8.『昼下がりのコーヒーはあなたと一緒に』
お母さんは私より早起きだった。
夢と現実の境目を泳いでいると、そのうち音が聞こえてくる。
それは着替える音だったり、ストーブの火が点る音だったり、目玉焼きを焼く音だったりする。
それから、匂いだ。
柔軟剤の匂い、灯油の匂い、お腹の空く匂い。
そんな贅沢な日常の気配に、私は夢の世界を奪われたと腹を立てていたっけ。
■
懐かしい匂いがする。
もう戻れない、いつかの日を思わせるような匂い。
私は苦手で、でも匂いは好きで、苦くて、お父さんの匂い。
私はぼんやりと、あぁもう冬なんだな、なんて考えていた。
「んん……」
「――お目覚めですか? おはようございます、紗那さん」
「ん。んん……ん?」
誰の声だろう。お母さんじゃない。
女の人の声だから、お父さんでもなくて――。
「ふふ。ねぼすけさんですね」
「あっ、えっ!?」
そうだ。
私は昨日、お姉さん――明莉さんと一緒にホテルに泊まったんだっけ。
半分寝ていたとはいえ、妙に懐かしい錯覚をした。
「……おはようございます。あの、ひょっとして私、寝すぎました?」
「いえ、ぐっすり眠れたみたいでよかったです」
「っ……」
昨日の私は明莉さんにぐっすり寝てほしいとか考えてたのに、自分が爆睡してたら世話ないな!
私も私で、疲れが溜まっていたということなのだろうか。
ところで陽の射さないこの部屋では、今が何時かもわからない。
あくまで体感、体感だ。
19年の人生経験からくる感覚では、もしかして、今は午後なのではないだろうか。
「あ、あの……明莉さん、お仕事、とか……」
「そうですね。今日も出勤の予定でした」
「ひっ」
頬に指をあてて、考える素振りを見せる彼女の姿は、私の胃を締め付けた。
完全にやってしまった。
そうだよね。普通に考えたら、私を置いて帰るなんて選択は難しいはずなんだ。
私の表情に差す影に気づいたのか、明莉さんは焦ったように目を見開いた。
「あ、紗那さんのせいじゃないですよ! 私、昨日の時点でもう出勤できないだろうなって思ってたので」
「でも……」
「私、仕事辞めることにしたんです」
彼女は、当然のようにそう告げる。
その佇まいは、ヤケにやってるとか、自暴自棄とか、その場の勢いとか、そういう感情とは程遠いように思えた。
それどころか、憑き物が落ちたようにさっぱりしていて。
「もう、限界だったんです。私はここで仕事を辞める、そういう運命だったんじゃないかなって」
「……そう、ですか」
「なんて、大げさですかね? 退職とか、転職とか、別にありがちですしねぇ」
退職も転職も、たしかにどこにでも転がってる話なんだろうけど、あいにくと私はどちらも未経験だ。
だからなんて返せばいいかわからなかったけど、きっと彼女は新たな門出を迎えるところだろうから、たぶん。
「おめでとうございます」
「えっ?」
「伝えるなら、おめでとうかなって思って」
「……紗那さんは綺麗ですね。眩しいくらいに」
そう言って、明莉さんは微笑みながらコーヒーをすすった。
その姿が絵になる彼女は、私よりちょっぴりオトナだ。
「紗那さんも飲みますか?」と気を遣ってくれたけど、ちゃんと首を横に振っておいた。コーヒーは私にはまだ苦い。
そんなオトナな彼女は、私がどうこう言う余地もなく、彼女の人生を歩んでいくだろう。
やっぱり私よりよっぽどしっかりしている。
それはそれとして、まったりコーヒーをすすってる場合じゃないような気もしてるんだけど。
「でも、今日の今日で退職できるわけじゃないんじゃ?」
「そうですね。サボり……ばっくれ? そんな感じのヤツです」
「そんな感じのヤツかぁ……」
「でも、いいでしょう?」
「えっと、うん、はい。いいと思います、とても」
私のしどろもどろな返答に、満足げな微笑みで彼女は頷く。
サボったっていい。ばっくれてもいい。
そんなもんだ。
それくらい、気楽に生きたっていいよね。うん。
さて、寝起きの頭もようやく冴えてきたところで、私は重い身体を持ち上げてベッドから脱出した。
なんたって寝心地がよすぎる。
気を抜いたら2度目の爆睡に洒落込んでしまうところだ。
慣れないフローリングの感触によろつきながら、低めのソファに腰掛ける明莉さんの隣に座る。
なんとなく気はずかしくて、顔を向けることはできなかった。
「なに照れてるんですか」
「て、照れてないですけど!?」
「照れてますね。紗那さんは照れてます」
「だから照れてな――」
もしかしたら図星だったのかもしれない。
少なくとも、面と向かうのは照れくささがあった。
だからテーブルにちょこんと置いてある灰皿とにらめっこをしてたんだけど、そんなことを言われたもんだから、つい咄嗟に振り向いて。
そしたら、そこには見たことのない表情の――いたずらっぽく笑う明莉さんがいて、ああ、きっと本当の明莉さんはこういう無邪気な人なんだろうなって、想像して胸がじんわりとあったかくなった。
「明莉さん」
「はい、なんでしょう」
「私を弄ばないでください」
「弄んではいませんよ!?」
でも、ちょっと子ども扱いされた気分。
私だってもう立派なオトナなんだから! コーヒーは苦いけど……。
とりあえず、視線で抗議の意をたっぷりと示しておいた。
彼女はあっけらかんとしていた。効き目は薄かったらしい。
さて、そろそろチェックアウトの時間も近いはずだ。
次のことを考えないといけない。
「そろそろ出ますか?」
立ち上がった私に、明莉さんが声をかける。
彼女も頃合いを見ていたらしく、一緒にソファから離れた。
「はい。私は予定通り万花町に行きます。明莉さんは?」
「……紗那さん。ものは相談なんですが」
さっきよりも畏まった声で、明莉さんはそう前置きした。
あまりいい予感はしない。
彼女が私の想像する通りのことを考えていたら、それは頷くことができないからだ。
「私もダンジョンに連れていってくれませんか?」
やっぱり。
明莉さんが私のいる世界に興味を持ってくれたことは、素直に嬉しい。
きっとそれは私と共有する時間を楽しいと思ってくれたからだろうから。
でも、ダメだ。
それだけはできない。
「明莉さん、ごめんなさい。それはできません」
「……危ないから、ですよね」
「……それと、足手まといになるからです。迷宮慣れしてない明莉さんを守りながらじゃ、私の行きたい場所にはたどり着けないので」
きっぱりと言った。
だって、私は明莉さんに危険な目に遭ってほしくないのだ。
本当に、本当に。
ナイショのことを言えば、きっと私なら明莉さんを守りながら深層を探索することはできるだろう。
今回は無茶をするつもりはないし、緊急時でもない。
恩人のあの人を探すという目的はあるけど、どうせもう数日前の情報だ。いまさら遅いだろう、と内心では割り切ってる。
だから、明莉さんに降りかかるであろう危険はほとんどない。
でも、ほとんどだ。確実ではない。『万が一』が、迷宮内では死に至る呪いなのだ。
それだけは絶対に嫌だ。
明莉さんは、これから新しい道を歩んでいくのだから。
「……そうですよね」
「明莉さ――」
「――じゃあ私、勝手に潜っちゃおうかなぁ」
「明莉さん!?」
「右も左もわからない迷宮探索に無謀にも挑戦した私は、きっと呆気なく死んじゃいますね。すごく強い魔物に、ひと裂きでザシュッて。あーあ、でももし、紗那さんが守ってくれたらなぁ」
「明莉さん……」
これはいけない。
良心につけこむようなやり方は、信頼に傷を付けてしまう。
あとそもそも、本当にそもそもの話なんだけど、迷宮内であまり他人を当てにしてはいけないのだ。
命の危険を感じるほど強大な魔物が現れたら、どうせみな我先にと逃げ出していくのだから。
私が本気で注意するか迷っていると、彼女はそれよりも先に表情を変えて、泣きそうな顔をしながら笑った。
「なんて、冗談です。ほんとに、冗談です。困らせてごめんなさい」
「――――」
「紗那さんにちょっとだけ、困ってほしかったっていう、私のわがままです。我ながら性格悪いですねぇ」
明莉さんは泣かなかった。
声は震えていたけど、誰が見てもすぐにわかるくらい目頭に涙は溜まっていたけど、泣かなかった。
泣くのを我慢していることは、わかった。
私は迷って、どうしていいかもわからないまま、おずおずとその髪に触れ、ゆっくりと胸の中に抱き寄せた。
「――っ。紗那さんは、優しいですね」
「連れていけなくて、ごめんなさい」
「ううん。私のほうこそ、ごめんなさい。でももう少しだけこのままでいさせてください」
ふわりと漂う香りは、たった一晩で馴染んだ明莉さんの香りだった。
しばらくの間、私はその香りと、柔らかな手触り、優しい体温を胸いっぱいに感じる。
一分か、一秒か。
ほんの少しだけの温もりはやがてじんわりと離れていって、名残惜しさだけがこの手のひらに残った。
やっぱり私も寂しいらしい。
私から離れた明莉さんは、スーツの袖で涙を拭うと、鼻をすすった。
「――紗那さん」
「はい」
「ずっと、友達でいてください」
「――はい、もちろんです」
その返事に、明莉さんもまた寂しげに笑う。
また会える。いつでも会える。
暇だったら遊びにでも誘うし、ムカつくことがあったらファミレスに呼び出して愚痴に付き合わせるのだ。
明莉さんに大切な人ができたら祝福して、私の失恋話で笑わせてあげる。
それが友達ってものだから。
ああ、それと――、
「もし、本当の本当に迷宮の世界にくるんだったら、まずはライセンスを取って、安全な階層から始めてみるといいです」
「はい。そうします」
「でも、かなり危険なお仕事です。できれば明莉さんには安全なところにいてほしいですけど、自分がやりたいと思ったのならやるべきです」
「はい。素敵な考え方です」
「それと、もし明莉さんがダンジョン配信を始めたら、絶対に私がリスナー1号になります。それだけは譲りません」
「ふふ。絶対に見てくれる人がいるなんて、私はラッキーです」
それと、あと、伝えるべきなのは。
そうだ、大事なこと。
「――ある程度迷宮に慣れたら、一緒に探索をしましょう」
「――! はいっ!」
それを聞き届けて、明莉さんは今度こそすっきりと笑った。
明莉さんが本当に探索者になるとして、その日がくるのはまだ当分先になるだろう。
普通に他の職種に転職するかもだし。
でもそれはそれでいい。なにを選んでもいい。
どんな道を行っても、友達は友達だ。
「じゃあ、帰りましょう」
「はい、また」
「またね、明莉さん」
手を振り合ってから、私が先に部屋を出る。
なんでも廊下に置いてある精算機で料金を支払うらしい。
廊下といっても、他の部屋とは繋がっていない、この部屋だけの廊下だ。すげぇ。
お部屋で精算できるなんて便利だね。
ええと、14000円の部屋だから、ふたりで28000円か。
この辺りの相場はわからないけど、これだけの設備と最高のジャグジーが備え付けられた部屋だ。
そう考えると安いほうだな、こっそり明莉さんのぶんも払っちゃえ、なんて考えながらボタンを押す。
お会計は14000円だった。
「……え?」
14000円。かける2。
28000円だ。28000円だよね?
私の計算が間違ってるのかな……そんなことある?
え、私ってば算数苦手だったっけ?
2倍、2倍だよ?
14000円+14000円……だよね? 掛け算の考え方ってこれであってるよね?
えぇ……?
――ラブホの料金は人数ではなく部屋ごとに設定されている。
ネットでそんな記事を探し当てるまで、「まさかカメラで監視されているのか!?」と周りをキョロキョロ警戒していた私は、きっとアホだったと思う。
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