埠頭港

小狸

短編

 小学校6年生の、3月の話である。


 親から中学校に行くなと言われた。


 何でも、家で教育は事足りるからとうことらしい。


 そもそも私は本来、私立の中学に行くはずであった。


 筈であった。


 つまり、行けなかったのだ。


 私立受験戦争に負け、公立の中学にエスカレーターで進学することになった。


 親は、私が受験に落ちた時、何も言わなかった。


 ただ呆然ぼうぜんとしていたように思う。


 立ち尽くしていた。


 ねえ、お母さん――と、揺り動かしても、彼女は動かなかった。


 私よりもショックを受けていた。


 正直私は、私立の中学に進学したいとも思っていなかったし、その頃から勉強そのものに対して苦痛を抱いていた。


 通いたくもない塾に通わさせられ、将来のためになると、毎日情報を頭に詰め込まれる。そこまでして何かになりたいとも思っていなかった。


 だから、無理して頑張りたい、頑張ろうと思う親の気持ちに付いていけなくなっていたのも、事実であった。


 そもそもどうして親が私に私立受験を勧めたのかと云えば――これは後から分かったことだけれど、母親自身が私立受験に失敗したから、というのが大いにあるようだ。


 俗に言う、学歴コンプレックスというものである。


 今の時代は、何にでも名前があるから良い。


 何でも分類することができる。


 両親は、小学校の頃から勉強に関しては途轍もなく厳しかった。


 一学期の間に一年間で受ける勉強を先取りさせるなど当たり前であり、既に一年生の時点で、私立入学を考えていたのだろうと思う。


 親の意向というところが大きい、というか、親の意向しかない。


 親は度々、勉強を強要する理由として、こう言ってきた。


 将来のためになるから。


 幸せになるためだから。


 そう言って、私の話など聞いてはくれなかった。


 将来、幸せ。


 ねえ?


 どう思う。


 そういうものって、勉強で手に入れられるものなのだろうか。


 父は医者で、母は教師をしている。


 しかし私には、両親が幸せそうにしている所を、記憶力というものを獲得してからというもの、一度として見たことが無い。


 家族旅行なんて行ったことはない。


 そんなことをしている暇があれば勉強しろ、貴女の為を思って言っている、お前の為に将来の貯蓄をしているんだと、毎日のように私は言われてきた。


 私には。


 幸せ、というものが何なのか分からない。


 勉強して、良い大学に入り、良い企業に就職し、出世して、お金をたくさん稼ぎ、良き伴侶はんりょと巡り会い、子どもを作って、毎日を暮らす。


 成程なるほど、それは普遍的な幸せなのかもしれない。


 世間ではだと思われているのは、子ども心でも何となく分かる。


 でも、


 私は、幸せを確立できないまま、大人になってしまったのだ。


 少なくとも私立受験をするまでの私は、親の傀儡であった。言う通り、言われるがままに勉強して、我慢してきた。


 皆みたいにゲームをしたかったけれど、我慢した。


 皆みたいに漫画を読みたかったけれど、抑圧した。


 小四の時、クラスのミニバスの女子にいじめられても、親に隠し通した。


 全ては、親の為だった。

 

 親が幸せになることが、私の幸せなのだと、その頃は信じて疑わなかった。


 同学年のママ友の間では、私が私立の受験をすることがいつの間にか広まっていた。


 受かるだろう、と言われていた。


 あの子なら受かって当然だろう、と言われていた。


 しかし、なかなかどうして現実は非情である。


 私は、受験に落ちた。


 親は、その日から、ほとんど私に口を利かなくなった。


 話しかけても「ああ」とか「うん」とか、そんなことばかりになった。


 そして――きたる小学校6年生、春一番が吹き去った3月31日、夕方の話である。


 私は親から、学校に行くなと言われた。


 どうして行っちゃいけないのか、と聞いた。


 殴られた。


 どうやら親は、その問いを、私の反抗だと思ったらしい。話題はすぐに私の反抗的態度にすり替えられ、家族総出での大説教が始まった。


 小学校は皆勤賞であった。


 仲の良い友達もいた。


 私立に行けなくとも、皆と同じ中学校に通うことができる。


 それだけで、私は嬉しかった。


 なのに。


 両親は、そうではなかった。


 両親も、祖母も、私を全否定した。


 そして無理矢理車に乗せられた。


 どこに行くのと問うても、誰も何も答えてくれなかった。


 そのまま車は進んだ。


 私の住んでいた県は海に面している。


 車窓から外を見ようとすると、隣にいる祖母から止められた。


 さる有名テーマパーク近くの風景である。


 そこに連れていかれるのかと思ったけれど、そことは違ったインターで車は下りた。


 どこへ行くの、ともう一度問うた。


 父は、埠頭ふとう、と言った。


 その言葉は、聞いたことがあった。


 船が出入りする、港湾施設の中心ではなかったか。


 そこで私は車を降ろされた。


 言われた通り、海の近くの、埠頭であった。


 到着した頃には、既に太陽は沈み、辺りは真っ暗になっていた。


 そこでしばらく反省しなさい、と言われて。


 車は私以外の家族を連れて、その場を離れた。


 半ば――というか九割茫然ぼうぜんとしたまま、15分ほどその場で待っていたけれど、帰りは来なかった。


 時計もなければ、食事もない。


 お腹が鳴った。


 仕方がないので、私は埠頭を徘徊うろうろしていた。


 人は、ほとんどいなかった。


 気配すらない。


 途中の高速道路の表示を見た限り、ここは人口の密集した地域のはずである。


 にもかかわらず、誰一人として、人が存在していない。


 街、とは、少し違うのか、とか。


 船の姿は見えなかった、とか。


 夜だからだろうか、とか。


 そんなことを思って、


 を、誤魔化していた。


 あーあ。


 私立に合格していれば、こんなことにはならなかったのだろうか。


 でも、合格していたとしても――多分私は、幸せになれなかっただろう。


 何となく、そう思う。


 あの家に産まれた時点で、私の人生は、終わっていたようなものだった。


 このまま死んでしまおうかと思って、埠頭の端から海を見た。


 そこには、真っ黒い液体が、がぼがぼと音を立てていた。


 怖くなった。


 上手く風の弱い場所を見つけて、そこに横になった。


 床はコンクリイトで硬かったが、いつの間にか私は寝入っていた。


 朝になっていた。


 遠くの方で、人と車の音が聞こえる。


 学校に行かねばならないと、私は思った。




《School Absenteeism》 Starts from Pier.

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埠頭港 小狸 @segen_gen

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