第二章 出会いの春

第一話 甘いソプラノと泥棒獅子。

 四月。

 芽吹きと出会いの季節のなかを、駆け抜ける少女がいた。


 風に揺れる艶やかな長い黒髪。ひらひら踊るスカートの丈は、思いきった短さだ。

 春色の桜並木を真っすぐに見つめる瞳は、吸い込まれそうになる茶色で、心なしか都会育ちの少女の上品さすら感じさせた。

 長い脚で地面を蹴る度、リズミカルに白いイヤホンと背中のギターケースが弾む。ふわふわ漂う香水の香りが、すれ違った男子生徒の気を惹いていたが、当の本人はなんの自覚もないようだった。


 真新しい制服に身を包んだ新入生で溢れかえる正門。

 荒くなった呼吸を整え、肺いっぱいに空気を吸い込んだ。

 春爛漫。花の香りと、あたたかなお日様の香りが肺のなかを洗浄する。微かに混じっていた潮風の気配は地元ほどではないけれど、親友の待つ防波堤の光景を思い起こさせた。


「麗。私、高校生になったよ」


 仰いだ空は雲ひとつない快晴だ。

 期待と高揚を胸に抱え、麗から託された夢を握り締めて。


 響鳴瀬の高校生活が始まった。


 ~~~


 入学式を無事に終え、はじめてのホームルームで自己紹介が始まった。

 出席番号の順に生徒が呼ばれ、名前と趣味、あとは将来の夢だったり、好きな漫画だったり、特技について語っている。

 鳴瀬の出席番号はちょうど真ん中。そわそわしながら他の生徒の自己紹介を参考に何を言うべきか、どっきんどっきん、と心臓はうるさく焦燥していた。

 その時だった。

 ちょんちょん、と背中を何者かに触れられた。


「ひっ⁉」


 情けない声が漏れたが、幸い教室には響いてはいない。

 背後の席に振り向くと、そこには怪訝そうな表情をした童顔の愛らしい女子生徒がいた。

 丸い瞳は日本人には珍しい淡い青色で、栗色のボブヘアが持ち前の童顔によく似合っている。厚い唇はどちらかと言えば妖艶で、丸々と膨らんだシャツの胸元のボタンは早くも悲鳴を上げていた。


「あの、体調悪いんですか? 保健室、一緒に行きます?」


 声は甘いソプラノだ。小動物じみた上目遣いが、鳴瀬の心臓を、ドキリ、と跳ねさせた。


「えっ、いや……大丈夫です。緊張してるだけなんで」


 つい敬語になってしまったのは、中学時代の不登校だった機関の長さが原因だった。同年代と言えど初対面から気さくに話しかけるのに、知らず苦手意識が芽生えてしまっていた。

 それが意外な反応だったのだろう。小首を傾げ女子生徒が訊ねてくる。


「こういうの、初めてなんですか?」


「まぁ、……はい。恥ずかしながら。田舎育ちなもので」


 これも田舎育ちの弊害と言えよう。

 田舎には教育機関など多くはなく、当然行き先は限られてくる。

 鳴瀬にはこれまで約一五年間、クラス替えや進学による周囲の人間の劇的な変化という経験がなかった。

 保育園から小学校に上がるときも、小学校から中学校に上がるときも。顔ぶれはほとんど変わらなかった。

 皆顔馴染みだから自己紹介の必要などなかったのだ。

 その経験のなさがここに来て露呈してしまっていた。


「へぇ、意外ですね。てっきり都会の人だと思ってました」


「まさか。田舎も田舎。ど田舎の人間だよ」


「この辺りも、充分田舎ですけどねぇ」


 そんなやり取りを交わしている内に、鳴瀬のひとつ前の席の生徒が立ち上がった。

 とうとう順番が回ってくる。落ち着く為に深呼吸をしようとして、ふと気付いた。心臓がうるさくない。

 知らぬ間に、落ち着きを取り戻している自分がいた。


「あっ、緊張取れました?」


「えっ? うん……」


 無意識に言葉遣いが柔らかくなっていたことに鳴瀬は気づいていない。

 不思議と収まった緊張に困惑している様子の鳴瀬を見つめて、女子生徒は柔和に微笑んだ。


「良かった。計画通り、ですね。私、深瀬ふかせこよみって言います。よろしくです」


「よろしく、深瀬さん。私は——」


 鳴瀬が名前を口にしようとすると、暦が厚い唇の前で人差し指を立てた。その奥に浮かべた笑顔は艶めかしく、けれど同時にいたずらなものだった。


「次、あなたの番ですよ」


「へっ?」


 間抜けな声で振り向くと、教育中から視線が鳴瀬に注がれている。

 気まずい沈黙。注がれる視線、視線、視線をまじまじ見返して、鳴瀬は飛び上がるように椅子から立ち上がった。


 ~~~


 「ねぇ、響さん。一緒に帰りませんか?」


 鳴瀬に声を掛けたのは暦だった。

 ホームルームを終えると、そのままその日の全日程は終了した。鳴瀬たち新入生は、他の生徒よりも一足早い帰宅を許されていた。のだが、


「ごめん。私、このあと寮に行かなきゃなんだ。荷解きがまだでさ」


 鳴瀬はそうはいかなかった。

 鳴瀬の地元は小さな港町だ。教育機関は中学校までしか存在していない。高校生になると子供たちは、皆地元を離れて行く。それは鳴瀬も例外ではなかった。

 電車はおろかバスすら半日に一本しか通っていない地元から車で二時間。急勾配急カーブの連続する悪路を走って、ようやく辿り着くのは人口四万人にも満たない小さな街だ。

 通学の負担を減らす為に、鳴瀬は進学先の運営する寮に入寮し高校生活を過ごすことを決めたのだった。


「相部屋どんな人かな。怖い人じゃなきゃいいんだけど……」


 ぶつぶつ廊下を歩きながら、寮母から受け取った部屋の割り振りに目を通す鳴瀬。寮は二人で一部屋を共有しているようで、卒業まで変わることはないらしい。寮生活を満喫できるかどうかは、この一戦の運が鍵を握っていると言っても過言ではなかった。

 相部屋になる生徒の名前は、郷右近ごううこんきらら。

 典型的なきらきらネームだ、と。僅かでも油断したのが、運の尽きだった。

 三〇八号室。角部屋らしい。三階建ての寮の窓から海を一望できる特等席を引けた幸運を嚙みしめながら、鳴瀬は部屋のドアを開けて、


「……いい音出るじゃねぇか」


 視界に飛び込んできたのは、見覚えのあるヘッドセットを耳に当てて体を揺らしている金髪の少女。真っ赤な双眸の三白眼は猛獣のようで、体と共に揺れている結んだ髪は獅子の尾のようだった。


「ぁ、ぁぁぁ……っ」


 声にならない声が漏れる。

 しかしそれも無理はない。

 何せ金髪の少女が耳に当てているヘッドセットは、鳴瀬のお気に入りの猫のステッカーがそっくりそのまま同じ位置に貼られていたから。

 つまり彼女の使っているヘッドセットは、彼女の物などではなく、


「どっ、どっ……ドロボーォォォッッッ!!」

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