凝固

小狸

短編

 「嬉しい」という感情の、表現の仕方がわからない。


 中学時代、定期試験で百点を取った時からである。


 先生から褒められたけれど、なぜか私は、「嬉しい」とは思うことができなかった。


 多分それは、一番褒めて欲しかった親に、褒めてもらえなかったからだろう。


 取った点数を褒めるより、落とした点数の方を責めるような、そんな両親であった。


 そんな親だったから、試験云々うんぬんに関わらず日常的に、私の「嬉しい」という感情は摘み取られてきていたように思う。


 思うことが許されなかった。


 とは、やや過激な表現ではあるけれど、それもまた、間違いではないのは確かである。


 今から考えれば、そこにも何とか推察を至らせることができる。


 恐らく両親は、私が「嬉しい」と思うことに、嫉妬していたのだろう。


 私の家は、少なくとも中学時代は、かなり劣悪な環境であった。


 両親同士は毎日喧嘩し、中学二年になる頃には、ほぼ離婚秒読みであった。


 私という子どもを育てるという共通認識で、唯一繋がっていたようなものである。


 正直そんな接着剤のような役割を担わされるには、当初の私には重すぎた。


 だからこそ。


 自分たちが劣悪だからこそ。


 父や母は、そんな中で「嬉しい」「幸せ」を持ってくる私を、妬んでいたのだろう。


 どうしてお前だけ、嬉しそうなのか。


 どうしてお前だけ、幸せそうなのか。


 ――と。


 あくまで成人した後に思い出して組み立てただけの、ただの当て推量である。


 きっと親には親の考えがあったのだろう。


 私には私の、考えがあるように。


 まあ、私の考えは、親によって見事に踏み潰されたのだが。


 そんなこんなで。


 お世辞にも優良とは言えない環境で育った私は、なかなかどうしていくつかの感情表現に欠陥を抱えたまま、大人になってしまった。


 その内の一つが「嬉しい」である。


 「嬉しい」とは何なのか。


 未だに分からない。


 他人に褒められたり、賞賛されたり、評価されることが、世間的に、相対的に嬉しいことは分かる。


 何ならそれに合わせて、口角こうかくを上げることだってできる。


 ただ、それは私の内部から発現されたものではない。


 周囲が「嬉しいと思うべき」「嬉しいと思って良い」という雰囲気をかもし出していているから、それを察知して、「嬉しい」と思っているだけである。


 決して自分でどうこう思ったという訳ではない。


 そもそも自分とは何なのかという哲学的な話にもなってくるけれど、その話はいずれまた機会のある時にしよう。


 取り敢えず笑っておけば良いという回路が、繋がってしまっているのだ。


 そうすれば、周囲と差異ずれることはないから。


 そういう意識で生きているし、そうする以外に私の生きる道はないと思っている。


 周囲と差異ずれないというのは、社会生活を送る上でかなり重要なことである。


 空気を読め、周囲の雰囲気を察しろ、暗黙の了解を理解しろ。


 よくよく考えてみれば無茶苦茶だが、これらを至極当然のように要求されるのが社会というものである。 


 そして残念ながら、これは物語ではない。


 現実である。


 故に、ここから私が「嬉しい」の表現方法を体得するまでの過程は、描写されない。


 世とはそういうものだろう。


 徹底的に理不尽で、圧倒的に不条理で、決定的に不合理で。


 そして何より、物語的ではない。


 などという物語的な展開など、私の人生では起こるはずがないのだ。


 駄目なままだ。


 感情がこごったまま、私は今日も、仕事へ行く。


 誰も私を、理解できない。


 誰も私を、理解しない。


 もうそれでいいや。 


 何でも、良いや。


 割り切って、生きることにした。


 皆が、そうしているように。


 一歩を踏み出した。


 信号は、赤だった。


 血の色と同じである。


 *


 そうして、田科たしな頼子よりこが生きることを諦めたのは。


 令和れいわ5年の、10月18日のことである。




(了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

凝固 小狸 @segen_gen

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ