第91話 祖国

「――もう嫌よ!」


 メリンダはフリードリヒの言葉を遮り、叫んだ。彼女以外の全員が静まり返り、彼女に抱きかかえられていたクレアが目を丸くして母を見上げる。


「だからこんなところには来たくなかったのよ! あの人に付き合わされて帝国を離れて、文明的な王都ならまだしもこんな国境地帯なんかに! 私と娘はエーデルシュタイン王国人じゃないのよ! リガルド帝国人よ! 帝国貴族なのよ! その私たちが、どうしてこんなところでこんな目に遭うのよ……」


 そのまま、メリンダは両手で顔を覆って泣き出してしまう。

 限界が来たか、と彼女を見下ろしてフリードリヒは考える。

 命からがら馬車を脱出し、裸足になって足を傷つけながら必死に逃げ、ようやく一安心したと思ったら夜半に再び襲撃を受け、血なまぐさい戦闘の只中に置かれた。戦場に生きているわけでもない人間が、平常心を保っていられないのも無理はない。

 ましてや、彼女たちの祖国と比べれば遥かに頼りない異国、その国境地帯の辺鄙な村で、伴侶も見知った使用人や護衛もいない状況ともなれば。

 取り繕う余裕がなくなったとしても、それを彼女の過ちとは思わない。

 フリードリヒが一同を見ると、グレゴールは無表情を貫き、オリヴァーは神妙な表情を作り、ヤーグは呆れたように肩を竦め、ギュンターの顔には隠しきれない反感の色が浮かんでいた。

 ユーリカはフリードリヒと顔を見合わせると、クレアのもとに歩み寄る。母メリンダが手を離したために、きょとんとした表情のまま隣に放置されていたクレアを抱き上げる。

 その一方で、フリードリヒはメリンダの前に膝をついた。


「侯爵夫人。申し訳ございません。我々エーデルシュタイン王国軍人が頼りないために、帝国からの客人であるあなた方が、王国領土内で敵に襲撃される事態を招いてしまいました。お二人を一度は保護しながら、再び恐ろしい目に遭わせてしまいました。お詫びのしようもございません」


 そう謝罪すると、彼女は両手で顔を隠したまま首を横に振った。

 しばらくして少し落ち着いた彼女は、袖が汚れることも気にせずに顔を拭き、立ち上がる。と同時によろめき、隣にいたオリヴァーに支えられる。

 日中も、メリンダは逃避行の緊張と助けが来た喜びで気持ちが高ぶり、あまり眠れていない様子だった。ぐっすり昼寝をしていたクレアと違って。

 そのため精神面だけでなく、肉体面でもそろそろ限界のようだった。


「ひとまずお休みください。その間、我々が必ずお守りしますので」

「それでは、私と妻の寝室をどうぞお使いください」


 オリヴァーに支えられ、村長夫妻に案内されながら、メリンダは無言のまま居間を出ていく。敵兵の返り血まみれとなった客室は、もはやゆっくりと休める環境ではない。


「ねえねえ、フリードリヒ」


 母に続いて寝室に運ばれる途中、クレアがフリードリヒを呼ぶ。彼女を抱きかかえているユーリカが足を止める。


「お母さまはどうしちゃったの? お母さまが言ったのは、どういういみ?」

「……メリンダ様はきっと、怖くなってしまったのです。それに、とても疲れていらっしゃるのです。大変なことばかり続いていますから。なので、クレア様がお傍で慰めてあげてください」


 フリードリヒは後半の問いかけには答えなかった。エーデルシュタイン王国人の自分がどのように説明しても角が立つ上に、そもそもクレアにはまだ理解できないだろうと考えた。


「わかった! わたしが、お母さまをたすけてあげるね」

「ありがとうございます。クレア様が慰めて差し上げれば、メリンダ様もきっと安心なさることでしょう」

「行きましょう、クレア様」


 クレアは問いかけのひとつへの答えを得られなかったことを気にした様子もなく、上機嫌でユーリカに運ばれていった。


「……ご令嬢の方が、よほどお強いな」

「現状をよく分かっておられないからこそだ」


 ヤーグの小声での皮肉をオリヴァーが軽く流し、その傍らでは無言で黙り込むギュンターが、未だ反感を顔に出している。


「僕たちも、休める者は休もう。少し外の空気を吸ってくるよ……ギュンターも一緒に来る?」


 そう言って、フリードリヒは有無を言わさず彼を屋外に同行させる。


・・・・・・


「なかなか夫人への反感が収まらないみたいだね?」


 戦闘の事後処理や周辺警戒を続ける者たちとは少し離れた、村長家の敷地の一角。木柵に寄りかかりながらフリードリヒが尋ねると、ギュンターは不満げな顔のまま頷く。


「何なんですか、あの女。よりにもよって俺たちの前で、エーデルシュタイン王国をこんなところ呼ばわりして。まるで王都以外は非文明的で野蛮みたいな物言いで。帝国人はそんなに、エーデルシュタイン人よりも偉くて特別だっていうんですか? 今まで散々に友好的な顔をしておいて」


 おおよそ想像通りの文句が出てきたのを聞いて、フリードリヒは苦笑する。


「彼女も別に、今まで嘘をついていたわけじゃないと思うよ。帝国人として、帝国大使の伴侶として、この国に友好的な感情を抱いているのは嘘じゃないはずだ。それでも根底にはああいう意識がある。リガルド帝国は比類なき大国。ルドナ大陸の覇権を握る偉大な国。帝国こそが世の主役であり、他国は全て脇役。自分たちはその帝国の一員であり、生まれながらにして勝ち組であり、尊重されて当たり前である……そんなところだろうね、多くの帝国人の価値観は。支配者層の貴族ともなれば尚更に」


 帝国は友邦だが、だからといって全てにおいて相容れるわけではない。国力には歴然とした差があり、歴史も、文化も、宗教も、民族も違う。

 むしろ、メリンダはこの国を理解しようと、一般的な帝国人よりも遥かに努力してくれている方だと言える。もっとずっと露骨に他国の人間を軽んじる帝国人もいる。軍事的、経済的、文明的な優越感をもって尊大に接してくる者もいる。

 出自的にも身分的にも、帝国のそうした一面を今まで理解する機会の少なかったギュンターが、最も強烈に反感を抱くのは仕方のないことだった。反感を抱いているという事実が、彼が新たな祖国であるエーデルシュタイン王国に染まってきたことの証左と言える。


「巨大で尊大な覇権国家の隣で、せいぜい中堅の国家の一員として生きるというのは、こういう隣人たちと向き合うことでもある……というか、君はこの国じゃなくて帝国を選ぶ道もあったんじゃないかな? 帝国はさらに国力を増すために、移民を積極的に受け入れている。あっちを選んでいれば、君も今頃は偉大な帝国の一員だった」

「いやいや、冗談やめてくださいよ」


 フリードリヒの問いかけに、ギュンターはげんなりした顔になる。


「傭兵時代の俺でさえ知ってたのに、フリードリヒさんが帝国での移民の扱いを知らないはずがないでしょう。アリューシオン教徒のルーテシア人移民なんて、帝国社会でどんな扱いを受けるか分かったもんじゃねえ。移民を歓迎してるのは働かせる頭数が欲しい王侯貴族だけですよ」


 再び予想通りの言葉が返ってきて、フリードリヒは小さく吹き出す。


「そうだね。既存の民と移民の軋轢は、帝国が昔から抱えている問題だ。大陸西部人なら、民族も宗教も同じで文化も近い国に移住する方がよほど生きやすい。だからこそ君もこの国を選んだんだろうけど、僕は君のような頼もしい軍人が同僚になってくれて感謝しているよ」


 そう言って肩を叩くと、ギュンターは照れ隠しなのか、何とも言えない表情で頷いた。


「帝国の態度にときに辟易とさせられるのも、エーデルシュタイン王国人の醍醐味だ。弱い友邦に助力してくれるのが大国の寛容さなら、その尊大さを大目に見てやるのが小国の寛容さだよ」

「……そういうもんですかね」


 一応は納得した様子のギュンターは、村長家からユーリカが出てきたのを見ると、フリードリヒに軽く頭を下げて屋内に戻っていった。

 ギュンターと入れ替わりで、今度はユーリカがフリードリヒの隣に立つ。


「メリンダ様もクレア様もぐっすり寝てるよ。朝まで起きないと思う」

「そう、それならよかった。ご苦労さま」


 労いの言葉にユーリカは頷き、自身の指を絡めるようにフリードリヒの手を握る。


「いつか生まれる私たちの子供を育てるのも、こんな感じなのかなぁ……って思ったよ。クレア様の相手をしてるとき」


 そう言って、ユーリカは夜空を見上げる。フリードリヒも、彼女の手をしっかりと握りながら顔を上げる。


「僕たちの子供か……楽しみだね」

「フリードリヒに似たら、きっとすごく賢い子になるよ」

「ユーリカに似たらすごく強い子になるだろうね」


 そんなことを話しながら、二人並んで木柵に背を預ける。

 心地よい沈黙がしばし漂う。現在の厳しい状況をひととき忘れ、心を休める。


「ところで、フリードリヒ」

「ん? 何?」

「フリードリヒも、メリンダ様の言い方にけっこう苛ついてたよね?」

「……顔に出てたかな?」


 フリードリヒが苦い笑みで尋ねると、ユーリカはどこか得意げな様子でにんまりと笑う。


「ううん、出てなかった。メリンダ様も、他の誰も気づいてないと思う。だけど私には雰囲気だけで分かったよ」

「あはは、ユーリカに隠し事はできないね……確かに、自分でも意外なくらい苛立ちを覚えたよ。頭では仕方ないと理解してるつもりだけど、予想以上に感情が動いた」


 帝国との関係は、帝国人の意識はそんなもの。そんな諦念は、しかしフリードリヒにとっては心からの達観ではなく、内心の憤りをこらえるためのものだった。


「こうして憤るほどに、僕はこの国が好きなんだと、好きになったんだと思う」


 エーデルシュタイン王国をあのように言われ、誇りが傷ついた。そう感じた。

 感じたからこそ気づいた。自分はこの祖国が好きなのだと。マティアス・ホーゼンフェルト伯爵に見出され、騎士となり、そして彼の養子となった今、辺境の一平民だった頃とは比較にならない強い愛国心が自分に宿っているのだと。

 リガルド帝国や古のルーテシア王国のような、大陸に比類なき覇権国家というわけではない。しかし、一つの国として自立し、歩んできた確かな歴史がある。

 王都ザンクト・ヴァルトルーデは国の心臓として、荘厳な王城を傍らに戴きながら美しく繁栄している。その王都をはじめ都市部には、独自の進化を遂げながら洗練を続けてきた豊かな文化が息づき、経済は賑やかに回っている。

 そして故郷ボルガのような田舎では、人々が素朴に穏やかに、生活を営んでいる。

 王家は不動の覚悟と、政治と軍事をもってこの国を庇護する。自分たち王国軍人もその一部である。騎士と兵士たちは王家と共に、この国の歴史や、社会や、民のために戦ってきた。

 そして死んでいった。多くの英雄が守り抜いてきたこの祖国を、自分は愛している。


「今なら、あの日のグレゴールの言葉に自信をもって頷けるよ」


 覚悟を決めろ。王国軍人になる覚悟を。

 かつて。騎士の叙任を受ける前。王都と王城を見下ろす丘の上で、当時はまだ上官だった彼に言われた。当時はまだ、王国軍人の覚悟とは何か、真に掴めてはいなかった。自分にその覚悟があるとは思えなかった。

 今は違う。戦場で生きる意味を知り、英雄の後を継ぐ意味を知り、いくつもの戦場を戦い抜いたことで、自分は真の覚悟を身に宿している。


「どこまでもあなたについていくよ。私のフリードリヒ」

「ありがとう、ユーリカ」


 フリードリヒはユーリカに答える。彼女が傍にいてくれるなら、自分はこの覚悟を貫ける。そう思いながら。

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