友達、それからクリスマスプレゼント

武内ゆり

友達、それからクリスマスプレゼント①

 最近、夕暮れが本当に早い。午後4時になったら、もう暗くなっている。


 イルミネーションの洪水が、夜の川に映っている。モダンな街灯のついた橋を渡りながら、私はそれを眺めている。


 さっきスマホで確認した天気予報によれば、今夜は雪が降るみたい。少しだけ、ウキウキする。初雪って、あっけなく溶けてしまうことくらいは、知っているけど。


 横浜駅を階段ではなくて、エレベーターで降りてみると、暖かい木の色をした、おしゃれな空間に入れる。コンクリートと電子掲示板だらけの、どこにでもあるような駅とは違って、少し、特別感がある。


 ふと、ピアノの音が聞こえてきた。


 抑揚のある、精巧な演奏。誰かが生で弾いている響き。どこかにグランドピアノがあるのかな。私はそう思って、顔を上げる。


 楽器は、高価で、精密に作られていればいるほど、弾き手の心を繊細に伝える。心がおざなりになっていたら、その演奏はどんなにうまくても、美しいとは思えない。もちろん、そもそも上手い方がいいに決まっているけど。


「……」


 私はふと視線を下げて、自分の手を見る。リボンのついたライトブラウンの手袋を、外す気分にはなれなかった。


「私にその資格なんて」


 最初はとても広がっていて、キラキラしているように見えた道は、徐々に針の先端のように狭まっていく。


 道の先には扉があった。

 私は扉の前まで来て、立ち止まってしまった。


 ちょうど、遠近法で描かれた水扁線(すいへいせん)へと続く道を、自分の指の大きさだけが変わらないまま、なぞろうとするかのように。そして絵の世界に入れないまま、指が離れていくように。


 いいえ、それは違う。目の前で扉が閉まるのが怖くて、自分から逃げ出したんだ。閉まっていく絶望を見ないように。自分の弱さを見て、失望してしまわないように。


 本当のピアノは、自分の全てをさらけ出さないと弾けない。プロは、自分が自分であることに耐えて、ピアノに自分の全てを流し込む。


 私には、それができなかった。


 私は、あの日からパタリと、弾くのをやめてしまった。親や友達は、いろいろ言ってきたけど、今はもう、誰も、何も言わない。


 これでよかったのかな。


 人生はどうして、一つの未来しか選べないのだろう。自分が何人もいる世界を想像してみても、イフの世界を眺めて、ため息をついても、結局この人生を歩めるのは私だけ。


 選べたかもしれない未来を見ても、選んでいたかもしれない過去を見ても、どうしようもないことは知っているはずなのに。


 考えてしまう。何度も、何度も。


 待ち合わせ場所は、コンコースにあるコーヒーショップの前にしようと、約束していた。していたんだけど……時間になっても、由美はなかなか来ない。仕方がないよね、と思う。


 由美は必ず10分は遅れてくる。最初は「約束の意味がないじゃない」と思ってみたりもしたけど、その時間は、自分の心を落ち着かせて、友達の前に出す自分を作る時間だと、しばらく前から思うことにした。


 コーヒーショップのショーケースには、美味しそうなサンプルが並んでいる。「スペシャルブレンドを入荷しました!」という手作りのポップが目に入った。それよりも、いちごが乗っていて、ピンクのソースがかかっているワッフルケーキに、心を惹かれた。


 今度食べてみたいな。その今度がいつ来るのか、ちょっと分からないけど。


 ガラスにうっすらと自分の姿が映っている。どんな場面でも使いやすい、黒色チェスターコートで身を隠している。足元にはスニーカー。おしゃれといえば、最近流行った玉ねぎヘアで髪の毛をまとめたくらいで、毎年あんまり進歩がないな、と自分で思った。


「ごめん、待たせちゃって」


 由美はパタパタと小走りで寄ってくる。灰色のニットワンピースに紺色のダウンジャケットを着て、首には白いストールを巻いている。丈の長い黒ブーツとワンピースとの間に、素足が少し見えて、そこがちょっと寒そうだなと思った。メイクも、もちろん完璧。それだけおしゃれに気合いが入っているのだろう。


「ううん、待ってないよ」


 私はどうだろう、と自分の服装を見る。由美と一緒に歩くなんて、不釣り合いなんじゃないかな、という引け目が出そうになる。


 一言二言、いつものやりとりをした後、


「もう一年も、終わりかあ」


 感慨深そうに、由美は言う。由美にとって、今年の一年はたくさんの思い出に詰まっているのだろう。


「早いね」

「早いよぉ。春だと思ったらもう冬だよ。こうやってね、歳ってとっていくのかなぁ」

「あはは」


 由美の言い方がおかしくて、私は笑った。でも確かにそうかもしれない。私は何も変わっていないのに、時間だけが過ぎ去っていく。そう、時間だけが……。

 周りが変わっていく。私だけが取り残されていく。


 昔なら寂しいと言えたかもしれない。今は寂しいと言うより、物悲しいという方が近いかも。


「それね、ケンに言ったらさ、ババアみてえって。ババアはひどくない?」


 由美は言葉とは裏腹にクスクス笑っている。


「そうね」

「じゃああんたジイサンかって、んなわけないだろって」


 彼氏とのノロケ話が、いつものように始まった。由美は大学に入って変わった。今までの我慢を解放するみたいに、おしゃれにも本気を出して、彼氏を作って、サークルもやって、人生を全力で楽しんでいる。


 駅の改札を出て、一つのビルに入ると、お目当てのおいしいパンケーキ屋さんに向かう。入り口には巨大な金色のクリスマスツリーがあった。人がたくさん混雑している分、よく目立つ。


 売り場には、赤と緑の箱入り商品、ホールケーキ、チョコレート、フライドチキン……どこまでも続きそうな商品の列を抜けて、エスカレーターに乗り、私たちは登っていく。私はふと、さっきのいちご乗せワッフルケーキを思い出した。


「パンケーキ、おいしいといいね……」

「いや、絶対おいしいでしょ!」


 由美がアプリで見つけた場所だ。クリスマスっぽいことしようよと、誘ってくれた。イブは彼氏とのデートがあって、その足で、次の日に私と一緒にケーキ食べるっていうんだから、すごいバイタリティだと思う。


 5階に登って、フロアの端っこに移動する。おしゃれな服を着たマネキンが立ち並ぶ。あれを着たいと思えるくらい、似合っていたらよかったのに……。いいえ、私は見ているだけで十分、幸せだから。


 「FOUR CLOVER」と看板が見える。流石に今日は混んでいた。入っていくと、可愛らしい店員さんに「いらっしゃいませ」と迎えられる。由美が「予約で来たんですけど」と言うと、テーブル席に案内してもらった。


 メニューはテーブルに貼ってあるQRコードを読み取って、注文するらしい。由美は無地のショルダーバックからスマホを取り出して、早速かざした。


「えー、全部おいしそー」


 由美はいつでも楽しそうでいいな、と私はちょっぴり思ってしまった。スマホを覗き込むと、パンケーキだけではなくて、アップルパイとか、スープとか、ちょっとした料理の写真も並んでいる。由美がゆっくりと親指を動かしてスクロールしていく。どれも見ているだけで食欲がくすぐられてしまう。


 私はいちごと甘さ控えめのホイップが乗った、上品なパンケーキを注文した。アイスクリームとチョコソースをトッピングに追加して。由美は豪華にブルーベリーやバナナも入ったフルーツパンケーキを頼んだ。


「いやー、楽しみー、テンション上がるわー」

「ほんとにね」


 彼氏とのノロケ話の続きを聞いて、時間を潰す。先に、私の注文した品がやってきた。フォークを入れると、泡を切っているかのように、何の抵抗もなく入った。


「あれ、写メ撮らなくていいの?」

「あ……うん、まあ大丈夫」


 インスタグラムを毎日やっている由美は、その辺り、しっかりしている。目に焼き付けるということにして、私は諦めた。切り分けて口に運ぶと、スフレの柔らかさが溶けていく。


「——おいしい」

「よし!」


 由美はガッツポーズをした。すぐに由美の分も運ばれてきた。由美はアプリを起動して、すかさずスマホを横に傾ける。


「ね、千沙も写ろうよ」


 由美の提案に流されるまま、二人でピースサインをして撮った。こうやって思い出作りをしているんだな、と伝わってくる。そして由美も一口頬張ると、


「うっま」


と喜びの声を上げた。


「ここだったら絶対いけるって思ってたんだよね」

「由美って、そういうの見つけるのうまいもんね」

「でしょ?」


 満更でもなさそうに、由美の表情がゆるんだ。その素直さがうらやましい。もくもくとおいしさを噛み締める時間が通り過ぎていくかと思ったら、由美は突然、話題を変えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る