かぎ編みの魔女と神様
野々宮友祐
第1話
「やっと、やっと見つけました」
その日、誰かにノックなどされたことのない玄関扉からコンコンと音がした日。
「かぎ編みの魔女――――エマ・クロッシェさま」
「あなたの力が、必要なんです」
この世界の、最後の一ヶ月の始まりの日。
「そういう訳で、僕と一緒に……って、聞いてます?」
「ええ、ええ。聞いているわ」
「嘘だあ……」
やっとの思いで見つけたかぎ針編みの魔女、エマの家を訪ねて説明をすること数十分。僕ことヴェルトはもう泣きそうだった。
なぜって、この魔女ぜんぜん話を聞いてない。
ものすごく、本当に大事な話をしているのに。
それなのに、さっきからずっと手元の針と糸を操っていて、一度もヴェルトの方を見てくれやしない。一応話に相槌はうってくれるし椅子もテーブルもお茶も出してはくれた。手に持っていたかぎ針をすいと振ったらティーカップが飛んできて、やっぱり魔女で間違いなかった! と喜び勇んで説明を始めたのに。
「はぁ……」
話をするのをいったん諦めたヴェルトは、ため息をついて部屋をぐるりと一周みまわした。
糸、糸、糸。
ウール、コットン、モヘア、アンゴラ、麻、アクリル、カシミヤ。
たくさんの種類、たくさんの太さ、たくさんの色。
そんな毛糸たちが、壁一面に備え付けられた棚にみっちりぎっちり入れられている。こんなにたくさんの毛糸を見たのははじめてだ。
あれはさわり心地がよさそう。
あっちはカラフル。
あっちのすごく太いのは何に使うんだろう。
一通り観察して、見るものもなくなって視線を魔女に移す。この部屋唯一の窓、そのそばに座って一心になにかを編む魔女。
その向こうに見える空は、今日もやっぱり狭いまま。
ヴェルトは生まれてからずっと、一面の青空なんてものを見たことがない。彼に限らず、この世界に生きるほとんどの人がそうだろう。
二百年と少し前。突然空に現れた異世界。
この世界とはまったく別の文明をもつ世界だった。地面には建物ばかりで緑などまったくなく、それもあんなに高くそびえる建物なんてみたことがない。あんな風に空を飛んでいる鳥みたいな巨大なものも、島みたいに大きな船も、なにもかもがこの世界とは違っていた。
そう、そんな様子が肉眼で確認できるくらい。そのくらい本当に近くに唐突に現れた異世界が、空の半分以上を覆ってしまった。
けれどもその世界はただそこにあるだけで、連絡手段みたいなものはないし、このままぶつかるのかと思いきやそうでもないらしい。
ただ、そこにある。それだけ。
(――って、みんな思ってる。けど、)
ヴェルトは知っている。そんな訳がないことを。
神官家系に生まれ、この世界の神と共に生きるヴェルトは、あれがそんな無害を装っていることをきちんと知っている数少ない人間だった。
それから、もうタイムリミットが近いことも。
ヴェルトが、父が、祖父が、必死で探した魔女たちの力がどうしても必要で、やっとの思いで見つけた最後のひとり、かぎ針編みの魔女だというのに。
(ぜんぜん話聞いてくれないんだもん……)
泣きそうだった。
いじけて指先をいじって、ささくれをみつけて引っこ抜いたら痛かった。涙こそ流さなかったけれど、心のなかで泣いた。
「……ん、よし」
「んえ」
「お待たせしてしまってごめんなさいね。じゃあ、支度をするから少しだけ待っていてくれるかしら」
ぱちん、と小さな鋏の音。それから、太い縫い針みたいなものですいすいと糸端を編んでいたものに入れ込んで、エマが顔をあげる。
それから、別のかぎ針を取り出した。さっきまでのものとは針先の太さが違う。それをすい、と動かせば籠の鞄がどこからともなく飛んでくる。
「ああ、これじゃないわ、ええと」
また別のかぎ針を取り出す。さっきのよりも、もうちょっと太いような気がする。
「ええ、ええ。そうね。たしかあの鞄は八/零で編んだのよね」
すい、と振る。また鞄が飛んでくる。さっきよりも大きな鞄。それをテーブルの上に置いて、もう一度。まるで演奏の指揮者のように動かせば、部屋のあちこちからいろいろなものが飛んできた。
毛糸に、財布、洋服と、毛糸、タオルに歯ブラシ、毛糸と毛糸と毛糸。
明らかに鞄の容量以上のものたちがどんどんと吸い込まれていく様子を、ヴェルトはただただ見つめていた。魔法の鞄も、そこに自動的にものが飛び込んでいくのも、現代じゃもう誰も使うことができないであろう高等魔法。
それをなんでもないように鼻歌交じりに使いこなすこの人こそが、かぎ針の魔女一族のたったひとりの生き残り。
「――ハイ、おしまい。さあさあ、行きましょうか」
「え、あの、は、はいっ!」
呆けていたところを現実に引き戻され、魔女と共に家を出る。
「僕の話、聞いてくださってたんですね!」
「ええと、ごめんなさいね。どこに行くのか聞いても良いかしら」
「えぇー…………」
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