一話 歩き巫女の千代(3)

 親方様の命が直々に下ると、私はすぐに部屋を退出し、躑躅ヶ崎を発つ準備に取りかかる。と言っても、これと言って入り用の物もないから、着の身着のまま旅立てるのだけれどね。


 私はふふんと小さく鼻歌を零しながら、本殿の外に出た。


 すると「千代」と、後ろから声がかけられる。その声に足を止めて振り返ると、やはり私の言い分に負けた徳にぃ様だった。


「もう、そんなに仏頂面で私の名を呼ばずとも良いではありませんか。と、申し上げたい所ですが。心中お察しします。私が退出した後、すぐ直談判なさったけれど聞き入れられなかったと言う所でしょう?」


 ニヤニヤと意地悪く口角を上げながら言うと、突然ニュッと徳にぃ様の手が伸びる。


 そしてその手が私の両頬を掴むや否や、思いきりビッと伸ばされた。意地悪く上がった口角が、更にぎゅーっと強引に上がってしまう。


「な、なにゅしゅるんでしゅか!痛いでしゅー!」


 半開きで固まった口のせいで、言葉がふにゃふにゃと甘くなった。言葉では伝わらないと分かると、私はすぐに徳にぃ様の腕をバシバシと叩く。


「黙れ、この阿呆め。今日こそ、この減らず口を叩き直してやる」


 物々しい声と共に、頬を掴む手がギリッと強まり、更に引き伸ばされた。


 その動きに連動して、と言うか、必然と「痛い!」と訴える声と彼の腕を叩く力も強まる。


 だが、彼はそんな私を歯牙にも掛けず、「お主と言う奴は」と憎しみを込めてギリギリと頬を伸ばし続けた。


 その痛みから解放されたのは、庭のししおどしがカタンコトンと二回首を振った頃。ゆっくりと離された頬は伸びきり、ジンジンとした痛みからヒリヒリとした痛みに変わる。


「乙女の顔にこんな事をするなんて、鬼畜外道ですからね」


 私は恨みを込めて言いながら(恐らく)赤々となった両頬を労る様に擦った。


「阿呆抜かせ、その痛みはお主の咎だ。私を罵るよりもまずは己を省みよ」


 徳にぃはピシャリと言うと、食ってかかりそうになる私を丸め込む様に「もう行くのか」と強引に話題を変える。


 腑に落ちないわ・・と思いながらも、私は自分の不満を飲み込んで「えぇ」と答えた。


「妖怪共の足の方が人より何倍も早いですからね。一刻も早く発って、百鬼軍と会い、親方様のお力にならないと」


「確かにそうだが。居所の目処はあるのか?」


「いいえ。ですが、最後に聞いた話では越前の方に移動していると言う事でしたから、飛騨の方へ歩いて行こうかと思います」


 私が肩を竦めて言うと、徳にぃ様は「飛騨の方か」と眉根をキュッと寄せる。


「百鬼軍云々の前に、山道と言う危険があるではないか・・」


 他にも山賊やら落ち武者共が潜んでいる可能性がある。と、憮然と危険を並べ出した。


 私は「大丈夫ですから」と、並べられる危険をバッサリと遮り、はぁとため息を吐き出す。


「並べられた危険は、全て杞憂です。私は歩き巫女ですよ?山道なぞ歩き慣れておりますし、山賊やら落ち武者にやられる私ではありませぬ」

 ふんと胸を張って答えてから、不安げな彼をまっすぐ射抜いた。


「私達にはそれぞれの役目がありますでしょう?千代は精一杯己の役目を全うして参りますから、徳にぃ様もお役目をしかと果たして下さいませ」

 暗に心配無用と入れ込んで、朗らかな微笑を称えて告げる。


 彼は眉を八の字に曲げ、弱々しい眼差しで私を見つめながら「そうだな」と、私の言葉の全てを受け取ってくれた。


 けれど、やはり心中に拭いきれぬものがあるのだろう。すぐに「だが」と、重々しい口調で切り出された。


「やはり心配なのだ。なんと言っても、お主は私の・・我が家の妹の一人の様な存在だからな」

 もごもごと告げられた言葉に、私はフフと口元を柔らかく綻ばせる。


「げに嬉しきお言葉です。けれど、傑物集団とも呼べる真田家の人間になるのは億劫ですから、辞退させて頂きますね」

「・・そう言う話ではないわ、この阿呆め」

 憎々しげに言われると、彼の手が素早く伸び、再び私の頬は強く引き伸ばされてしまった。


 その結果、出立する時の私の相貌は哀れだった。両頬に赤々としたコブをつけた、醜い巫女になってしまったのだから。

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