胡蝶之夢

吾妻栄子

胡蝶之夢

「ただいま」

 マンションの部屋の玄関。

 夫の仕事部屋のドアが半ば開いているのを確かめてからリビングに向かって告げ、もうすぐ六歳になる幼稚園の制服姿にお下げ髪に結った娘に声を掛ける。

玲羽れいはちゃんはお手々てて洗ってうがいしようね」

 コロナ禍に入って三年半。

 もう世間ではこの肺炎流行が収まったことになっているが、夫の仕事はこのパンデミックを機に殆どテレワークに移行したままそれがデフォルトになった。

 今日は娘の玲羽が幼稚園が午前保育になる曜日で昼食は家で取ることになっている。

 しかし、夫がテレワークの昼休みを取る時間と幼稚園から娘を連れて帰宅する時刻にはしばしばズレがある。

 このため、この曜日は食卓に夫の分の昼食だけラップを掛けて置いて出て、私たちの帰宅前に昼休みに入った場合には自分でレンジで温めて食べてもらうようになった。

 リビングのガラス貼りのドア越しに電子音楽のメロディーが流れてきた。

 またやってる。

 半ばウンザリしながらドアをガチャリと開ける。

 昼食のチキンステーキに掛けたバジルソースの匂いが鼻先を通り過ぎた。

「おかえり」

 部屋着姿の夫はテレビの画面に目を注いだまま告げた。

 近頃ずっと、彼は昼食もそこそこに春秋時代の中国を舞台にしたゲーム「呉越無双ごえつむそう」を昼休みが終わるまでプレイしている。

 このゲームのヒロインは中国四大美女の一人で呉王ごおう夫差ふさに嫁いだ越の美女・西施せいしだ。

 ただし、主要な女性キャラが一人では寂しいと判断されたのか、同じように越の美女として呉国に嫁がされた鄭旦ていたんがサブヒロインというか実質はもう一人のヒロイン格として出てくる。

 大きく円らな瞳に緋色の衣装、鳳蝶あげはちょうの髪飾りが西施、やや吊り気味の切れ長い瞳に藍色の衣装、モルフォ蝶じみた浅葱色の蝶の髪飾りが鄭旦だ。

 二人は越人であるのだが、呉越の戦いでは嫁ぎ先の呉側として夫差と共に戦うキャラクター設定になっている。

“巣にお帰りなさい!”

 これは特に武器を持たない西施が敵を攻撃する時の決め台詞だ。

 そう言うと、彼女の背後からまるで神風さながら強風が吹いて紅色の衣装も翻る仕様である。

“この剣で舞いましょう!”

 こちらは越女剣を持つ鄭旦が攻撃する時の決め台詞だ。

 そして、藍色の衣装を纏った彼女が白刃を一振りすると、周囲の兵たちが一気に斃れる。

 率直に言って、夫差や伯嚭はくひのような男性キャラクターよりこの二人の方が戦闘力が高いのではないかとすら思うけれど、そこがゲームとしてのお約束なのだろう。

 画面ではどうやら夫がプレイしている呉軍側が勝ったようだ。

 ドラマのモードに切り替わる。

“大王様、こちらも貴方様のお膝元になりました”

“そなたたちのおかげだ”

 笑顔を浮かべる二人の美女。

 しかし、次の瞬間、藍色の衣を纒う方が倒れる。

 地に転がる青い蝶の簪。

“鄭旦!”

 王者の悲鳴じみた叫び。

 場面は切り替わって宮殿の寝室。

 病床に伏す鄭旦と看病する西施。

修明しゅうめい

 鄭旦の字を呼んで細く蒼白い手を取る西施。

ねえさん”

 虚ろな目で西施に向かって続ける鄭旦。

“うちにかえりたい”

“うん”

 円らな瞳から涙をこぼして頷く西施。

 夢を見るような瞳で微笑んでもう片方の手を伸ばして続ける鄭旦。 

“あのうみで、また二人で小魚を……”

 言葉の途中でファサリと敷布の胸に落ちる蒼白い手。

 場面は切り替わって、舘娃宮の庭の池にまた一枚落ちていく朱色の桐の葉に見入る夫差。

 傍らには鄭旦の遺した越女剣と浅葱色の胡蝶の簪。

 と、そこで画面が停止してデータセーブのコマンドが出た。

「そろそろこのゲームもクリアだな」

 夫は呟いた。 

 「呉越無双」だから恐らく夫差が死んで呉が滅ぶところで終わりなのだろう。

「お腹空いた」

 洗面所で手洗いうがいしてまだ小さな口元を濡らした制服姿の玲羽がやって来た。

「お着替えして食べようね」

 私はガーゼハンカチでさくらんぼじみた娘の唇を拭いつつ答えた。


*****

「寝ちゃったか」

 家族全員分の食器を洗い終えてふとリビングを見やると、ソファでドラえもんのぬいぐるみを抱いたまま玲羽は象牙色の丸い頬にお下げ髪の片方を貼り付けるようにしてすやすやと眠っていた。

「今日は英語があるのに」

 二時半に家を出て三時からのクラスに出る。

 壁の時計は一時半を回ろうとしている。

 後一時間は猶予がある。

 そう頭の中で計算しつつソファの娘の肩まで包むようにしてライトブルーの地に白い蝶の模様が入ったブランケットを掛ける。

 正直、これは玲羽が赤ちゃんの頃から使っていて生地もくたびれているのだけれど、この子のお気に入りなので夜寝る時はもちろんお昼寝のお供にも使っている。

 それはそれとして、私も少し眠いから少し横になろうか。


*****

展翅てんし、もう起きなさい」

 目を覚ますと、髪型も着ている物も中国の時代劇の村人じみているが、顔も声も背格好も紛れもなく実家の母にしか見えない人がいた。

 率直に言えば、風貌も今の七十近いそれではなく、四十代半ばほどに若返っている。

「お母さん?」

 見回した家の中も実家はもちろん今住んでいるマンションとは違う。もちろん、私の着ている物も。

「もう十三にもなるんだから自分から起きて仕事するんだよ」

「はい」

 私、もう十三どころか三十七のはずだけど?

 そう思いつつ見やる自分の手も足も若返ったというより幼くなったことに気付く。

夷光いこうさんなんかあんたくらいの頃には毎朝早くから洗濯に行ってたよ。確かに器量も良かったけれど、そういう心がけも良いじゃないと偉い所になんか嫁げないの」

 比較されて貶されているようだが、私にはそのイコウさんが誰だか判らない。

 こちらの表情をどう取ったのか、面差しは若返ったのに身なりは異様に古めかしくなった母はやり切れない風に息を吐いた。

「あんたは本当にぼんやりした子ねえ」

 これは元の世界でも良く言われた言葉だ。そこに妙な安堵を覚える。

「うちはもうお父さんもいないんだからしっかり働いて、少しでも良くしてくれる所にお嫁に行ってちょうだい」

「分かった」

 本当は納得などしていないが取り敢えずは頷く。

 こちらの世界では父は若くして亡くなってしまったようだ。

 そう思うと、木造りの粗末な家の中が急にガランとした脱け殻めいて見える。

 こちらの思いをよそに耳慣れた母の声が呟いた。

「あのいくさに敗けてから、本当にろくなことがないよ」


*****

 こうして私の異世界転生というか転移生活が始まった。

 といっても、この世界の母親は装いが変わっただけで元の世界の母そのものだし、鏡なんて高価な物はこんな村人の家にはないが、井戸桶や湯呑みの水に映る顔形は確かに少女時代の私だ。

 住んでいるのはどうやら春秋時代の中国の苧蘿村ちょらそんのようだが、西施や鄭旦なんて大それた名ではなく姓は周、母からの呼び名は展翅てんしだ。

 隣近所からは「周大娘しゅうだいじょう」と言われることが多い。「周家の長女さん」といった意味だ。

 父親は呉越の戦いに兵士として駆り出されて亡くなったようで、近辺でも同様の事情で夫や息子を失った家がポツポツある。

「周さんとこのじょうさんもすっかりべっぴんさんになって」

 ご近所の東施とうしさんのお宅のおばさんはこちらも同じく戦争で夫を失った後家だが、羨むような、悲しむような面持ちで私たち母子に語る。

 その隣で十五、六歳の――つまり、この世界では私より二、三歳上の娘さんが小首を傾げて太り気味の浅黒い顔の鼻根に皺を寄せて顰めっ面を作る。

「あたし、きれい?」

「見たくねからやめろ」

 おばさんは我が娘の頭をはたいて嘆息する。

「おんなじの家でもうちの子はこれだから」

 苧蘿村には施を名乗る家が二軒あり、区別するために東の家を「東施」、西の家を「西施」と呼んでいた。

 西施の家に生まれた夷光いこうさんは私がこの世界で目覚めた時には既に宰相様と村を離れていたが、東施の家には後家のおばさんと「東施大娘」こと村一番の醜女と嗤われる娘が二人で暮らしている。

「玉の輿どころか嫁の貰い手なんてありゃしない」

 苦虫を噛み潰したようなおばさんをよそに東施大娘は二組の母娘の脇を漂うように飛んできた色彩にパッとドングリ眼を輝かせた。

「ちょうちょだあ」

 肥り気味な体に反してゴム毬じみた軽やかな走りで追い始める。

 黒地に鮮やかな浅葱色の筋が入った翅を持つあの蝶は青条揚羽あおすじあげはだろうか。

 それとも、その原種的な一匹だろうか。

「待てえ」

 水田脇の畦道を駆けながら浅黒い丸顔の頬に笑窪を刻んで蝶を追う東施の娘さんは実際のところ姿形はそこまで醜くはない。

 けれど、どうやら体は大きくなっても心は五、六歳の子供のままという人らしく、この時代この地域ではひたすら嗤われ蔑まれる位置付けのようだ。

「世の中のことは、段々良くなりますよ」

 十三歳の少女の姿をした私の隣に立つ母は重たい声で語った。

 おばさんは苦い顔つきのまま暫し黙していたが、口を開きかけた。

「あっ」

 これは私の声だ。

 畦道を走っていた東施の娘さんが転んだのだ。

「ウエーン」 

 顔も着物も泥だらけにした、二十一世紀の日本ならもう高校生になるくらいの村娘は辺りも憚らず泣き出した。

「ああもう」

 東施のおばさんは白い物の目立つ後ろ頭を見せて駆け寄る。

「おかあちゃん、いたいよう」

「ほら、しっかり立ちな、復輝ふっき

 自分より大きくなった娘の体を抱き起す。

「おバカさん、せめて体だけは大事にしておくれ」

 母親は泥と涙でグシャグシャになった娘の顔を袖で拭った。

 こちらも隣の母に背中を押される形で薪取りのための山への道を歩き出す。

 後ろからは密やかだが涙を秘めた声が届いた。

「あんたまで死んじまったら、あたしゃもう何の望みもないんだから」

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