異世界喫煙所
里予木一
第1話:竜の好きな銘柄
「お疲れ、先上がるわ」
年上の女上司がひらひらと手を振りながら、ジャケットを片手に部屋を出ていく。その後ろ姿に小さくお疲れ様です、と声をかけて、俺、
時刻は九時を回ったところ。部屋の中は自分の周り以外照明が消えて暗い。昔に比べたら、だいぶ健全になったな、と思う。終電間際まで何人も残業しているのが当たり前だったのに。
上司も帰って一人になったので、スマホを机の上に置き、イヤホンを取り出して適当に作業用の動画を流す。……別にサボるわけじゃない。音があったほうが仕事が捗るのだ。
今の仕事は昔から望んでいたものじゃない。システムエンジニア。パソコンを触る機会が多かったから、なんとなく選んだ職だ。元々は、何かを生み出したい、と思っていた。イラスト、小説、漫画、アニメ、ゲーム。なんでもいいから、関わる仕事がしたいと思っていた時代もある。――でも、それは簡単なことではなかったし、何より努力も足りなかった。だから、あっさりと、諦めた。
たまに、素晴らしい作品に触れたとき、思う。自分だったら、どんな作品が作れただろうか、と。そんな時に、チリチリと、胸の中が燻るように熱くなり、すぐに消える。コンテンツを発信する側の人間に対する、少しの憧れ。そして諦め。それらを感じたとき、少し息が苦しくなる。
「――よし、今日はここまで」
荷物を持ち、電気を消して、会社を出る。ビルの外、誰もいない喫煙所のベンチに座って、煙草に火をつけた。
自販機で買ったホットコーヒーを片手に、紫煙を空に向けて吹く。胸の中で燻って生まれたものは、煙草の煙とともに、外に吐き出すのだ。
煙草を吸った時の何とも言えない感触。体の中に異物が入り、満たされていく。吸い込んだ煙を吐くたびに、現実を少し忘れられる。
――この瞬間だけは、俺は別の世界にいるんだ。
いつからか、そんなことを思っていた。外の景色があいまいになり、意識が少し朦朧とする。
――ヤニクラか? 吸う間隔は空いたけど、さすがにこれはちょっとおかしいような……。
一度、目を閉じ、深く煙を吸い込んだ。そして、目を開けると――。
そこは、見たこともない、場所だった。
「…………え?」
喫煙所、なのは変わらない。だろう、たぶん。ベンチに腰掛けた状態なのもそのまま。ただ、周りには人がたくさんいた。――いや、人というにはあまりにも、異常な姿。
一人は、人型のトカゲ、一人は、獣の耳としっぽの生えた女、一人は、羽の生えた男。普通の人間もいるが、服装は明らかにおかしい。まるで――。
「異世界ファンタジーだ」
その呟きを聞いていたのか、一人のやや大柄な女性がこちらを見た。アニメやゲームでしか見ないような、見事な長い赤毛に大きな瞳。二十歳前後だろうかとも思うが、明らかに人種が違うので年齢が良くわからない。とりあえず皴はなさそうだ。
「ん? ねぇ君……どこから来たの?」
「え? いや、なんだろう。……たぶん、なんだけど、異世界、かなと」
慌てながらも、思ったことを口に出す。なんとなく、ごまかしか聞かなそうな相手に見えたのだ。
「――確かに服装も全然違うし、うん、そうっぽいね」
彼女が口にくわえているのは、葉巻だった。女性には珍しいように思えるが、不思議と彼女には似合っている。
「……異世界の人って、そんな当たり前にいるもんなんですか?」
なんとなく、敬語になってしまった。だが、彼女が自分よりずっと年上であるように感じたのだから仕方ない。年齢だけでなく、知識も経験も、ずっと上なように思える。
「うん。多くはないけどね。私も何人か会ったことあるよ。やっぱり変わった服装をしてたし、魔力の感じが普通と違うからすぐわかるかな」
魔力、がある世界なのか。なるほど。とりあえず煙草を吸い終わりそうだったので、灰皿に入れ、二本目に火をつける。なんとなく、そうしなくてはならないと思ったのだ。
「……変わった煙草。君の世界のもの?」
「はい。紙巻きの煙草は、ここにはないんですかね?」
お気に入りの銘柄のBOXをポケットから取り出し、女性に見せる。
「一応あるけど、ここまで綺麗な箱に入れられて、丁寧に巻かれたものは見たことないかなー」
興味津々、という様子で見ているので一本あげることにした。
「よかったら、どうぞ」
「いいの? なら遠慮なく」
ちょうど葉巻を吸い終わったのか、灰皿に捨てると、俺から受け取った煙草に火を付ける。……理屈は分からないが、指先を煙草に触れさせたら発火したな……なんなんだこの人。いや、たぶん人じゃないが。
「ふーん。なるほど。変わった味だね。ちょっと薄いかな」
どうやら口内で味わっているようだ。
「それはどっちかというと、肺まで吸い込む用の煙草ですね。フィルターがついているので」
「肺? そうなの? どれ――」
すうっ、と深呼吸する女性。さすがにむせてはいないが、すぐに煙を吐き出した。
「へえ。肺に入れるとこんな感じなんだ。面白いね」
「葉巻は普通口で味わうものですからね」
肺喫煙が主流になったのは紙巻きたばこが生まれてからではなかっただろうか。
「これ、私好き。ねえ君。名前は?」
「国渡亮、です」
行ってから、リョウ・クニトのほうが良かったかな、と思ったが今更だ。
「クニト、ね。一つ頼みたいんだけど、この煙草、箱ごと譲ってくれないかな? お礼はするからさ」
礼、とは何だろう。とは思ったが、別に煙草はストックもあるし、この夢だか現実だかわからない空間で物品をやり取りするのは何となく楽しそうだ。
「ええ、構いませんよ」
「よし、交渉成立。代わりに……これをどうぞ」
女性に手渡されたのは、手のひらほどの赤く光る、平べったい何かだった。これは……鱗……?
「大きな声では言えないんだけどさ、私……実は竜なんだ。そして、これは私の鱗。貴重で色々役立つし、売れば結構なお金になると思うよ。それじゃあね」
煙草の箱を持ち、一本を咥えたまま女性は喫煙所から出ていった。
「竜の、鱗、ねぇ……」
貴重品ということだったので、スーツの胸ポケットに隠す。もう煙草も切れそうだし、冷めた缶コーヒーも飲み終わる。
「……しっかし、どうやったら帰れるんだろうな」
煙草を灰皿に捨て、とりあえず立ち上がる。喫煙所から出れば、現実に戻れたりするだろうか。
――と。立ち上がった瞬間、景色が変貌した。
気づけば、そこは元居た喫煙所だ。周りを見渡しても誰もいない。ビル群と、ぼんやりとした星空が見える。
「…………夢でも見たか……?」
そう呟いて、スーツの胸ポケットを探る。そこには――。
吸いかけの煙草の箱、ではなく。
真っ赤な鱗が一枚、入っていた。
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