、僕はムキになって遠く遠くへと宛もなく車を走らせた。





 何も考えずに車を走らせて居ると、気がつけばもう外はすっかり日が暮れて、ちらほらと街灯が目立つようになってきていた。いつの間にかもう夜になっていたようだ。一旦車を止めて外へ出て、懐からホープを箱から1本抜き、火をつける。今日はかなり疲れる1日だった。兄は自死し、カトトスも死んだ。これからやらなければならないことを思い起こすと、さらに気が滅入る。ほかのきょうだい達は我関せず、と言うように全ての処理を僕の方へ丸投げしてくる。本当は僕だってこんな面倒臭いことはしたくないのに、些か卑怯じゃないか。こうなったらいっそ全ての手続きに、きょうだい達の名前を使ってぶん投げてやろう。そうだ、それがいい。僕だって暇じゃない。次の新作を執筆している途中だと言うのにこんなことに体力を持っていかれるなんて。担当編集にはそれとなく話したら、暫くそっちにかかりきりでいいですから、と言われた。冗談じゃない、大事な作品の執筆を投げてまでこんなことに首を回せるものか。

 と、ここまで考えてようやく僕は、明日以降のことを思い出して頭を抱えた。そうだ、今日が1番疲れる日じゃない。問題は明日からだ。わざわざ役所にまで行かなければならないのだ。オマケに何かしらの遺言書が残されているかもしれない。またあの部屋に入らないといけないのもある。死してなおあの兄は僕らにストレスを与えたいらしい。

 そろそろカスになるタバコ1本を捨て靴の裏で火を消すと、もう1本取り出してまた火をつける。今日はタバコの消費が激しそうだな、なんて他人事のように思った。携帯の画面を見れば、きょうだい達に送ったメッセージに対する返事はない。無論、あの兄についてなのだが、ここまで徹底して無視をされるとなると、流石にこちらも出るしかないかもしれない。僕1人に任せすぎだろう。少しは手伝え。

 深いため息を着くと、僕は不意に日付に気がつく。携帯の画面に表示されていたのは、10月31日という文字。そうか今日はハロウィーンと言うやつだったか。どうりでさっきまで街中が騒がしいと思った。お菓子を求めて仮装して練り歩く子供たちや、その子供たちにいっぱいの菓子を与える大人たち。その全てが笑顔に溢れていて、少しだけ羨ましいと思った。平和にハロウィーンを楽しめる人間たちが、僕は素直に羨ましい。当の僕はこんなにも頭を抱えているというのに。

 そういえばハロウィーンと言えば、元は西洋の所謂お盆だと聞いた覚えがある。要するにあの世に行った故人が帰ってくる、というもの。海の向こうでもそんな物があるものなんだなと思いつつも、そこでぽんと脳内に浮かぶのは死んだばかりの兄。死んだばかりだし、何しろここは日本だし、ハロウィーンの時期だからとそう簡単に帰ってこられるものなのだろうか。いや心底帰ってきて欲しくはないが。永遠にあの世にとどまっていて欲しいとさえ思う。正直いるだけで嫌だ。ろくに仕事もしないでパソコンの目の前に居座って、僕らきょうだいともまともに話そうともしない、部屋からもカトトスの散歩以外出ようとしない。せっかく僕らと話し合う場を設けてあげたのにも関わらず、だ。あの兄など死んで当然。まあできれば家で死んで欲しくはなかったが。

 兄との思い出など、幼少期の数える程しかない。確かに昔は仲が良かった。共に駄菓子屋まで出かけたり、ひとつしか買えなかった飲み物を分け合って飲んだり、1年の中のイベント事は兄と出かけたり遊んだり。本当に幼少期の数える程しか、兄とは過ごさなかった。ああ、そういえばハロウィーンの時期にも、兄と一緒に歩いたっけ。慣れない仮装をして、慣れない単語を繰り返し発音して、そして抱えたカゴには溢れんばかりのお菓子。帰ってきた後には、兄からも秘密だと言ってお菓子をもらった。

 だと言うのになぜ、兄はあんなことになってしまったんだろう。気がつけば僕らきょうだいと距離は離れていたし、顔も合わせなくなっていた。僕も作家業が成功してからは、連絡はひとつもとっていない。執筆した本が賞を取ったとしても、祝福の言葉などは貰わなかった。そうしてどんどんと兄とは離れていき、遂には今日のあの光景だ。久しぶりに見た兄の顔は、この世の苦悶を全て詰め込んだような、そんなものだった。

 あの兄は、一体何を思って死を選んだのだろう。あの兄は、一体何を伝えたかったのだろう。今日はハロウィーンなのだから、それくらいなら聞いてもいい。だから兄よ、本当にそれだけでいいから、ちょっと戻ってきてくれまいか。本当に、本当にそれを聞くだけだから。

 だが、いくらそう思っても兄は帰ってこない。それはそうだ、ハロウィーンはあくまで西洋のお盆。日本も対象かと言われたらそうでは無い。少しため息をついて、吸っている途中のタバコをぽとりと落とし、靴の裏で潰した。





 ハロウィーン終了の1時間前。僕はまた、あの兄の部屋の目の前にいる。あれだけ入りたくなかったのに、なぜ僕はここに居るのだろう。さっきまで考えていたことが、上手く脳内に出てこなくなっている。脈はどんどんと早くなり、手にはじっとりと嫌な汗が出てきている。手をドアノブに伸ばしているが、中々に手はそれを掴もうとしない。どうしてもギリギリで動作をとめてしまう。であれば、もう片方の手で伸ばしている腕を掴み、無理やりドアノブを掴ませるだけだ。僕は片腕をぐいと伸ばし、震えている手をドアノブに掴ませた。そしてそのまま手を下におろし、ぐっと扉を前に開ける。

 キィ、と嫌な音がなりつつ開けられた扉の先には、ゾッとするほど片付けられた兄の部屋があった。昼間には存在したはずの兄の抜け殻はそこにはなく、あれだけ汚れていた床も綺麗に片付けられていた。最早、兄など最初から存在していなかったかのように綺麗になっている。僕は一抹の不安を抱えながらも、部屋に1歩踏み入る。

 瞬間、クシャ、と紙が潰れる音がした。驚きつつも踏みつけた足を上げ、その先にあった紙を手に取る。そこには見たこともない字で『遺言』と書かれてあった。そこで気がつく。これは兄の最後の言葉だろう、と。僕はものすごい速さで綺麗に折りたたまれたそれを開き、そこに踊っている文字列を読み始めた。それは、兄の、そのままの気持ちを綴っていた日記のようなものだった。


『俺はどうやら、この世に向いていないらしい。ことある事にきょうだいからは白い目で見られ、外に出れば近所からヒソヒソと陰口を叩かれる。仕事自体は楽しいはずなのに、それに付随する人間があまりにも煩わしい。かつ、俺は世間で当たり前だとされている事がてんでできない。きょうだい達はみな成功しているというのに、俺は1人この体たらく。唯一の心の拠り所は、どこからか来た愛犬のカトトスだけ。あれだけ可愛がられていたカトトスの世話は、結局俺が1人やっている。来た時からそうなるだろうとは思っていたけど、本当にそうなっている。きょうだい達は可愛がるだけ。餌をやったりおもちゃを与えるだけ。根本的な生き物としての世話はやりたくないらしい。理由は簡単、面倒臭いから、だろう。そんなことを俺1人でやっている。これすらもあいつらからは異常なものだと映っている。俺は本当にこの世に向いていない。人間としても、生き物としても。

 だからおれはこの世とオサラバしようと思う。カトトスも寿命だったようだ、ついさっき息絶えてしまった。眠るように逝ったのだから、苦しみはなかったと思いたい。だからカトトス、俺も一緒に逝くことにしたよ。それなら向こうでも寂しくないだろ。そろそろ俺は疲れてしまったんだ。だからカトトス。虹の橋を渡るの、少しだけ待っててくれ。すぐに追いつくからさ』


 読み終わった瞬間、僕は何も言葉が出てこなかった。あの兄は、先に死んでしまったカトトスを追って自死をしたのか。そんな単純な理由で、兄は首を吊ったのか。その答えが出てきた時、僕はその場に立つことなど出来なくなってしまった。世間への絶望でも、僕らへの失望感からでも、精神を病んでしまった訳でもない。ただただ、カトトスと一緒にいたいがために、兄は死んだのだ。クシャリ、とその遺言書が歪む。もう何もやる気が起きなかった。どうやっても、兄の人生に僕らはいなかった。兄の人生で僕らは、ただのきょうだい達でしか無かったんだ。

 不意に遺言書の下の、とても見えづらい場所に何かしらの文字が踊っているのが見えた。もう何も見る気はなかったが、どうしてもそれは気になってしまって、目を凝らしてそれを解読する。


『あと、多分これを見てるのあいつだと思うから書いとく。あの時言えなくてごめんな。お前の書いた小説、面白かったよ。賞おめでとう』


 瞬間、僕の目から熱いものが溢れ出てきた。それは止まることを知らず、どんどん流れてきてしまう。その流れ出てきたものによって、遺言書は次第に水分を吸って、くしゃくしゃになってしまう。止めなければならないのに、何故かそれは止まってくれない。声を出すにも一苦労だ。僕は、なんで、これを見つけてしまったんだ。なんでこれを読んでしまったんだ。兄は、文句を言いたい兄は────



もういないのに。





 あの日から1年経った。兄が死んだ、ハロウィーンだ。手続きは問題なく進み、処理も一通り終わってひと段落着いた。もう兄に振り回されることも無い。きょうだい達はもちろんのこと、僕も普段通りの日常に戻りつつあった。だが僕はそうもいかない。今日はとても大事な日なのだ。僕の人生で、本当に大事な日。

 今日は兄が死んだ場所である、兄の部屋に来ている。定期的にハウスクリーニングを入れているからか、綺麗なままを保っているその部屋は、僕を迎え入れてくれたようにも思える。よかった、とても大事な日だから、少しでも汚くしてしまっては台無しだ。なんと言っても今日はハロウィーン。西洋のお盆なのだから。


「遅くなったけど、ごめん。僕もようやくそっちにいけるよ。謝りたいことも、言いたいことも沢山あるけど───……」


 天井から紐をぶら下げ、輪っかを作る。そしてその輪っかに首を括り付け、すっと目を閉じる。まぶたの裏に浮かぶのは、カトトスと共にこちらを見て待っている兄の姿。



「『トリック・オア・トリート』」



 ハッピーハロウィーン。また昔みたいに、いや、今度はカトトスと3人でお菓子を配りに行こうよ、兄ちゃん。



 

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