邂逅と降臨

夜依伯英

邂逅

 いったい何時から俺は斯くも小さくあろうとするようになってしまったのか。ある時、私は全然尊大であった。高く舞った。しかし、今は地を這っている。俺は偽物の美徳を泳ぐ。俺は卑小な現実に属するよりも、寧ろ厳然たる夢に飛び込んでゆくべきだったのだ。俺は小さくなった。故に、あたたかい冷たさの中にある。冷たいあたたかさを渇望している。渇きである。俺はそれを




 その日、俺は何時ものようにインターネットで怖い話を検索し、読んでは笑っていた。それに感化された俺は、当然のように後輩に連絡をして肝試しだの暇潰しだのと宣って遊びに誘い出したのだった。夜には後輩と集合し、携帯灰皿を片手に煙草を吹かしながら歩いていた。


「先輩、今日の所は良くないですって。彼処はリアルに何人も行方不明になってますからね。やばかったら俺帰りますからね」


 喚く後輩を一瞥して、進む。訳の分からない森だか林だか山だかの中にある墓地へと向かっていた。

 俺は夢を見ていたかったのだ。特段、オカルトとかスピリチュアルと呼ばれる世界を信じているわけではなかった。寧ろ、俺はその類を盲信したり心の内でも信じていたりする輩共を軽蔑していた。宇宙はただ無為にそこに存在して、ビッグバン以来の整然とした勢いの下に動いているだけだ。それは冷たいものだ。霊魂だの神だのといった素朴な温度もなく、自由意志だとか自我だとかは脳の誤認でしかない。でも、やはりそれはとても淋しい世界だ。夢を見ていたかった。願わくはお化けや妖怪や、自分や他人の意志というぬるま湯が、確かに其処にあるように。不在を信じているからこそ、実在に焦がれていた。社会的な成功だとか、一般的な幸せといったものには、享楽の実体は繋がっていない。俺は本当の享楽を捨てて、


「お化け出ねぇかな」


 ふとその言葉を溢しても、よくある怪談のようには寄って来てくれない。


「止めてくださいよ。祓えるんですか」


 後輩はずっとこの調子だ。こんな意気地なしだから永遠に彼女ができないのだと、そう思った直後に、これはジェンダーロールの押し付けだと思い直す。男だからといって意気地なしであってはならないわけではない。恋人の有無にそんなものは関係ない。それでも俺は旧世代のマッチョイズムを捨てきれずにいる。或いは、俺がその思想を好んでいるのか。俺が偶々、それに応えられる傾向を持つというだけで。


「お、なんだあれ。行こうぜ」


 ふと視界に道が見えて、そう言った。道の両脇には竹か何かが突き刺さっていて、両方の上端から道に架かるように注連縄が張られている。道切りだ。道祖神を探すと、やはりあった。男女二神が寄り添っている。いや、よく見れば性的な交わり方にも見える。


「面白い道祖神だね。少なくとも、俺は見たことがない」


 後輩は俺の右後方にすっと下がった。


「無理です。祟られたらどうするんですか、まじで。いやまじで」


「祟られたら形代でも作って大祓を奏上するよ」


 俺は形代の作り方など知らないが、大祓は暗唱している。

 気付いたら、俺たちはその結界を越えていた。気が付いたら、である。踏み越えた記憶がない。数秒前までは手前にいたはずだ。振り返ると、其処には同じような道が続いているのみだった。


「おい、やられた。俺たちはどこから来た? これは向こう側か、こちら側か?」


 そう言われて後輩は初めて事態に気が付いたようで、黙り込んで煙草を吸い始めた。俺もポケットからそれを取り出して同じようにする。


「落ち着け、どっかの神父は素数を数えて落ち着いていた。俺は素数は少ししか知らん。円周率にしよう。三点一四一五九二六五三五八九七九三二三八四六二六四三三八三にぃッ゙!」


 思い切り煙に噎せながらも、手掛かりを見つけた。俺たちが此処に到着したとき、道祖神は左手に見えた。今は右手にある。つまり。


「あー、駄目だ。踏み越えてるわ。ノウマク・サァマンダ・バァザラダン・センダー・マーカロシャーダー・ソワタヤ・ウンタラター・カーンマーン」


 掌印を結ぶ俺を、後輩が怯えた目で見つめる。


「いや、気が触れたわけじゃあねぇよ。あれだ。不動明王の」


「真言とかですか」


 頷く。自分の手脚が震えているのが分かる。周囲を観察しても、これといって道標になるようなものはない。この場合、後方に当たるはずの道切りの向こう側へ行くのが最善手だろう。


「まぁ、じゃあ、進むか」


 俺は何故かそう言っていた。思えば、道中は凍え死にそうな程に寒かったのに、今ではすっかり暖かい。そうだ、前に進むべきなのだ。俺は後輩を引き摺りながら、歩みを進めた。すると、ある場所から何かの像が整然と並んでいる。菩薩像や明王像など、仏像の類でないことは判る。人間の形でないからだ。棘の生えた指の像。眼球のようなものから触手のようなものが生えて、その眼球を包んでいる像。目のない太った蛙のような像。名状し難い歪な物たちが、ただ位置だけは綺麗に、其処に並んでいる。悍ましい光景だ。まるで、日常という正しさからずれた領域のような。後輩は俺の袖を掴んで南無阿弥陀仏だか南無大師遍照金剛だかを一心に唱えていた。


 惹き付けられるようだった。俺は其処へ行かなくてはならない。暫く進むと、道を遮る小川が流れていた。恐らくは木製だろう短い橋が架かっている。


逸希いつき、お前は此処までだ。この先は俺だけで行く。少し待っていろ」


 俺は彼に、先日行った神社で買った御守りを渡して一人で橋を渡った。


「ちょっと先輩! 置いて行かないでくださいよ!」


「川を渡る行為は彼岸へと渡る行為だ。この意味は分かるよな」


 そう言うと、彼は諦めたように道の端に座り込んだ。彼は厚着をしてきているし、此処は師走の夜にしては何故か充分過ぎる程に暖かいから、凍死はしないだろう。


「半刻経って戻らなければどうにかして帰れ」


 我ながら無責任なことを言い捨てて、ずんずんと進んだ。川を渡ってから数分で、神社のような空間に出た。随分と人を怖がらせる神社だなと思いつつも、神社本庁の様式で参拝する。癖で、最後の一礼で目を瞑った。


「ねぇ、お兄さん」


 飛び上がって振り向く。小便を漏らしそうだったし、次に何か怖いことがあれば、多分俺は泣く。そんな精神状況もどうでもよくなるくらいに、声の主は美しかった。美人だとか、可愛いだとか、女性を褒める言葉は数多にあるが、そのどれもが不充分だと確信した。それは燦然たる光。妖艶で優美な闇。その美しさは無量無辺に遍満自在して、悪鬼悪霊など其処に居たとしても、即座に悪念を捨て怨讎を断つ。憎悪だとか呪詛だとか感動だとか愛情だとか、如何に強い念であっても、これの前では霞んでしまう。ただ、俺の心の奥底がこれは悪だと叫んでいる。その叫び声は届かない。


 俺は泣いていた。まるで何十年ぶりに恋人だとか母親だとか親友だとかに再会したかのような、深く広い何かが俺を包んだ。心臓は血管を打ち付け、彼女の芳しい香りに目眩がした。陰茎がこれまでにない程に勃起している。そこで、俺は恋人の姿を思い出した。愛する人の姿を。


「あら、お兄さんは私を前にして他の女を想うことができるのね。面白いわ」


 その声は冷たく、あたたかかった。


***


 あの肝試し、いやもはや肝試しではない理性への冒瀆の体験を経て以降、先輩は変わってしまった。どうやら俺は寝てしまったらしく、目が覚めた時には先輩に担がれて、最初に森に入った時の道を引き返していた。森に入ってからその時までは一時間程度しか経過していなかったようだ。


「俺はやっと見つけたよ」


 それが、先輩が俺の目を見て言ってくれた最後の言葉だった。先輩はそれから大学に進学して、真面目に心理学を学んでいるようだった。しかし、彼の本当の熱はいつも何処か遠い場所。遥か彼方へと向かっているように、俺には見えた。

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