第65話 終息後②

「……あの顔立ちと、ユーリカという名前。間違いないな」

「はい。まさか生き延びていたとは思いませんでした。それも、あのように人間らしく成長しているとは」


 副官は主人であるレベッカの言葉に頷きながら、そう答える。


 アイゼンフート侯爵家とその領民は、かつて山沿いに閉じ込められるようにして暮らしてきた民族の末裔。過酷な環境にさらされながら、強靭さをこそ是とする価値観をもって生き、交わり、世代を重ねてきた。民族の血に刻まれた価値観は、エーデルシュタイン王国民として受け入れられて融和が進んだ今でも失われてはいない。

 そのような生き方故か、アイゼンフート侯爵領の社会の中では稀に、突然変異的に、人並み外れて強く攻撃的な人間が生まれることがある。

 彼らは幼い頃から凶暴性を発揮し、親や兄弟を無邪気に、あるいは衝動的に傷つける。成長するほどに高い身体能力が発露していき、手がつけられなくなる。

 歴史を見れば、自制心を獲得して他者との付き合い方を覚え、戦場などに生きる道を見出した者もいる。しかし大抵は、何かのきっかけで周囲の者を傷つけ殺め、あるいは盗賊などに落ち、そう長くは生きられずに死んでいる。

 そして今では、そうした者たちはそもそも成人するまで生きる例自体が少ない。

 彼らは最も身近な家族にとってこそ、最も危険な存在。ふとした拍子に危害を加えられかねず、もし重大な犯罪でも犯されれば、家族まで連座で罰を負いかねない。そして、そのような者を身内に抱えているだけでも、周囲からは白い目で見られ、家族もろとも忌避される。

 なので大抵は、そのような性質が見られた時点で、その赤ん坊は「生きられなかった」ことにされると言われている。

 仮にも血を分けた家族を、手に負えなくなったからといって、成長してから殺めるのは本人にとっても親兄弟にとっても酷なこと。まだ自我も持たない赤ん坊のうちに神の御許に返す方が、幾分か心が救われる。

 平民では一歳までにおよそ四分の一が死ぬ社会では、幼子が育ちきれなかった例など珍しくもない。周囲の誰も疑わない。


 今から二十年と少し前に、アイゼンフート侯爵家の直臣の家にも、このような性質を持つ赤ん坊が誕生した。直臣の夫婦にとっては第一子となる娘だった。

 レベッカから見れば遠い親類にあたるその娘は、生後数か月のときに、自身を抱きかかえていたメイドの耳を口と手で引きちぎろうとした。メイドの耳たぶの半ばまで引き裂いた。

 その後も、娘の凶暴性は収まらなかった。彼女は好奇心に満ちた表情で、与えられた玩具を次々に壊し、家で飼われていた猫の目玉を抉ろうとした。興味深そうな顔をしながら、自分を抱きかかえた者の顔や手を傷つけようとした。

 家内の誰もが娘の性質を察し、当主である父親は苦渋の決断として彼女を安楽死させようとしたが、それを止めたのが当主の妻、娘の母親だった。

 彼女にとっては、嫁いでから二年後にようやく授かり、難産の末に生まれた待望の我が子。強く情が移っており、何とか当面は生かしてやってほしいと夫に懇願した。

 当主もまた情に流され、娘がこのまま自制心を得ないようであればいずれ神の御許に返すという条件付きで、妻の願いを聞き入れた。

 三歳になる前には、娘は頑丈な一室に監禁されて暮らすようになった。世間体を考え、表向きは身体が弱く外に出られないということにされた。娘の寂しさを紛らわせるためでなく、破壊衝動を発散させるためにぬいぐるみが与えられた。家具は置いてもすぐに壊されるだけなので、最低限のものしかない部屋だった。

 身の回りの世話は、使用人たちを危険な目には合わせられないからと母親が自ら行った。何があってもすぐに介入できるよう、部屋の外に護衛が控えた上で。

 母親が自身を庇護していると娘も感覚的に察していたのか、彼女が寄り添っているときはそれなりに大人しかったが、それでも何度か危ない場面はあった。娘がいつ人間に対して凶暴性を発揮するかは誰にも分からず、母親以外の皆が彼女を忌避した。

 父親である当主は娘に情は持っていたが、娘と触れ合うことはやはり恐れた。

 医者や聖職者が秘密裏に招かれ、駄目元で治療を試みたことや神の奇跡を祈ったことも何度かあったが、目に見える効果はなかった。


 そして数年が経った頃、母親が世を去った。彼女は新たに授かった子を産み、このときもやはり難産で、出産に生命力の全てを使い果たしてしまった。

 無事に世継ぎとなれる子供が生まれ、娘の庇護者である母親は死んだ。その娘――七歳になったユーリカを守ろうと、生かそうとする者はもういなかった。

 当主はついに、ユーリカをこれ以上は庇護しない選択を下した。とはいえ、既に自我を持ち、拙いとはいえ言葉を話すほどに成長した実の娘を手にかけることはためらい、結果としてユーリカは領地から遠く離れたドーフェン子爵領で、森の中に捨てられた。

 いくら強く凶暴な性質を持つとはいえ、七歳の娘が森の中でそう長く生きられるはずがない。誰もがそう思い、ユーリカは死んだものと見なされた。彼女が存在した証は、一族の墓に刻まれた名前のみとなった。

 しかし、違った。年齢的にも彼女と合致する、同じ名前の、ドーフェン子爵領で孤児として育ったという娘が現れた。

 フリードリヒと共に、やけに強い娘がホーゼンフェルト伯爵家の庇護下に迎えられたという噂は聞こえていた。昨年の社交の場で、フリードリヒの後ろに立っている女性騎士がそうだとレベッカも察した。

 そのとき、どこか既視感のある顔立ちだと思ったが、十数年も前に死んだ親類の女性の顔を記憶の底から引っ張り出してみれば、なるほど確かによく似ている。

 あのとき捨てられた娘で間違いない。そう断言していいだろう。まさか人間として愛し合う相手を持ち、軍人として大勢の仲間の中で生きていけるほどに、精神的に成長したとは。レベッカは想像だにしていなかった。


「こちらの事情を明かされますか?」

「……いや、いい。少なくとも今は」


 副官の問いに、レベッカは静かに首を横に振る。


「我が親類たるユーリカは、とうの昔に幼くして死んだのだ。今さら出自を明かしたところで、彼女もその家族も戸惑うだけだ……それに、彼女を一度見捨てた我々が、どうして身内として振舞うことができよう。彼女は己の性質を支配する術を身につけ、人の世を生きる術を手に入れた。であれば、彼女の人生はもはや彼女自身のものだ」

「では、明かす必要に迫られない限りは、内密のままとしておきましょう」


 副官はそう答え、それで彼女――ユーリカに関する話は終わった。


・・・・・・


「よう、フリードリヒ」


 レベッカ・アイゼンフート侯爵の執務室を出てマティアスのもとへ戻る途中で、フリードリヒは声をかけられた。


「……ディートヘルム」


 ヒルデガルト連隊からの援軍を率いてきたディートヘルム・ブライトクロイツが、フリードリヒを待ち構えていたかのように廊下に立っていた。


「俺の部隊は明日にはアルンスベルク要塞に戻ることになった。歩きながらでいいから、少し話に付き合えよ。今までゆっくり話す暇もなかったからな」


 そう言って、ディートヘルムはフリードリヒと並ぶ。

 自身の部隊を率いる彼も、フェルディナント連隊本部の幕僚として働いていたフリードリヒも忙しかったため、合流直後に挨拶を交わした以外ではこれまで会話もろくにできていなかった。


「まったくよぉ。アルンスベルク要塞から急いで駆けつけたってのに、戦う機会もなかった。王族を旗頭にして敵国の軍勢を招き入れた謀反が、こんな呆気ない終わり方とはな」

「歴史を見ても、戦いは意外とそういうものじゃない? 力尽きた側が、余力を保っている側に降伏して終わる例は多い」

「なるほどな。ある意味では一番現実的な幕切れってわけか……まあ、俺が戦功を挙げる機会はなかったが、お前は違ったな」

「……約束通り、三度目の戦功だね」

「おう、三度目の戦功だ。たった二十人を引き連れてオストブルク砦奪還の起点を作るなんて、誰が見ても文句なしの大戦果だろうよ。お前は約束を守る男だったな」


 気安く肩を組んできたディートヘルムに、フリードリヒは苦笑を零す。


「これでお前も俺と同類、将来有望な貴族の跡取りだ。周りの見る目も変わるし、貴族社会での扱いも変わる……だから、ここからが勝負どころだぞ。舐められないように気を張り続けろ。失望されないように結果を出し続けろ。俺はずっとそうしてきた。お前もそうしろ。それが、貴族の継嗣が家名を守るってことだ。分かったか、フリードリヒ・ホーゼンフェルト」


 先達の助言を受けて、フリードリヒは素直に頷く。


「心得ておくよ。ありがとう、ディートヘルム・ブライトクロイツ」

「それでいい。今後も頑張れよ、我が弟子!」


 冗談めかしてそう言い残し、ディートヘルムは去っていった。

 弟子になると言ったことはないが、と内心で思いながら、フリードリヒは彼を見送った。


「……戻ろうか、ユーリカ」

「うん、フリードリヒ」


 フリードリヒが名前を呼ぶと、ユーリカは鈴を転がすような声で答える。

 二人は並んで歩く。今回の戦いも、共に生き延びた。

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