第112話 勝ち戦①

 七月の上旬。ノヴァキア王国軍の軍勢は、エーデルシュタイン王国との国境地帯へと進軍を果たした。

 本来は六月中に進軍する予定だったところ、王国南部から流れてくる避難民への対応と、王国南部でエーデルシュタイン王国軍に焦土作戦をとられたことを受けての補給計画の修正を強いられたことで、進軍の延期を余儀なくされた。

 揃った兵力は、王国軍の残存兵力を中心におよそ二千五百。国王オスカル・ノヴァキアと、王太子ユリウス・ノヴァキアが直々に軍勢を率いている。

 アレリア王国への降伏後、キルデベルト・アレリア王の対応は慈悲のあるものだった。最後まで抵抗を続けたノヴァキア王家を、しかし彼は皆殺しにすることをせず、ノヴァキアの民への無秩序な掠奪や暴行も早期に止めさせた。その後も現在まで、ノヴァキア王国の併合に向けた占領は比較的穏やかなものとなっている。

 そうした優しい対応と引き換えにキルデベルトが求めてきたのは、エーデルシュタイン王国へと継続的に軍事的圧力をかけること。今後、アレリア王国が西から攻勢を仕掛ける際の援護として、エーデルシュタイン王国との国境地帯に軍勢を貼りつけ、かの国の戦力を北の国境防衛に割かせるよう命じられた。

 この進軍によって求められた役割を果たし、エーデルシュタイン王国征服のために貢献すれば、その働きをアレリア王家への忠誠の証と見なす。アレリア王家は庇護者として正しく報いる。自治行政権や、王家に収める税の面で、他の征服地よりも寛大な条件のもとにアレリア王国へと併合する。オスカルの娘、ユリウスの妹をアレリア王家の親類に嫁がせた上で、公爵家としてノヴァキア家の存続も許し、このままこの地の統治を任せる。

 おそらくはアレリアの敵国たるエーデルシュタイン王国やリガルド帝国と国境を接し、今後の侵攻や国境防衛において重要な地となるが故の、格別に甘い特別扱い。しかし、ノヴァキアの地を治めてきた王家としては、キルデベルトが提示したこの優しい条件に縋るしかなかった。

 たとえ王という地位を失っても、ノヴァキア家はこの地を治める為政者。民を重税で悩ませ苦しませることは、できる限り避けなければならない。そして自分は、建国以前から数えればおよそ三十代にわたって受け継がれてきたノヴァキア家の当代当主。そう簡単に家を潰し、血統を絶えさせるわけにはいかない。それらの理由から、オスカルは苦渋の決断を下し、進軍を決意した。

 王太子であるユリウスを副将として伴ったのは、ノヴァキア家当主の代替わりを民に意識させるため。君主という立場としては最後の仕事となるこの攻勢を終え、アレリア王国に併合されて政治的な調整が一段落した後、オスカルは降伏の引責も兼ねて隠居するつもりでいる。


 様々な事情が込められたこの進軍。当初の予定と違い、その目的には単に南への軍事的圧力をかけるだけでなく、エーデルシュタイン王国軍に奪われた国境の砦の奪還という具体的な狙いも込められている。エーデルシュタイン王国と睨み合いをするにしても、拠点となる砦を取り戻さなければどうにもならない。

 戦力的には二個連隊を動員している敵側が充実しているが、ノヴァキア王国側は戦いを選り好みできる立場ではない。背後にアレリア王の圧力がある以上、勝利なくして希望はない。何が何でも勝たなければならない。だからこそ、至高の戦士たる国王オスカルが自ら軍勢を指揮する。

 王都ツェーシスを経ってから、国境地帯までおよそ十日。行軍慣れしていない徴集兵が多いこともあり、正規軍のみの場合よりも多少の時間をかけて進軍した軍勢は――到着した時点で、既に大きく疲弊していた。


「いやはや、焦土作戦の効果とは凄まじいものがあるな。できることなら、戦術をとられる側として体感したくはなかったが」


 奪還目標である砦と、その手前に布陣するエーデルシュタイン王国の軍勢。敵側とある程度の距離をとった野営地の司令部天幕で、オスカルは皮肉な笑みを浮かべる。


「……ついこの前まで友邦だったエーデルシュタイン王国が、まさかこれほど苛烈な策をとってくるとは」

「仕方あるまい。友好関係を捨て、先に進軍の素振りを見せたのはこちらだ。文句を言える立場ではないだろう……それに、ホーゼンフェルト卿のとった戦術は、民を殺めたり農地を塩で未来永劫潰したりしなかっただけ、焦土作戦としてはまだ優しいものだ。あちらもやむを得ない手段として王国南部を荒らしたのだと汲んでやらねば」


 父王に命じられて避難民の保護を指揮し、故郷を追われた彼らの哀れな様を目の当たりにしたこともあってか、ユリウスが沈痛な面持ちで敵の戦術への憂いを呟く。それに対し、オスカルは諦念交じりの声で言い聞かせる。

 ノヴァキア王国南部の社会を破壊したにもかかわらず、マティアス・ホーゼンフェルト伯爵率いるフェルディナント連隊は、民をほとんど殺傷していない。警告を受けたにもかかわらず攻撃してきた民に怪我を負わせ、あるいは殺した例もごく少数あったようだが、それも敵側としては正当防衛の範囲内だったという。

 おまけに、避難民たちは持てるだけの財産を持って逃げてきた。フェルディナント連隊の騎士や兵士たちに、金目のものを取り上げられることもなかったという。

 これまで友邦だったとはいえ、敵対の素振りを見せたとなれば、一切の容赦のない反撃を受けても文句は言えない。にもかかわらず、エーデルシュタイン王国は配慮を見せた。

 おそらく、エーデルシュタイン王家はこの苦境でもノヴァキア王国の圧力を押し止め、アレリア王国の仕掛ける決戦を迎え撃ち、キルデベルトを討つつもりでいる。その上でノヴァキア王国との友好関係を修復するつもりでいる。だからこその配慮だろう。

 となれば、こちらが苦言を呈することなどできるはずもない。


「とはいえ、まいっていることには変わりない。果たしてこれでどこまで戦えるものか……」


 自軍の現状を思いながら、オスカルの口からは思わずため息が零れた。

 エーデルシュタイン王国側の焦土作戦を受け、補給計画は事前に見直した。商人を追加で雇い、できるだけの補給体制を整えようとした。

 それでも、進軍は思うようにはいかない。穀倉地帯たる王国南部からの食料供給が止まり、その上で数万もの避難民が逃げ込んできたために、王都周辺では早くも食料不足が発生している。本来は軍勢を揃えての進軍などしていられる状況ではない。雇った商人たちも努力はしてくれているようだが、それでも予定通りに食料が運ばれてこない。

 そして、進軍の道中に食料はほとんどない。場所によっては井戸が埋められてさえいる。オスカルの率いる二千五百の軍勢は、飢餓状態にまではなっていないが、食事が足りずに腹を空かせ、時に喉の渇きにも悩まされる。そんな状態で進軍や野営を何日も行えば、当然に心身ともに疲れる。戦いが始まる前だというのに、脆弱な徴集兵などは既にくたびれ果てている。

 おまけに、二、三日前からは体調不良者も続出している。熱を出し、吐き気や下痢に苦しむ者が少なからず出ている。

 道中で休息に利用した小都市、そこに残されていたいくらかの食料。あれが怪しいとオスカルは踏んでいる。

 エーデルシュタイン王国軍もさすがに都市まで全て焼き払う時間はなかったようで、無事な建物と多少の食料が残されていた。まともな食事に飢えていた兵士たちがそれを食べることをオスカルは許したが、体調不良が広がる原因はあれくらいしか思い浮かばない。

 王として臨む最後の戦い。叶う限りの全力をもってエーデルシュタイン王国とぶつかりたかったが、それを許されるほど甘くはないらしい。


・・・・・・


「やはり、多くの兵士が万全とは言い難い状態のようですな」

「ああ。ここから眺めているだけでも、軍勢全体の士気が著しく低いと分かる……開戦前にこれだけのことを成すとは。大したものだな、あのフリードリヒという若者の考える策は」


 決戦の朝。平原の戦場。そのエーデルシュタイン王国側本陣から敵陣を見渡し、レベッカ・アイゼンフート侯爵は副官と言葉を交わす。

 ノヴァキア王国との友好関係修復の道筋は残しつつ、しかし今は国境地帯のあちら側を徹底的に破壊し、攻勢の芽を摘む容赦ない策。マティアス・ホーゼンフェルト伯爵の継嗣が編み出したこの策は、見事に効果を成したようだった。

 おかげで、戦う前から敵はひどく弱っている。正規軍と思われる部隊でさえ整列した様がだらしなく、徴集兵に至っては、ただ寄り集まって立たされている烏合の衆に見える。

 食料不足によって体力と士気が落ちているのはもちろん、敵の様子をうかがった斥候の報告によると体調不良も広まっているという。

 体調不良者を続出させた仕掛けは単純。かかる手間を考えると全て破壊し尽くすのが難しい小都市において、フェルディナント連隊は一部の食料を汚染し、処分しきれなかった風を装ってそのまま残したのだという。

 パンや肉を切るナイフ、スープや粥を注ぐ匙、料理を注ぐ食器などに、人や家畜の糞便を触れさせて放置しておく。さらには、一部の食料そのものも、臭いがつかない程度に糞便に触れさせる。何も知らずにそれらに触れ、口にした者たちのうち、不運な者は熱や腹痛に襲われる。

 そうなれば広まるのは簡単。軍隊の野営では、騎士はともかく末端の兵士たちは様々なものを共有し、大勢で共同生活を送る。病人と同じ食器を使った者。同じ樽から水を飲んだ者。同じ生活用品を使った者。同じ寝床を使い回した者。体調不良は周囲の仲間に次々に伝染する。

 多くの者が空腹に、そして少なからぬ者が体調不良に悩まされた状態での決戦。万全の力を振るえるはずもない。敵は既に弱軍と化している。ただ進軍しただけで。

 正面戦力はほぼ互角。こちらはアルブレヒト連隊のうちエルザス回廊に張りつけている大隊を除く部隊を基幹に、レベッカが自領から呼び寄せたアイゼンフート侯爵領軍をはじめとした近隣の貴族領軍、そしてこちらも領地から呼び寄せた徴募兵の部隊が集い、総勢で二千をやや上回る。

 そして後方の砦には、予備戦力としてフェルディナント連隊も待機している。どうやっても敵に勝ち目はない。

 それでも、オスカル・ノヴァキア国王率いる軍勢は、キルデベルト・アレリア国王とどのような取り決めをした結果のことかは分からないが、諦めずに戦いに臨もうとしている。


「あちらが戦う気ならば迎え撃つまでだ。同じ先祖を持つ戦士たちの悪あがき、完膚なきまでに打破してやろう」


 ノヴァキアの地からユディト山脈を越え、エーデルシュタインの地に流れ着いた民族の末裔。そのような出自を持つレベッカは、周囲の者に感情をうかがわせない顔で言いながら、遥か昔の同胞の末裔たちを俯瞰する。

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