第三話 三月、海に漕ぎ出す。
他人に勝るものなんて、私にはひとつもありはしなかった。
運動会の駆けっこだっていつもドベ。絵を書いてもいつも下手くそ。勉強なんて当然出来る方ではなかったし、体育なんて大の苦手だった。
けれど、たった一度だけ。本当にたった一度だけ。
何のまぐれかは知らないが、クラスの代表としてステージに——全校生徒一五〇人程度の小さな全校集会のステージに立ったことがある。
校長の趣味で毎月行なわれていた、俳句鑑賞会なる甚だ小学生向けとは思えない催しだ。
自分がどんな句を詠んで立つことになったのかまでは覚えていない。ステージに立った途端に、緊張ですべて記憶が吹き飛んでしまったから。
それでも、クラスメイトから初めて向けられた憧憬の眼差しだけは、中学三年になった今でも鮮明に覚えていた。
~~~
昼下がり。
いつもの防波堤を訪れると、真っ白い少女の亡霊が独り鼻歌を歌っていた。その姿はさながら神話や御伽噺のセイレーンのように儚く優美だった。彼女の歌声が聞こえているのか、ウミネコが集まってきて防波堤を白く光らせていた。
死して尚も他人——正確には鳥をも惹きつける才能に恵まれていた彼女の存在が、不意に眩しくなった。
踵を返そうと足を止める。
が、こちらの存在に気付いた一羽が飛び立つと続けて残るウミネコたちも一斉に飛び立った。
当然、麗の視線はこちらに引き寄せられて、
「待ってたよ。鳴瀬ちゃん。昨日のこと、考えておいてくれた?」
脳裏に蘇ったのは、昨日麗と交わした会話。
麗の代わりに歌手になるなんて、不可能であることは分かっているはずなのに。
努力もできず、才能もない自分には無理な約束だった。
「……ごめん、やっぱり私にはできないよ。歌手なんて——」
麗の顔を見ないまま。背負うギターケースの肩紐を、縋りつくように両手で握り締める。
「うそつき」
麗の言い放った一言で、頭のなかが真っ白になった。
一瞬、言葉の意味を理解できずに困惑する。
やっと理解が追いついた時には、麗の視線は肩紐を握り締める鳴瀬の左手を見つめていた。
「指のそれ、まだ新しいよね。目にも隈ができてるよ。……ギター、頑張ったんだよね」
隠しても無駄だった。
組んでいた手を解いて、左手を露わにする。人差し指と薬指に巻かれた絆創膏には、痛々しく血が染みている。スライドの勢いで切った指は、傷が疼いて動かすたびに痛みを伴った。
徹夜のせいで重たく回らない頭を持ち上げて、麗を見返いした。
「でも、麗みたいに上手くできなかった。麗が居なくなっても、大丈夫なように頑張らなくちゃって思ったけど、私にはできないことばっかりで……!やっぱり私には才能なんてないんだって、誰かに言われてる気がして……!」
自分の弱さを吐露する度に、心臓が軋んで痛くなった。
「頑張ったよ……私なりに頑張ったよ。でも、努力だけじゃどうにもならないくらい、麗も皆も遠くにいるから……」
「だから諦めちゃうの? 逃げて、本当にそれで後悔しない?」
「……っ」
いつになく冷淡な物言いに、返す言葉を遂に失くした。
麗を真っすぐに見れなくなって視線を逸らし続けていると、足音もなく麗がこちらに歩み寄ってきた。
「何かあった? 教えてほしいな」
麗に促されるまま昨晩のことを打ち明けた。
視聴者にすらギターの技術で劣っていたこと。憧れていると告白され、何とか期待に応えようとした。
結果自分は、麗はおろか視聴者の足下にすら及ばないほどギターを弾けなくなってしまっていた事実だけが判明した。
「で、昨日は寝れなかったんだね」
麗の補足に、小さく頷いて肯定する。
経緯を語っている内に随分と時間は過ぎていて、知らぬ間に陽は傾き始めていた。
徐々に赤く染まる日差しに身体が火照ってしまいそうになるが、麗の身体だけはそうはいかない。赤い夕陽が透過する彼女を見つめていると、不意に麗が立ち上がった。
そして、すぅぅぅ、と肺いっぱいに空気を取り込んで、
「いい加減に、うじうじするなぁぁぁっっっ!!」
耳を塞ぐほどの声量で叫んだ。
「ちょっと! 麗!? 声大きいって……! 人が見てるから……!」
あまりに唐突な大声に、思わず彼女が霊体で他人からは見えていない事を失念した。当然声も聞こえることはないから、他人には何の迷惑もないのだが。
「どうせ聞こえてないから気にしない! 私死んでるし! そんなことはどうでもいいから、もううじうじしないって約束して!」
「は!? いや、意味分からないんだけど……!」
「いいから! 約束して! もうお通夜気分は終わり! とっくの昔に私のお葬式は終わってますよ! 響鳴瀬さん!」
怒涛の𠮟責に混乱している鳴瀬に構わず、小指を出してくる麗。ゆびきりげんまんだ。
まとまらない思考のなか。ほとんど脊椎反射で小指を差し出す鳴瀬だが、指を交す直前になってふと冷静になって指を引っ込めた。
「いや触れないんだけど、どうやるの? これ」
「気合い! こんなの精神論だし! 気にしない!」
それを言ってはおしまいだろう。
思ったツッコミを飲み込んで、感触のない指を交差した。麗の指と重なった瞬間、微かに指先が冷たくなったのはきっと沈みかけの陽のせいだ。
ゆびきりげんまん、噓ついたらはりせんぼんのます。ゆびきった。
「これでもううじうじしない。もししちゃっても、その思いは全部歌詞にして吐き出して。鳴瀬ちゃんの歌詞には、それだけの価値があるんだから」
麗が零したそれは、独白だったのかもしれない。
未だ疑念の拭えていない視線を注ぐ鳴瀬を横目に、麗が続けた。
「鳴瀬ちゃんに書いてもらった歌詞を初めてみた時に、私思ったんだ。この子には一生かけても歌詞じゃ勝てないかもなって。正直、嫉妬しちゃった」
「え……? 麗が……?」
まさか。そんなはずがない。
だって麗は、私なんかよりもずっと音楽の才能があるのに。そんな麗が私に嫉妬なんて。冗談も甚だしい。
内心で思ったのが表情に出てしまっていたのだろう。
腰を下ろした麗は、むすり、と頬を膨らませていた。
「あー、信じてないなぁ? こちとら生きてる間はずっと言えなかった秘密をカミングアウトしたんですけどぉ?」
「だって……麗は私なんかより」
俯き加減に答えると、麗が針千本飲みますか、と物騒な質問をしてきたので首を横に全力で振って否定した。ついでに心にヘドロのように纏わりつく黒い感情たちを振り解こうとしたけれど、なかなかどうして上手く脳裏を去ってはくれない。
表情に出さぬように。言葉にしないように。
「どうしてそう思ったの。私に作詞じゃ勝てないって」
問うと、麗が静かに微笑んだ。
やがて水平線の彼方に沈んでいく夕陽を見つめながら、麗が答えた。
「鳴瀬ちゃんはさ、弱いんだよ。心が。それはもう、これ以上なく」
「
「ううん。褒めてる」
説得力が皆無なのだが。
食い下がりたくなる気持ちを抑えて、麗の弁明に耳を傾けることにした。
「鳴瀬ちゃんの心の弱さはさ、人を救う弱さなんだよ。鳴瀬ちゃんの歌詞は優しくて、苦しくて。でも必死に生きようって強さがある。私たちに憧れてくれたその人もさ、そんな鳴瀬ちゃんの歌詞に惹かれたんじゃないかな。音楽は演奏も大事だけど、歌詞が心に響くかどうかですごく意味合いが変わると思うんだ」
すこし、くすぐったくなった。こんなに面と向かって人に褒められたことがないから。
一頻り麗の胸中の思いがうちあけられたところで遮ろうとしたが、ふと視界に飛び込んできた彼女の手に意識を吸われた。
手を重ねられていた。
温度も、感触もないけれど。確かに麗の手が、重なって思いを伝播しようと固く握られていた。
「だから、逃げないで。鳴瀬ちゃんの歌を聴かせて。ギターなんて後でいいよ。ネットの活動も、しばらく休止ってことでいいじゃん。とにかく、歌手になってよ。鳴瀬ちゃんは、才能だとかそんな理由で夢を諦めちゃいけない人だよ」
麗はそれきり何も言わなくなった。
沈黙が訪れる。互いに何も、言葉は交わさない。
ただ、静かに。
私は、麗の手を握り返すように絆創膏まみれの手が痛くなるほど固く握った。
~~~
それから秋が過ぎて、冬を越して。桜が満開になる季節が来た。
卒業式を終えて。最後の集会を終えて。
クラスメイトたちが最後の思い出に、と集まって写真を撮っているなか。
鳴瀬は独り、学校指定の鞄を背負って教室を足早に飛び出した。
ぱたぱた上履きの靴音が響く。
きっと最後になるだろう階段を数段飛ばして飛び降りて、廊下を駆け抜けて昇降口に飛び込んだ。下駄箱を開け放ち、上履きを手に持ったままローファーに履き替える。
屈んで胸の生花のコサージュから、鼻腔にいつか親友が身に纏わせていたのと同じ花の香りがした。
駐輪場に駆け込んで、学校の正門を飛び出して。全速力で自転車を漕いだ。
息が上がって、体が火照って、頬を汗が伝っていく。
そして、あの防波堤に向かった。
防波堤に辿り着くと、白い少女が待っていた。
全速力で自転車を漕いで迫ってくるこちらの姿に目を一瞬見張ったようだったが、意図を悟ったようで、くすり、と小さな笑みを零していた。
麗の横を、自転車で突っ切った。
防波堤の上を、自転車で駆け抜ける。
チェーンが悲鳴を上げている。タイヤが制止を叫んでいる。でも、ブレーキを掛けることだけはしない。
もう止まる気なんて、さらさらなかった。
「麗! 私、歌手になるから! 高校行ったらバンド組んで、音楽続けるから! 絶っっっ対、夢叶えてあげるから! 見ててよ!!」
ついに、両手を離して立ち上がった。
全身に感じる風が心地よかった。
春のぬくもりですら暑苦しいくらい、体が底から熱かった。
波の音に混じって、背後で麗の歓声が聞こえてくる。
ガタンッ、と。自転車がついに地面から離れる。
浮遊感が身体を襲って、私の体は自転車よりも遥か遠くに投げ出された。
ぶくぶく溢れる気泡と共に、海のなかで目を開いた。
そうして視界に飛び込んできたのは、いつかの夏のような青、青、青に満ち満ちた、光り輝く世界だった。
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