メカニック・ガールは恋の設計図を知らない
木月陽
第1部-1章
第1話 玄関ポーチの王子様
「――いつか僕があなたに恋をしたら、その時は迷わず僕を撃ってください」
そんな事を一点の曇りもない瞳で言い切った彼を、ハリエットは何も言えずにただ見つめた。
きっとこの言葉に対する「正しい答え」は、まだ世界のどこにも存在しない。
* * *
黄金色のトーストに歯を立てれば、ザクッと軽快な音がする。
出来立てのサンドイッチを頬張りながら、ハリエットは満足げに目を細めた。
(やっぱり目玉焼きは、
サンドイッチにした時に一番収まりがいいし、カリカリに焼いたベーコンとコクのあるマスタードによく馴染む。新鮮なレタスやトマトをたっぷり挟んでも、うっかり滑り落ちたりしない。かぶりつけば途端に溢れ出すとろとろの黄身も、急いで食べ切れば問題なし。
もともとハリエットは食いしん坊だから、熱々サンドイッチの一つや二つ瞬く間に平らげるなんて朝飯前だ。(これが朝飯なんだけど)と、とびきり濃くしたコーヒーを啜りながら彼女は思う。
つまり少女は、朝から最高にご機嫌だった。
なにしろ昨日まで降り続いていた雨がようやく止んで、一週間ぶりに乾いた空気を吸うことができたのだ。
新聞を運んできた
しかも今日は珍しく、仕事の予約も入っていない。緊急の依頼でもない限り、今日のハリエットは一日中フリーだった。
(
そこでちょっと昔の記憶が蘇って、ハリエットの顔が一瞬だけ曇る。この前別の依頼人から紹介してもらった料理店、行ってみたらカップルや家族客ばかりで据わりが悪かったっけ。
ブンブンと頭を振って、ハリエットはそんな記憶を追い出した。今日は一週間ぶりの晴れの日で、わたしは久しぶりの休日だ。今日ならなんだってできる気がする。一人のテーブルでパンケーキ三皿だって頼める。多分。
その後は四層のパークを散歩して、夕方からは工房で仕事道具のオーバーホールをしよう。マーケットでいいものが買えたら、夕飯はいつもより少しだけ贅沢して――
楽しい想像は、ドアベルの音でプツンと断ち切られた。
ハリエットの家には二種類のドアベルがある。二つ並べたベルのうち、左側の青のベルが個人的な来客用、右側の赤のベルが依頼人用だ。それぞれ音が違うから、ドアを開ける前に用件がわかるようになっている。そして今鳴り響いたのは、赤色のベルだった。
シャボンの泡のようにいくつも浮かんでいた輝かしい計画が、途端に弾けて消えていく。残りのサンドイッチを口に押し込んで、ハリエットはコーヒーを一気飲みした。食器をまとめて流しに放り込み、ついでに
(お願い、せめて簡単な依頼であって)
壁掛け時計が動かないとか、
心の中で祈りながら、ハリエットは鏡の前で手早く身だしなみを整える。大丈夫、パニエは最高にふわふわだし、コルセットの金具はきっちり締めた。おさげは左右対称で、シャツには染みひとつない。口の両端を人差し指で軽く持ち上げて、笑顔も万端。玄関の鍵を開け、扉を開け放つ。
「おはようございます。ブライトン
最後まで元気よく言い切ることはできなかった。
「……ハリエット・ブライトンさんですか?」
おとぎ話の王子様が絵本の中から現れたら、きっとこんな顔をしているんだろう。
思わずそんな事を考えてしまうほど美しい青年が、玄関ポーチに佇んでいた。
早朝の霧を集めたようなホワイトアッシュの髪がかすかな風で柔らかくそよぎ、その奥から透き通ったアメシストの瞳がのぞいている。白磁に血が通ったかのように滑らかな頬に、瞬きすれば音がしそうなほど長い睫毛が影を落としていた。服装はいささか流行遅れで、それも彼をどこか浮世離れして見せている。
ハリエットは知らず知らずのうちに、自分の頬に手を当てていた。化粧っ気のない自分の顔が、急に恥ずかしく思えてくる。どうせ誰も顔なんてじっくり見ないなんて言ってサボらずに、せめてルージュだけでも引いておけばよかった。別にこの人に対してドキッとしてしまったとか、そこまではいっていない。ただ完璧に美しいものを前にして、自分の格好が完璧ではなかった事が何か、礼儀に欠けているような気がして――
「ミス・ブライトン?」
「わあっ! あっ! ごめんなさい!」
重ねて呼びかける声で、ハリエットは我に返った。
「失礼いたしました。わたしがここの『メカニック』、ハリエット・ブライトンです。本日は修理のご依頼でしょうか?」
「いえ、私は――」
青年はほんの少しだけ間を置いてから、表情も変えずに言い切った。
「私自身の解体をお願いするために伺いました」
「え?」
その時、ハリエットはかすかな違和感を覚えた。
普通、まっすぐ立っているだけでも人の体は自然に傾き、動いてしまうものだ。心臓の拍動、筋肉の微かな収縮は止められない。呼吸で胸や肩も上下する。
この青年には、それらが一切ない。
瞬きは、確かにしている。ただ、ペースがあまりにも一定だ。パチ、パチという規則的な瞼の上下運動は、まるで誰かにそうするのが自然だと教えられた通りにやっているかのよう。
そんな挙動をする人の姿をしたものに、ハリエットは心当たりがあった。
(まさか……でも、こんなに精巧に?)
ふわふわとした疑念が、一つの推測へと収束していく。
しかし、ハリエットはそこで一度考えるのをやめなければならなかった。
上層がにわかに騒がしくなり、一際大きな悲鳴が上がる。
耳をつんざく衝突音が、周囲に轟いた。
「暴走だ!」
「八層から貨物運搬機が落ちた」
「誰か『メカニック』を呼んでくれ!」
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