第4話『秋津悠斗と桜香子』
「(大学の行事で官公庁見学、と言われてもね)」
東京都千代田区霞ヶ関、日本の高級官僚たちが政治家と折衝し、国家の舵取りを担うビル街で、ビルの圧倒的質量を前に桜香子は立ちすくんだ。
100メートル以上もある壁面を夕陽がオレンジに染める。
ビル風で彼女のセミロングの黒髪が揺れる。
香子は、ガラス張りの馬鹿でかいビルよりも、背の低い財務省の石造りの建物のがアンティークで好きだ。
そしてそこは、彼女の父の職場でもある。
大学行事の官公庁見学は東京駅丸の内で解散となり、せっかくなので父に会おうと思う。
桜俊一は財務省から政府中枢の官邸官僚として出向する自慢の父である。
「東邦新聞の磯月望子です。ここに何しに来たのかしら?」
見れば、髪を短く切った中年の気の強そうな新聞記者が背後にいた。
しまった、と彼女は思った。
「あ、あの、桜香子と申します、父がここに勤めていて、大学の帰りで、それで……」
マスコミを相手に緊張して言葉がうまく紡げない。
「惜しかったわね。桜参事官なら官邸で物部総理大臣と会議よ」
物部総理大臣と言えば2012年から首相に再登板し、誰もが知る個性的な政治家である。その物部と自分の父が同じ舞台で働いているのを驚くと同時に、家族の時間を共に過ごせなくなってやや寂しく思う。
いや、待てよ。
「ちょっと待ってください、なぜ父を知っているんですか?」
「桜を見る会の疑惑は知っているでしょう? 官僚の娘さんであるアナタも取材対象よ?」
国家公務員志望の妹ほどではないが香子も聡明な女子である。ニュースくらいは見ている。
来たか、と彼女は怯えた。
レコーダーを口元に向けられ、彼女は固まる。
「や、やめて下さい、取材は父に相談しないと」
自分の言葉が父の言葉と受けとられ迷惑をかけるのは嫌だ。
だけれどもいま騒げばそれ自体が記事になりかねない。
どうしようか逡巡していると、
「か弱い女性を困らせるとは、恥ずかしいマスコミだな」
冷たくて官能的な声が響いた。
颯爽と現れた長身の少年。
香子は彼に釘付けとなる。
儚く揺れる藍色の髪。まっすぐで繊細な感性を秘めた紫の眼、男子とは思えない美しいまつ毛。
その彼は漆黒のスーツと紺のネクタイに身を包み、光る革靴を踏み鳴らし、磯月記者のレコーダーをぐいと下げる。
「な、何よアナタ」
その迫力に、親子ほども年齢差のある磯月記者はひるむ。
彼は咳払いし、懐から名刺を取り出す。
「申し遅れました。父がお世話になっております、秋津悠斗と申します」
「政調副会長の息子さんの秋津悠斗くん?」
磯月記者は目をぱちくりと瞬かせる。
「そうですが」
悠斗は澄ました顔だ。
「え……」
香子が口を手で覆う。
少女漫画でしか見たことない光景に浮かれていたと同時に、政治家の息子が目の前にいて、しかもイケメンで驚いていた。
「今後の情報源は俺からでどうです? かなりの確度の情報を差し上げられますが」
「いいわ、アナタの専属記者になってあげる!」
アデュー、と磯月記者はパンプスを鳴らして帰っていった。
見事にマスコミを撃退してしまい、ため息をつく秋津悠斗のもとに桜香子が歩み寄り、頭を下げる。
「あ、あの、ありがとうございました」
「気にすることはないですよ。うるさいブン屋を退治できて清々しました」
見た感じ、悠斗は年下そうだ。
「どうして助けてくれたんです、か?」
「ああ、敬語はやめて下さい。俺は貴女より年下で高校生なんですから」
びっくりした。悠斗は手をぴらぴらと振る。
「高校生!? さっきのはすごい大胆だったね」
「なぜ助けたか、言わないといけませんか?」
「ますます気になるよ?」
秋津悠斗は告白する前の男子小学生みたいに顔を赤らめて、目をぎゅっとつぶって、口を波線にした。
そうして咳払いし、桜香子に正対した。
「一目惚れ……です」
香子は瞬きののち、口をぽっかりと開けて、両手で口を抑えた。
「俺、こういう者です、今度改めてお話ししましょう」
秋津悠斗は名刺を差し出すと、足早にその場をあとにした。
「あ、待って」
【 秋津悠斗 TEL*********** 住所 千葉県*** 】
秋津悠斗は政治家志望にしてはとんでもなく繊細でシャイだった。
* *
政治家を相手にし、時にスキャンダルの尻拭いをする官僚の帰宅は遅い。
「ただいま」
「おかえりなさい」
財務官僚の桜俊一が帰宅すると畳の藺草の香りが鼻を満たした。妻の花子が背広を脱がす。住まいも家族も純和風だ。
遅い夕飯をとりながらお茶の間でテレビを点ける俊一。
画面の向こうでは、野党議員数十名と官邸官僚数名がテーブルを挟んで対峙し、壁の野党合同追及チームなる張り紙が存在感を示す。
その絵面の中に俊一の姿もあった。マイクを持ち俯き加減でレジュメに目を通す。
『東邦新聞政治部の磯月望子です。きょう国会第一議員会館では桜を見る会の疑惑に関して野党合同ヒアリングが開かれました。労働党から蘇我和成中央執行委員長。護憲民衆党から船橋喜彦最高顧問、国政民衆党から矢本シオリ政調会長、玉野雄太郎代表代行が参加しました』
のちに彼ら野党有名議員が保守党の秋津悠斗を支えるとは誰も知らない。
『桜を見る会は多数の芸能人を招いたため、開催費用は特に2016年から2019年にかけての3年間に加速度的に膨れ上がり、参加費で足りない経費は物部首相が税金で補填した疑いがあります』
物部のスキャンダル、それは政府行事の桜を見る会を物部の個人的な花見パーティにし、多数のお友達、芸能人、地元支援者を税金で接待したことだ。
官房長官の指示で、それらにまつわる公文書を改竄させられるはめになった桜俊一は嘆く。
結局合同ヒアリングは二時間にも及んだ。
俊一はため息をつき、自身が悪役として報道されているニュースを消す。現在内閣官房に参事官として出向している彼は物部政権のスキャンダルで針のむしろだ。
「香子と凪子はどうしている?」
俊一にはふたり娘がいて、長女を香子、次女を凪子と言う。
「凪子は部屋で勉強です。香子は寝ているのではないですか?」
凪子は東大を志し、国家公務員を目指している。姉妹は比較されることが多かった。
「ちょっとふたりに声をかけてくるよ」
凪子が部屋から顔をのぞかせる。
「あらお父様。おかえりなさい」
「ああ。ただいま」
凪子はシャーペンを置き、顔に手をやりうっとりとした顔になる。
「聞いてよ、お姉様彼氏ができたみたいよ。年下みたい」
「ほう、身持ちが固いと思っていたが」
続いて襖の向こうの香子へ呼びかけてみたが、返事はない。
少しだけ襖をずらすと、香子はパソコンの前で突っ伏して寝ていた。
画面には秋津悠斗とのLINEが映されていた。
【 電話番号で友達追加しました:秋津悠斗 】
「よりにもよって、秋津先生のご子息か」
* *
後日、区立図書館にて。
秋津悠斗はシンプルな服装で現れた。真っ白なパーカーに黒いズボンに革靴。黒マスクだ。
「ふふっ、デートが図書館でよかったの?」
デートと言った。デートである。秋津悠斗がデートしてくれませんかとストレートすぎる誘い方をしたものだからこうなった。
香子はカーディガンにスカート、ブラウスでショルダーバッグをかけている。
「図書館デート、いいじゃないですか。聡明な香子さんにふさわしいですよ」
香子は図書館司書関連の本を借りてきて、悠斗は政治の本を借りる。
「将来の夢は?」
互いの借りた本から察した悠斗が話を切り出した。
「私は本が好きだから、図書館司書かなあ」
香子はいとおしそうにページをめくる。
「秋津君は政治家志望だよね?」
「勉強の日々ですよ」
そう言って悠斗は国土交通副大臣であるオヤジと一緒に撮った物部総理大臣との記念写真を見せてきた。
VIPと写真が撮れたことをはしゃぐ彼がおめでたく見え、政府やマスコミで苦労している香子は微妙な気持ちになった。
「でもさ、図書館司書って非正規が多いと聞きますよ」
「そうなんだよね」
香子は口を波線にする。
事実、図書館司書の大多数は外部の業務委託である。
「図書館は民間に業務委託しているんですよ、竹内蔵之助みたいな政府民間委員が行政の仕組みを変えて、公務員を削り、削ったところに自分の派遣会社の人材を入れてるんです」
香子は秋津悠斗を少し怖いと思った。純粋でシャイな一面もあるが、こうして自分の主張を押し通す。
午前のデートは微妙な雰囲気になってしまった。
チラ、と時計を見る悠斗。
「お腹空きましたね」
「そうだね」
「何か買ってきますから」
「あ、え、奢るってこと? 申し訳ないよ……」
キッチンカーでホットドッグを買う悠斗、やや遅れて桜香子も到着。既に1000円札を収めた店員が作り始めていた。
熱々のホットドッグを手に、ベンチに腰掛ける。
「いただきます」
「いただきます」
そして噛んでいく。
「ケチャップついてますよ」
しばし見つめ合い、どちらともなく笑いをこぼす。
秋津悠斗は図書館敷地内の案内板を見る。
「あ、神社がありますね、というより境内と図書館が繋がってますね」
「神社かあ、私神社好きだよ」
「じゃあ参拝しますか」
こんな日々がいつまでも続けばいいとふたりは思う。
* *
お付き合いを始めて1ヶ月後の夜、香子の運転する車で悠斗の家の前を通りかかった。
聞けば、継父が国会議員で多忙。日本教職員組合幹部の実母とも疎遠だと言う。
「今日は、朝まで一緒にいたいなあ」
悠斗が助手席から香子の手に手を伸ばし、温もりを確かめる。
「だめだよ悠斗君、貴方は高校生なんだから」
香子は悠斗の手を押さえる。
「そんなの国家権力でねじ伏せてやる」
香子は秋津悠斗を面白いと思ってしまった。
パチパチと政治家モードと甘えん坊モードが入れ替わるからだ。
「でも、やっぱりだめだよ」
甘い誘惑だったが、芯の強い香子は断る。
「わかりました」
悠斗は今度は潔く引き下がり、代わりに握る手にやや力を込める。指を絡ませ、恋人繋ぎになる。
車の走行音だけが響く、ある意味静かな空間。
スマホが鳴る。運転中なので無視しているがしつこい。
仕方なく、近くのコンビニに車を止めて、電話に出る。
「もしもしお父さん? うん……え!? 転勤?」
悠斗が香子を凝視する。
「私もお母さんも凪子も? 皆んなで? それはおかしいでしょう……え? 青梅副総理の命令?」
* *
時系列は遡る。
財務省財務大臣執務室において、副総理兼財務大臣の青梅一郎はデスクの前に桜俊一を立たせ、辞令を読み上げていた。
「お前さんには公文書改竄の監督責任を被って地方に行ってもらう」
青梅は曲がった口でだみ声で頬杖をつく。絵に描いたような悪人面だ。
この悪人面の老人は総理経験もあり、物部泰三内閣総理大臣の盟友である。
財務官僚のためというよりは、物部政権を守るために動く。
「これはマスコミからお前さんを守るための措置でもある」
空虚な響きだった。
「はい……」
* *
桜がひらひらと舞い散る公園で、男女は別れを経験する。
「国の指示で、家族ごと関西に行くことになった。もう、会えない……!」
香子は目に涙を浮かべ、口を歪ませる。
「就活も厳しいかも、お父さんの事件がマスコミに報道されたから」
「でも、文章や通話ならできます」
「でも、会えないよ、もう」
悠斗は鼻をすすった。そして涙声で、
「香子さん、俺、政治家になって迎えに行きます」
香子が頭を上げた。
「香子さんのお父さんに二度と悔しい思いはさせない。政治家と官僚が互いに尊重しあえる日本を作ります。香子さんみたいな人がなりたい仕事につけて、与党保守党が暴走しないように内部から改革します!」
秋津悠斗のプロポーズの言葉は同時にシビアな現実を突きつけるものではなかったか。
香子はきっと就活もうまくいかず、非正規なりそれに近い職になるだろう。
これから、残酷な現実が待っている。
それでも……
「信じているね」
それが彼女なりの今できる精一杯の返事だった。
悠斗は香子をぎゅっと抱きしめた。
胸が密着し、ときめきが伝わる。シャンプーの匂いが鼻を満たす。
この想い出、温もり、絶対忘れない。
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