第82話 大使の覚悟
「いえ、オブシディアン卿。私もここで、敵の襲来を迎えさせていただきたい」
クリストファーの返答に、ヨーゼフもさすがに目を見開いた。
「もちろん、妻と娘を危険には晒せないので、二人は使用人たちと共に後方へ避難させます。ですが、私はここに残りたい。そうすることで、エーデルシュタイン王国と友邦たらんとする帝国の意思を示したいのです」
「……我々もたかが二千の敵に要塞を奪われるつもりはないが、とはいえ絶対の安全は保障できかねますぞ? 皇帝陛下も、文官である貴殿がそこまですることは求めますまい。あらためて、貴殿には避難を強くお勧め申し上げる……儂にも立場があります故」
はっきり言えば、戦場となる要塞に客人などいても邪魔になるだけ。大使を避難させないまま戦闘を開始し、万が一怪我でもさせればこちらの失態ということになりかねない。そう考えたからこそヨーゼフは言う。
「あなたの仰ることは尤もです。その上で私は、私の理想を体現したいのです。本来の視察の日程はまだ残っています。アレリア王国の軍勢が眼前に迫ってもなお、その暴挙に屈することなく視察を成し遂げようとすることで、帝国の威信をアレリア王国に見せつけたい。帝国大使が逃げなかったという事実をもって、リガルド皇帝家による貴国への強い連帯の証としたいのです」
「……」
半ば唖然として、ヨーゼフはクリストファーを見る。理想主義者もここまで来れば本物だ、などと内心で思いながら。
「当然、あなた方にできるだけご迷惑をかけないようにいたします。私の身は護衛の帝国軍騎士たちに引き続き守らせます。王国軍の人手を頂戴することはありません。むしろ戦闘に際しては、私の直衛以外の者を後方支援の人手として提供しましょう。そして、私が己の意思と責任においてここへ残ることを明記した文書を貴国にお預けします。必要ならば二通でも三通でも。そうすれば、私の身に何があろうと私自身の責任であると、皇帝陛下にもご納得いただけるはずです」
それでいかがでしょう、と問われたヨーゼフは、短い思案の末に頷く。
「そこまで仰るのであれば、こちらが申し上げることはありません。ご自由になさるとよろしい」
「感謝します、オブシディアン卿」
その後の話し合いで、クリストファー率いる視察団のうち、彼とその部下の官僚たち、そして護衛の帝国軍騎士のうち二十人が要塞に残ることが決定。侯爵夫人と令嬢、メイドをはじめとした使用人たちが、残る護衛と共に東へ退避することとなった。
戦闘準備の邪魔にならないようにとクリストファーが離れていった後、ヨーゼフは傍らにいたディートヘルムに視線をやる。
「軟弱な政治屋と思っていたが、思っていたよりも根性があるな。そうだろう?」
「まだ分からねえよ。いざ敵を目の前にしたら、やっぱり逃げておけばよかったとお泣きになるかもしれねえだろ」
なおもクリストファーを嫌う姿勢を貫くディートヘルムに苦笑を返し、そしてヨーゼフは表情を引き締める。
「これで我々が守るべきものが一つ、いや二つ増えた。賓客たる帝国大使と、その身の安全を守るというエーデルシュタイン王国の威信だ。大使殿はああ言っているが、だからといって死傷させて知らん顔というわけにもいかぬからな。決して抜かることなく戦闘準備を続行しろ」
「御意に、連隊長閣下」
ディートヘルムも軍人として敬礼しながら答え、自身の部隊のもとに戻る。
・・・・・・
その二日後、敵の軍勢がアルンスベルク要塞から視認できる位置まで迫り、野営地を置いた。さらにその翌日には、より要塞に近い位置で隊列を組み始めた。気配からして、敵はどうやら威嚇のみに終わるのではなく、本当に攻撃を仕掛けてくるつもりであるとヨーゼフは見た。
本来、エーデルシュタイン王国を睨むアレリア王国の軍勢は、推定で四千ほどの兵力を持っていた。そのうち半数がロワール地方の防衛と治安維持のための兵力で、残る半数が積極的な攻勢に投入するための兵力だった。
現在は、東部方面軍の指揮官であるツェツィーリア・ファルギエール伯爵が、およそ二千五百を連れて北へ移動。ノヴァキア王国への大規模な攻勢の準備を進めている。
彼女たちが抜けた穴を埋め、国境地帯を守るためにアレリア王国中央から派遣されたのが、直属の精鋭部隊およそ千弱を率いるロベール・モンテスキュー侯爵だった。本来であれば王領の防衛任務につくべき彼らを東部戦線に充てたのは、キルデベルト・アレリア国王としてもなかなか思いきった対応と言える。
今回、モンテスキュー侯爵はその直属の部隊をほぼ丸ごと平原まで連れている。加えて徴集兵がおよそ千と、貴族領軍が数百。
「とはいえ、アルンスベルク要塞の敵ではありますまい。攻城戦をこちらと大差ない兵力で、それも半数近くが脆弱な徴集兵という有様の軍勢で行うなど、無謀もいいところ。面子のためにこのような攻撃を強いられる敵の将兵には同情せざるを得ませんな。攻めたところで、ただ我々の餌食となるだけなのですから」
「ははは、頼もしいお言葉ですね」
要塞西側の城壁上で敵の軍勢を見渡し、状況を説明しながらヨーゼフが言うと、クリストファーは笑う。いざ敵を前にしても、怯えたり泣いたりする様子は微塵もない。
「敵陣より騎士が単騎で接近! 使者と思われます」
そのとき、見張り塔にいる兵士から報告が聞こえた。その報告通り、白旗を掲げながら接近してきた敵側の騎士が間もなく要塞に迎えられる。
「敵将モンテスキュー侯爵からの書簡です……ラングフォード閣下に宛てたお言葉もあるとのことです」
使者に応対したディートヘルムがそう言いながら、凝った装飾の施された筒を手に城壁に上がってくる。
ヨーゼフが筒の中から丸められた書簡を取り出し、広げる。
帝国大使による国境地帯の視察。これはエーデルシュタイン王国とリガルド帝国による、アレリア王家への許されざる侮辱行為である。その愚かなる振る舞いに対し、アレリア王家はキルデベルト・アレリア国王陛下の名の下に、実力をもって制裁を下す。アルンスベルク要塞への大攻勢をもって、正義ある制裁とする。非戦闘員たる帝国大使は、命が惜しくば速やかにアルンスベルク要塞を去るように。今より二時間の猶予を与える。これは国王陛下より与えられし御慈悲である。
「ここは誤字ではないか? 大攻勢とあるが、そのようなことを為せる大軍はどこにも見えんぞ」
小馬鹿にするようにヨーゼフが言い放ち、わざとらしく敵陣に視線を向けて目を細めると、クリストファーやディートヘルムだけでなく、周囲にいる騎士や兵士たち皆が笑った。
「さて、書簡にあるので一応お伺いするが、大使殿はどうなさいますかな?」
「無論、逃げはしません。アレリア王の慈悲など無用です」
答えるクリストファーの微笑は、揺らぎもしなかった。
「では返答は単純だ……猶予は必要ない。大仰な宣言も結構。制裁を為すというのであれば、言葉ではなく実力をもって示されよ。モンテスキュー侯爵にはそう伝えるように使者に言え」
「ああ、それと私からも一言」
命令を受けてディートヘルムが城壁を降りようとすると、クリストファーが呼び止める。
「先にここを訪れる予定を入れていたのは帝国である。アレリア王国に順番を割り込まれる筋合いはない、と」
その言葉にまた笑いが起こり、ヨーゼフも豪快に爆笑する。ディートヘルムも思わずと言った様子で小さく吹き出す。
「……確かに、お伝えいたします」
クリストファーの冗談で笑ってしまったことが不本意だったのか、すぐに生真面目な表情になったディートヘルムは、そう言い残して今度こそ使者のもとへ向かった。
・・・・・・
アルンスベルク要塞を睨むアレリア王国側の本陣。無事に帰ってきた使者より敵の返答を聞いたロベール・モンテスキュー侯爵は、片目を塞ぐように走る大きな傷跡の残る顔に、迫力のある笑みを浮かべる。
「ふっ、敵将も帝国大使もなかなか言うではないか。こうでなければ面白くない」
敵の生意気な返答を受けて不愉快そうな顔を見せる士官もいる中で、しかしロベールは、むしろ状況を楽しんでいた。
ヒルデガルド連隊の長にして、アルンスベルク要塞司令官ヨーゼフ・オブシディアン侯爵。その名前はロベールも知っている。軍歴で言えば英雄マティアス・ホーゼンフェルト伯爵よりも長く、ロベールとは同世代。堅実な用兵と長年の経験をもって国境を守る老将であると。
そして、帝国大使クリストファー・ラングフォード侯爵。お人好しの理想主義者とだけ聞いているが、この期に及んで戦場に残り、これだけ生意気な口が利けるのはある意味で大物と言える。果たして本当に見上げた度胸の持ち主なのか、あるいは戦の現実を知らず強がっているだけのおめでたい阿呆なのか。
これから先、その余裕をどこまで保てるか見ものだ。ロベールはそう考える。
「閣下、いかがいたしますか?」
問いかけたのは、ロベールから見れば親子ほども歳の離れた副官。かつて長年戦場を共にした副官は、平穏な王都暮らしの中で頭がはっきりしなくなって隠居してしまったので、今の副官はその娘だった。
「猶予が要らぬというのであれば、こちらも配慮してやる必要はあるまい。早速攻勢にかかるとしよう……とはいえ、果たしてどの程度やれるものか」
小さく嘆息しながら、ロベールは言った。
たったの二千強の兵力でアルンスベルク要塞を落とせるとは思っていない。ロベールも、彼を囲む部下たちの誰も。
にもかかわらず制裁などと評して攻勢を仕掛けるのは、要はアレリア王家の威信を守るために他ならない。
現在アレリア王家を支えているのは、いわゆるタカ派の貴族たちの派閥。軍事的にも経済的にも力を持ち、王国において無視できない影響力を持つ彼らは、強き王にこそ従う。彼らを後ろ盾とし続けるために、王家は強気の姿勢を維持しなければならない。
キルデベルト・アレリア国王は、ノヴァキア王国の征服をもって己の権勢が保たれていることを示すつもりでいるが、それはそれとしてエーデルシュタイン王国とリガルド帝国が舐めた真似をするのであれば対抗しないわけにもいかない。だからこそ、こうしてアルンスベルク要塞への形ばかりの攻勢が行われることとなった。
本来であれば帝国大使は事前に逃げ去るものと想定されていたが、自らの意思で留まるというのであれば遠慮してやる義理はない。
ロベールの仕事は変わらない。見た目の上では果敢に攻勢を仕掛け、「愚かなエーデルシュタイン王国とリガルド帝国に制裁を下した」と言える程度の善戦を成し、そして退却するだけ。
「まったく、快適な王都から東部辺境に飛ばされたかと思えば、今度はこのような退屈な戦いに臨まされるとは。若も年寄り使いが荒いな」
「アレリア王国広しと言えども、国王陛下をそのように評すことができるのは閣下ただお一人でしょうね」
ロベールがぼやくと、副官は苦笑で答える。
先代国王の時代から直臣として仕え、戦ってきたロベールは、キルデベルトの側近であると同時に剣術の師であり、軍学の師でもある。このような物言いを臆することなくできるのも、ロベールの立場があってのことだった。
「準備に抜かりはないな?」
「はい。兵の配置、攻城兵器の用意、全てご命令通りに完了しております」
「ならばよい」
副官の返答を聞き、ロベールは厳かな表情で目を閉じる。当然、閉じられたのは片目だけ。傷跡に埋まったもう片方の瞼は、もはや動かそうと思っても動かない。
そして、胸の前で三角形を描き、手のひらを合わせる。
「唯一絶対の神よ。我らの罪を赦したまえ。我らは弱き者。戦うほかに生き抜く術を持たず、殺めるほかに守り抜く術を持たぬ者なり…………者共、前進せよ!」
敬虔なアリューシオン教徒であるロベールは、これまで数多の戦いに臨んできたときと同じように、神に祈りを捧げた上で目を見開く。片目一つに、常人の両目に宿る以上の気迫を込めながら、堂々と命令を下す。
本陣直衛を除くおよそ二千の部隊が、アルンスベルク要塞へと迫る。
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