第121話 アルンスベルク要塞包囲戦⑤
「ちっ、まずいな。このままでは埒が明かない」
敵の追撃を退けようと奮戦し、しかし思い通りにはいかない撤退戦の最前面。オイゲン・シュターミッツ男爵は舌打ちを零しながら呟く。いつも冷静沈着な熟練の士官として知られるオイゲンだが、さすがにこの状況で余裕を保つのは難しい。
態勢を立て直しきれない最大の問題点は、部隊が崩れ、兵員が交ざり合っていること。歩兵部隊は小隊単位では比較的まとまっているが、それ以上の集結を成して連係をとるのが難しく、戦列を固めることができない。
騎兵部隊をまとめ上げれば敵を退けるに足る打撃力を得られるかと思い、一度集結を試みたが、足元を歩兵が動き回る中では騎士たちも下手に移動できない。分散して力を発揮できないままとなっている。
そして弓兵部隊は、この混戦の状況では下手に矢を放てない。焦りから無謀な射撃が行われ、それが味方への誤射に陥る様もあちらこちらで見受けられる。
各大隊長はそれぞれの部下がこれ以上混乱しないよう現状を維持するのが精一杯で、オイゲンと意思疎通をとるのも難しい。
これも、敵が迅速に追撃に移ってきたために起きた事態。
後方から伏撃してきた猟兵部隊はともかく、要塞攻めに臨んでいる軍勢からも大隊規模の兵力が追撃に回ってきたのは予想外のことだった。今までロワール地方に拠点を置き、フェルディナント連隊と戦ったアレリア王国軍部隊とは練度の桁が違う。これがかの国の精鋭の実力か。
このまま全員で退却しながら敵の追撃を受け続けては、じり貧の状況が続く。そこへさらにまとまった敵兵力による追撃を受ければ壊走は必至。
この状況を打破し、フェルディナント連隊をできるだけ健在の状態で下がらせるためにとり得る手段は。
内心で素早く決断し、オイゲンが口を開こうとしたそのとき。
「伝令! 伝令! シュターミッツ閣下! フリードリヒ様より伝令です!」
退却を急ぐ騎士や兵士たちの間を縫って、一人の兵士がオイゲンのもとへ駆け寄ってきた。
「現状のままでは壊走は必至! この上は一部の兵力を決死隊として殿に残し、その犠牲をもって連隊の過半を無事に退却させることもやむを得ないものと考える! 以上、フリードリヒ様からの進言です!」
「……彼も分かっているではないか」
オイゲンはにやりと笑う。
自分が今まさに発しようとしていた命令と、全く同じ進言を届けてきたフリードリヒ・ホーゼンフェルト。この場においてこの提案を成す覚悟と度胸があるのであれば――あの若者がホーゼンフェルト伯爵の名を継ぐのであれば、敵の矢に倒れたというマティアスがたとえこのまま回復しなかったとしても。
「連隊長代理として命ずる!……己が老兵だと思う者百人、これ以上の退却を止めよ! この戦場に残り、命を犠牲に連隊の未来を繋げ!」
オイゲンが全力で声を張ると、その衝撃的な命令に周囲の者が振り向く。
さらに数回、オイゲンが命令をくり返すと、この命令を実行すべき最古参の騎士や兵士たちは覚悟を固めたようだった。彼らもオイゲンの言葉を復唱し始め、壮絶な命令は全隊に伝わる。
千人の連隊、その一割に入る古参を自覚する者たちは、退くことを止め、その場に留まって武器を構える。自分たちよりも若い者たちに引き続き退却を急ぐよう伝え、迫りくる敵に得物を振るって立ち向かう。
他の誰もが退いていく中で、退かない者たちは自然と戦闘の最前面に立つこととなり、殿の戦列が築かれていく。
「踏みとどまれ! 逆に押し返してやれ! 隊列が乱れているのは敵も同じだ!」
老兵たちに指示を下しながら、オイゲン自身も退かない。
既に齢五十が近づいた自分自身も、百人の老兵に含まれると自覚している。何より、このような命令を下した自分が逃げていいはずがない。端から逃げるつもりはない。
・・・・・・
オイゲンの命令が連隊の全体に届き、彼とは離れた位置にいた騎兵副大隊長オリヴァーも、王国軍人である以上は命令を受け入れた。この厳しい戦況、壮絶な命令の必要性も理解した。
この場に残ることを決めた古参の騎士や兵士たちの奮戦で、ようやく退却の流れが迅速になり始め、馬上のオリヴァーも多少移動しやすくなる。
そんな中で、殿の戦列を指揮しながら、一向に下がる気配のないオイゲンの姿に気づく。
まさか。
彼の年齢や軍歴を考えれば、彼もまた覚悟を固めても何ら不思議ではない。このような命令を下した上で彼自身は退却するとも思えない。そう頭では解りながらも、思わず近づき、呼びかける。
「シュターミッツ閣下!」
と、振り返ったオイゲンはオリヴァーと視線を合わせ、小さく笑う。
「……後は任せる! 頑張れよ、騎兵大隊長!」
そう言って軽く剣を掲げ、オイゲンは前に向き直る。これ以上振り返る様子はない。
「――ご武運を」
オリヴァーは呟いて敬礼し、踵を返した。
・・・・・・
「バルトルトさん! あんたまさか残る気ですか!」
古参の歩兵たちが戦場に踏みとどまって戦列を組む中で、歩兵大隊長バルトルトはそれを指揮しながら自身も居残る姿勢を見せる。そのバルトルトに、もう一人の歩兵大隊長であるリュディガーが詰め寄る。
「当たり前だ。俺が連隊でも最古参なのはお前も分かっているだろう」
「ですけど、あんたは大隊長ですよ! シュターミッツ閣下も踏みとどまる構えなのに、この状況で大隊長が二人も戦死するわけにはいかないでしょう!」
若き大隊長の血相を変えながらの説得に、バルトルトは先任として余裕の表情を浮かべて首を横に振る。
「歩兵大隊長なんざ、この連隊の中隊長連中なら誰でも務まる。なら俺みたいな老兵がわざわざ生き長らえる意味はない……ここが俺たちの死に時だ。だからお前はとっとと下がれ。俺の後釜に座る奴を指導するために、先任の歩兵大隊長が必要だろう」
そう言って、バルトルトは正面に向き直る。
「……っ!」
その横顔を見て、彼がもはや決心を変える気はないと理解したリュディガーは、無言で敬礼を残して走り去る。歩兵大隊長としてあるべき姿を自身に示し続けてきた先達、その背中を一度だけ振り返り、そして退却する歩兵たちの指揮に臨む。
・・・・・・
既に齢四十を超えている騎士ヤーグは、自身を老兵の一人と数え、居残る決死隊の戦列に加わるべく退却の波に逆らい、そしてオイゲンの隣に馬首を並べた。
オイゲンは横に視線を向け、ヤーグと目が合うと、奇妙なものを見るような顔になる。
「馬鹿かお前。何をやっている。早く退却しないか」
「はあ?」
覚悟を決めて戦列に並んだのにあまりの言い草をされ、ヤーグは間抜けな声を返した。
「俺はこれでも、四十を超えてて――」
「まさかそれで老兵のつもりか? 馬鹿言え。小競り合いしかしない時代が続いたおかげで、今の連隊には五十近い連中や、なかには六十近い奴までいるんだ。お前なんぞが老兵を気取るには五年は早い……だから行け。新しい騎兵大隊長には、気心の知れた経験豊富な部下が必要だ」
「……ちっ、格好つかねえな」
ヤーグが悩んだのは数瞬。結局はオイゲンの命令をしぶしぶ受け入れ、そうと決まれば邪魔にならないよう直ちに馬首を巡らせて退却を急ぐ。
「あばよ、男爵閣下」
かつて。まだ王国軍に入隊したばかりの頃。それはそれは生意気だった自分の根性を叩き直してくれた最初の上官。
背を向けたまま手をひらひらと振り、生意気な口調で言ったそれが、彼に対する今生の別れの挨拶となった。
・・・・・・
オリヴァーに続いてヤーグからも見送られたオイゲンは、周囲を見回す。既に大半の者が戦線から下がることに成功し、今はここを死に場所と決めた老騎士や老兵たちが敵の追撃を押しとどめている。
せめぎ合う敵の向こうには、隊列を組み終えた追撃部隊の増援が動き出した様も見える。自分たちはあれに飲み込まれて終わるだろう。後は、その最期を一秒でも遅らせ、仲間の退却の時間を一秒でも長く稼ぐことが自分たちの務め。
「……昔を思い出すな」
どれほど果敢に戦い、粘り、抗っても、最後には全滅することが決まっている。そんな絶死の戦場で、オイゲンが浮かべたのは懐かしむような微笑だった。
ロワール王国との激戦がくり広げられていた二十余年前。当初、エーデルシュタイン王国は苦戦を強いられ、多くの熟練の騎士や兵士が散っていった。彼らによって生かされた結果、自分たち若き世代の軍人は勝利し、その後も経験を重ねて熟練の騎士や兵士となった。
そして今、自分たちの順番が来た。
戦列を組む老兵たちの中、騎士バルトルトの姿が見えた。彼もこちらに視線を向け、互いに不敵な笑みを交わす。
若い頃を思い出す。バルトルトの方もそう思ったことだろう。そんなことを考えながら、オイゲンは前に向き直り、剣を掲げる。
「かつて散った先達たちに恥じない最期を遂げるぞ! 今日は死に日和だ!」
「「「応!」」」
どこか楽しげな様さえ見せながら、これまでフェルディナント連隊を支えてきた古参軍人たちは戦い続ける。全ては連隊のため。王国のため。そして誇りのため。
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