第五章 戦場に散った真の英雄たちへ捧ぐ。
第129話 去る者
統一暦一〇一〇年の秋。エーデルシュタイン王国とアレリア王国、その戦況は動かない。
アルンスベルク要塞を奪還後、アレリア王国の軍勢はさらなる攻勢には出ることなく、要塞の侵攻拠点化をひたすらに進めている。三千ほどの兵力で守りを固め、大量の物資を運び込み、さらに要塞の後方にも補給拠点を置いている。
明らかに、万単位の軍勢による大攻勢の前兆。しかしその兵力自体を集結させる様子は未だ見せていない。
今や大陸有数の大国に育ったアレリア王国も、一国を征服した上でアルンスベルク要塞を奪取した後、直ちに大規模な軍事行動を起こすだけの体力や戦力があるはずもない。万単位の大軍を動かすとなれば、準備に数か月を要するのは必然。
王国中央に後退させた精鋭たちの休息、各地からの部隊移動、傭兵の招集や徴集兵の動員用意など、この秋から冬にかけてじっくりと準備を進めるものと見られている。
アレリア王国側の都合で得られた猶予を逃さず、エーデルシュタイン王国側も動いている。今や安全ではなくなった要塞周辺からの王国民の一時避難。そして、新たな防衛線となった防御陣地を拠点とした物資集積と、兵力集結の準備。王家に仕える武官と文官たち、そして領主貴族たちも、それぞれが務めに奔走している。
壮絶な死闘から、より壮絶な決戦に向けた、嵐の前の静寂。その中で、エーデルシュタイン王国社会では挙国一致して勝利に突き進まんとする熱量が高まっている。
丘の上の戴冠式は、既に伝説的な一幕として語り広められている。威厳と神秘性に満ちた戴冠式を目撃した者たちはそれぞれの故郷に帰り、主観による感想を多分に含みながら、その光景を伝えている。
女王は力強く神々しく、その背には後光がさしていた。千人の貴族と一万人の軍勢が整列して戴冠式を彩っていた。女王が王冠を戴いた瞬間、空が虹色になった。神が降臨し、女王の戴冠を祝福し、勝利を約束した――多彩かつ巨大な尾びれに脚色されながら駆け巡る噂は、エーデルシュタイン王家の、女王クラウディアの威光をますます高めた。
各地を渡り歩く商人たちも、クラウディアの威光を高めることに貢献した。およそ一万もの人間が集う場に商機ありと見て、勝手に群がっていた彼ら商人もまた戴冠式の目撃者となり、その様を伝えた。彼らから話を聞いた同業者たちによって、噂はさらに伝播した。
彼ら商人の語り口は他の平民たちよりも幾分か理性的だったが、だからこそ言葉は説得力をもって広まった。そこには参戦者が増えて戦争が大規模になるほど商機が大きくなるという打算もあったが、大半の場面では彼ら自身もそう信じながら、あの勇ましい女王の下でならばこの国は決戦に勝利するだろうと語った。
それらと合わせて、エーデルシュタイン王家は子飼いの吟遊詩人などを動員し、アレリア王国の野蛮な振る舞いについても広めた。エーデルシュタイン王国民を強制的に動員し、要塞攻略のための作業に従事させたかの国の振る舞いは、吟遊詩人たちが感情豊かに語ることで王国各地の民の怒りを呼び起こし、その怒りもまた戦意高揚に寄与した。
王国全土に熱が満ちる中で、王国の中心たる王都ザンクト・ヴァルトルーデもまた熱を帯びていた。いつも以上に活気に満ちた王都に――フリードリヒは一時、帰還していた。
戦況の動かない最前線の指揮は、ヒルデガルド連隊長代理のディートヘルム・ブライトクロイツに今は任せ。王都の市街地を包む賑やかさからも離れ。貴族街にあるホーゼンフェルト伯爵家の屋敷、その敷地の一角にある一族の墓の前に立っていた。
戦死した先代当主、エーデルシュタインの生ける英雄、マティアス・ホーゼンフェルト。その遺灰を墓に納める、小さな葬儀の後だった。
参列したのはグレゴールをはじめとした従士や使用人たちと、その家族。すなわち伯爵家の関係者のみ。他の連隊の仲間たちや繋がりの深い貴族たちは各々の義務を果たしている最中で、女王クラウディアも決戦に向けて奔走し、今は王都にいない。
決戦を勝利で終えた暁には、先王ジギスムントの国葬と併せ、マティアスの軍葬も盛大に執り行われることが決まっている。その上で今は、マティアスの遺灰を先祖たちの眠る墓にひとまず安置するため、そして当主を失ったホーゼンフェルト家が一区切りをつけて前に進むため、中央教会より総主教を招いて葬儀が行われた。
その葬儀も終わり、総主教も役目を終えて帰った後。既に亡き養父の遺灰が納まった墓を、フリードリヒは静かに見つめている。傍らにはユーリカが寄り添っている。
「……」
墓は花に飾られ、その上品でささやかな彩りが、しかし今はかえって寂しい。父の肉体は灰となって悠久の眠りにつき、魂は神の御許に旅立ち、彼はもういない。親子だったのは僅かに二年半。しかし確かに自分の父であった彼は、もうこの世のどこにもいない。
葬儀は生者のためにこそある、とはかつて読んだ書物の言葉。なるほど確かに、こうして葬儀を終えることで、何か乗り越えるべきものを乗り越えたような気はする。だからこそ、覚える寂しさもまた、今の自分に必要なものとして受け入れられる。軍人としての忙しさから一時離れ、こうして寂しさに浸る時間を得ていることを、幸いと思うべきか。
「旦那様」
そのとき。思考にふけるフリードリヒのもとへ静かに歩み寄ったのは、屋敷を守る家令のドーリスだった。
彼女は少し心配そうな顔でこちらを見ていて、そこから察するに自分は時間を忘れ、随分と長く無言のまま墓と向き合っていたらしい。
旦那様、と自身が彼女から呼ばれることには、この数日だけでは未だ慣れない。
「済まない。そろそろ屋敷に戻るよ……こうしてつつがなく葬儀を終えて、父を穏やかに見送ることができたのも、君が色々と手配してくれたおかげだ。本当にありがとう」
フリードリヒが感謝を伝えると、ドーリスは穏やかに微笑み、首を横に振る。
「お礼を申し上げるのは私の方です……私は旦那様が養子としてこの家に迎えられるまで、先代様がとても寂しい最期を迎えられるのではないかと心配に思っていました。継嗣となった旦那様に看取られて、こうして見送られたことで、先代様はきっと随分と救われたはずです。心地よく旅立って、今頃はアンネマリー様やルドルフ様と神の御許で再会されていることでしょう。ありがとうございます、旦那様」
彼女の言葉を聞きながら、フリードリヒは再び墓に視線を向ける。
魂は神の御許で休み、そして遠い未来にまた輪廻に還る。今、父は全てから解放されて平穏の中にいる。そう信じたい。
「どうか、せめて今夜一晩はゆっくりとお休みください。明日には戦場にお帰りになるとのことですから」
「……そうだね。そうするよ」
そう言われ、フリードリヒはドーリスの方に視線を戻す。
戦況は動いていないが、今この時に将の一人が長く前線を空けることはできない。こうして屋敷に帰って過ごすのは僅か三日足らず。昨日帰宅し、明日の朝、また戦場に発つ。
主が留守にすることも多いこの屋敷を、家令の彼女は長年守ってきた。この屋敷で人生のほとんどを過ごしながら、家令になる前も含めればこれまでに三人の当主の死を見送ってきたという。
その献身に対して、送るべきは謝罪の言葉ではないだろう。
「家令のあなたがこの屋敷を守ってくれているから、僕たちは安心して王国貴族として、軍人として務めを果たすことができる。心から感謝しているよ」
「まあ……先代様もそのように仰ってくださったことがありました。お言葉も語り方もお父上にそっくり。本当に、あの方のご子息ですね」
感極まった様子のドーリスに笑みを返し、最後にもう一度マティアスの眠る墓を振り返り、フリードリヒは歩み去る。
明日からはまた現実に戻り、戦いに臨む。父もきっと、神の御許から見守ってくれる。
・・・・・・
「ふんっ、それにしてもまさか、この儂が隠居なぞする羽目になるとはな」
「本当に何回同じ愚痴吐けば気が済むんだよあんた」
現在の最前線の拠点たる防御陣地、その司令部で鼻を鳴らしながら言ったのは、ヒルデガルト連隊長のヨーゼフ・オブシディアン侯爵。自身にとっては第二の父親と言うべき上官の愚痴に、ディートヘルムはこれ以上ないほどの呆れ顔で返す。
これと同じような愚痴を、もう何度も、それこそ飽きるほどにディートヘルムは聞かされた。
先の戦闘で重傷を負ったヨーゼフは、一命をとりとめたものの老齢も影響してか回復が遅れ、とうとう負傷した片足を膝の上で切断することとなった。その後も前線近くの都市で療養していた彼は、この一週間ほどでようやくまともに動ける程度まで回復した。
とはいえ、片腕ならばともかく片足になっては騎乗もまともにできない。一度落ちた体力は再び戻ることはなかったので、今や年相応の老人であるヨーゼフが過酷な軍務に耐えることも極めて難しい。結果、彼は――本人としてはひどく不本意ながら――王国軍を去ることになった。
療養中の彼を見舞いに行く度、ディートヘルムは専ら愚痴の聞き役となった。アルンスベルク要塞を守り切れなかったことへの無念。敗走後の重要な時期を寝込んで過ごし、指揮を部下に任せざるを得なかったことへの無念。女王クラウディアの戴冠の場に立ち会えなかったことへの無念。そして、軍を去らざるを得なくなったことへの無念。
無念ばかりが重なっている上官の気持ちはディートヘルムも理解できるが、それはそれとしてこうも愚痴ばかり聞かされるのではたまらない。もう散々に聞いてやったのに、連隊長職の引き継ぎのためにヨーゼフが一度前線に戻ってくる道中でも、彼はまだ愚痴を零した。引き継ぎの業務中はさすがに仕事に集中していたが、それがひと段落するとまた愚痴が始まる。
前線では他にぼやける相手もいないためと分かってはいるが、ディートヘルムとしても、自分は年寄りの話し相手になるために軍にいるのではないと言いたくなる。
「足を失くしたんだ。仕方ねえだろ。生き残っただけでも幸いだ」
「儂のような年寄りが生き残って何になる。儂の代わりに若い騎士の一人でも生きていた方が、軍にとっても王国にとっても何倍も有用だっただろうに。せめて神も、ホーゼンフェルト卿ではなく儂を連れて行けばよかったものをなぁ……第一、四十年以上も軍人として生きた身で、今さら隠居なんぞしてどう暮らせと言うんだか」
「隠居した貴族の暮らし方なんて決まってる。日がな一日、読書して屋敷の庭を散歩して、茶を飲んで昼寝するんだよ」
「なんとまあ、クソみたいにつまらなさそうな生活だな」
ディートヘルムの言葉を聞いたヨーゼフは、この上なく辟易とした顔になる。
「まったく……戦争を喜ぶわけではないが、せっかく軍人としての晩年に隣国との大戦が起こったというのに。この期に及んで戦場で死ねずに終わるとは」
大きなため息を吐きながら、ヨーゼフは二本の杖を支えにして立ち上がる。
引き継ぎを終えた今、この司令部を出て前線から王都へと向かう馬車に乗ってしまえば、戦場に戻ることはもうない。軍勢を率い剣を振るった日々も全ては過去の栄光となり、未来にあるのは片足で過ごす不自由な余生ばかり。ため息と共に、魂をも吐き出してしまったような気がした。
「連隊長閣下」
先ほどまでとは打って変わって真摯な声のディートヘルムに呼ばれ、ヨーゼフは振り返る。声と同じく真摯なディートヘルムの表情を見て、虚を突かれた顔になる。
「軍人として閣下よりご指導をいただき、閣下の指揮下で戦ってきたことは我が誇りです。お仕えできて誠に光栄でした」
その言葉に、その表情に、ヨーゼフは自分らしくもないと思いながら優しい笑みを返した。血の気ばかりが有り余るどうしようもない問題児だったかつてのディートヘルムの姿が、今や王国有数の騎士となった彼の立ち姿に重なって見えた。
「……卿は儂が育てた中でも最も優秀な騎士であり、最も有望な将だ。卿ならば、儂よりも上手くヒルデガルト連隊を率いることができるだろう。期待しているぞ」
戦場では死ねず、決戦を前に軍を去ることとなったが、少なくとも残したものはある。自分のいないこの先の戦場に、このディートヘルムが、これまで自分が導き率いた軍人たちが立ち、国を守って戦うのだ。
そう考えればなかなか悪くない。少なくとも、恥じるような去り方ではない。
ディートヘルムの敬意が込められた敬礼に、ヨーゼフは最大限整った答礼を示し、今度こそ司令部の天幕を出る。
そこに用意されていたのは、ヨーゼフを王都へ送る馬車。そして、数百人もの軍人たちの列。ヒルデガルト連隊の見知った部下たちだけでなく、フェルディナント連隊や、一部は近衛隊の連中までもがいた。手の空いている正規軍人がほとんど集まったかのような光景だった。
「……お前の仕業か?」
後ろを振り返って尋ねると、ディートヘルムは笑う。まるで昔の問題児だった頃のような笑い方だった。
「ふん、余計なことを」
自身も小さく笑い、ヨーゼフは馬車へ歩き出す。並んだ軍人たちの敬礼の中、最後まで自分の足で進む。
この日、多くの王国軍人に見送られながら、老将が戦場を去った。
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