彼が出掛ける度、わたしは祈る。



 わたしの両親は、交通事故で亡くなった。


 頼れる親戚もおらず、わたしは児童養護施設で育てられることになった。


 中学卒業後は、児童養護施設を早く出るために高校には行かないで働くことにした。


 アルバイトをしながら高校卒業認定試験を受けて、資格を取得。


 そうして、絶対に食いっぱぐれることのないという介護士の資格を取って、介護士になった。


 高校は通っていないけど、高校卒業と同等の資格は有している。児童養護施設で育ったということもあり、少し奇異の目や同情の目で見られることもあった。


 暴れる患者さんに殴られたり、認知の入っている方に暴言や唾を吐かれたり、泥棒扱いされるなど、つらいこともあったし、悔しい思いだって、何度も何度もした。


 でも、患者さんに「ありがとう」と笑顔で感謝されることで、わたしが必要とされているのだという喜びにもなった。


 そんなある日――――


 いつもわたしによくしてくれる裕福な患者さん……上品な老婦人に、


「ねえ、あなた。わたしの甥っ子と会ってみない?」


 そう言われた。


「あなたみたいに、優しくて献身的な人に甥っ子のお嫁さんになってほしいなって、そう思ったの。どうかしら? あなたが嫌じゃなければ、お見合い……いいえ、甥っ子とお食事でもしてみない?」

「え? でも……」

「大丈夫よ。シフトが気になるなら、わたしの方から言って、お休みにしてもらうから。ね? 今、恋人がいないなら、会うだけ会ってみてちょうだい」


 その言葉で、わたしは気付いた。この患者さんが、裕福な理由に。きっと、この方は、わたしの働く介護施設に縁のある方なのだろう、と。


 そして、ご厚意を断り切れず、甥っ子さんとお食事をすることになった。


 わたしは、家族の縁が薄い。だからきっと、家族というものに憧れがあって――――


 実際に会った老婦人の甥御さんは気遣いのできる人で、話が弾んだ。


 そして、わたしのことを気に入ってくれたようで、何度か会ううちに結婚を前提に付き合ってほしいと言われて――――


 それからしばらくして、彼と結婚した。


 彼は、わたしに聞いた。


「いつ仕事辞めるの?」


 と、笑顔で。今の仕事は気に入っているので辞めたくない、と言ったら・・・


「女は結婚したら家庭に入るものだろう? それとも、俺の稼ぎに不満があるの? 俺は君よりも稼いでいるつもりだけど」


 そう、当たり前のように返された。わたしが絶句しているうちに、


「君が決められないなら、俺の方からおばさんに頼んでおくよ」


 仕事を辞めることが勝手に決められて、その翌日には、わたしが月末に寿退社をすることが決定していた。


 ショックを受けているわたしに、彼は笑顔でこう言った。


「これで君は、家のことに専念できるね」


 それからが・・・わたしの地獄の始まりだった。


 始めは、ほんの些細なことだった。


 彼の言葉に対して言い返すと、彼が不機嫌になる。


「誰が稼いでいると思ってるんだ?」「働いている俺を労うのが妻の役目だろうが」「養われているクセに文句を言うな」「女は黙って言うことを聞いていればいいんだ」「口答えするな」


 わたしへ掛けられる言葉が、どんどんキツくなって行く。


 それが段々エスカレートして行き――――


「ウルサいっ!?」


 怒鳴るようになり、やがて手が出るようになるまで、大して時間は掛からなかった。


 わたしが口答えしたと言って殴り、わたしの態度が気に食わないと言って殴り、夫として妻を躾けているのだと、わたしを殴った。


 彼の言ったことに気を付け、彼の機嫌を損ねないよう慎重に、わたしは縮こまって生活するようになった。


 けれど、どんなにどんなに気を付けていても、気を配っていても、自分のことよりも彼のことを優先させていても、わたしのどこそこが気に食わないと、家事を手抜きしていると、彼はわたしを殴った。


 どうして殴るの?


 わたしの、なにがいけなかったの?


 彼は優しかったのに・・・


 その彼が、こんな風になってしまう程、彼が変わってしまう程に、わたしが悪いことをしたの?


 そう思って耐え、自分を強く責めたこともあった。


 けど、わたしは気付いた。


 気付いて、しまった・・・


 彼が、実に愉しそうなかおで、わたしを殴っているということに。


 ああ、そうか。そうだったのか。


 彼は、わたしのことが気に食わなくて殴るんじゃない。いや、最初はそういう気持ちもあったかもしれない。けど、でも、もうそんなことなど、どうでもいい・・・・・・のだ。


 彼は、わたしを殴ること自体を愉しんでいる。


 彼は、わたしを殴るために、そのために、難癖を付けているのだ。


 それに気付いたわたしは、彼に離婚を求めた。


「離婚だとっ!! ふざけんなよっ!! お前は俺のものだろうがっ!! 俺は絶対離婚しないからなっ!!」


 そう言って激昂した彼に殴られ、蹴られ、離婚を撤回するまでズタボロにされた。


「謝れよ! 謝れ! 『離婚なんて切り出してごめんなさい、二度と逆らいません』って、俺に謝れよっ!!!!」


 真っ赤になった鬼のような形相で。狂気すら感じる貌で……


「ふざんなっ、ふざんなっ、ふざんなっ!? お前みたいに、いなくなっても誰にも構われないような底辺ゴミ女と、この俺が結婚して、わざわざ養ってやってるんだぞっ!! ありがたく思えっ!! 感謝しろっ!?」


 何度も何度も何度も、『俺に謝れ』と『俺に感謝しろ』と…………


 本当に、殴り殺されるかと思った。


 そして、殴られて気絶している間に、わたしはケータイと通帳を取り上げられていた。


 常に身体のどこかが痛い。


 つらい。苦しい。逃げ出したい。


 でも、お金が無い。


 どこも行けない。


 わたしには、親しい人がいない。


 思い切って、身一つで飛び出してみる?


 けれど、彼のことが怖い。怖くて、痛くて、身が竦んで、動けない。


 以前にも増して彼に怯え、機嫌を取って……けれど、それでも殴られることに変わりはなくて――――


 そんなときに、妊娠が判った。


 わたしは、少し思ってしまった。


 妊娠を告げたら、彼はわたしを殴るのをやめてくれるかもしれない。


 子供ができたら、変わってくれるかもしれない……そんな、馬鹿な希望を抱いてしまった。


 けれど、なにも、なにも変わらなかった。


 相変わらず、彼はわたしを殴った。いや、むしろ……体調が悪くなることが多くなり、家事をまともにできなくなることが増え、それを口実にして……嬉しそうな貌で、笑いながら殴られた。


 そうして――――


 わたしは、殴られて、蹴られて、流産した。


 お腹を蹴られて、痛くて全く動けなかった。

 たくさん血が出て、危険だと思った。

 でも、ケータイを取り上げられていて、どこにも連絡できなかった。


 救急車を、呼べなかった。


 病院で目を覚まして――――


 医者に、流産を告げられた。


 産んであげられなくて、ごめんなさい。そう、空っぽになったお腹を泣きながら撫でていたときだった。


 彼が、部屋に入って来て言った。


「お前が腹を庇わないから、俺の子供が死んだじゃないか」


 その言葉に、わたしは……彼と離婚ができないことに絶望していたけど、更なる絶望があったんだ、と。どこか他人事のように感じた。


 そして、そんなわたしに彼は口止めをした。


「お前が、自分で転んで流産したことにしろ」


 医者にもそう言っておいた、と。


 もう、どうでもよくなった。


 生命の流れた空っぽのお腹と、痛む身体を抱えてベッドの上で過ごし――――


 再びの妊娠は難しいと言われて退院して・・・


 また、殴られる日々が続いて――――


 ある日、彼が遅く帰って来た。


 上機嫌な彼から漂うのは、知らない香水の匂い。


 ああ、浮気か。そう気付いたけど、どうでもよかった。ただ、彼が遅く帰って来ると、家にいる時間が減る。そうすると、彼に殴られることが減る。


 だから、少しだけ彼の浮気相手に感謝した。


 そう思っていたら、ある日――――


 彼の浮気相手の女が、うちにやって来た。


 彼女は、お化粧をした、怪我の無い綺麗な顔をしていた。そして、わたしに彼と別れろと言ってくれた。


 ああ、なんて・・・なんて、嬉しいことを言ってくれるのだろうっ!!


 彼女は彼のことを愛してると言い、彼が可哀想だと言い、彼の幸せを願っているのだとわたしに主張する。


 嬉しかった。でも、なぜか同時に怒りも湧いて来た。


 絶望して、どうでもいいと思っていたのに。


 あの男が、可哀想と言われたことが……いえ、流産がわたしのせいだと他人に言われたことが、他人にもそう説明していたことが、それで同情を買っていることが、許せなかったのかもしれない。


 自分が殺したクセに! あの男が、わたしの赤ちゃんを殺したクセにっ!!


 一度そう思ってしまうと、もう自分を止められなかった。


 ああ、しまった……と、彼女が怯えた顔でうちから逃げ出してから気付いた。


 せっかく、最低最悪なDVクズ野郎の彼と結婚してくれるという、心が広くて自己犠牲心の高い、素晴らしい女性だったのに・・・彼女を、逃がしてしまった。


 そう、酷く落胆して・・・部屋に戻った。


 その日の夜は、床に落ちていた離婚届を見た彼が激昂して酷く殴られた。


 お付き合いしている彼女に離婚してほしいと頼まれたことを告げ、彼女と結婚するなら別れてほしいと頼んだけど、駄目だった。


 至極残念だ。


 そして、翌日。


 動けないで倒れているわたしを無視して、彼は早朝から家を出て行った。


 彼が出掛ける度、わたしは祈る。


 事故や事件に巻き込まれて、二度とうちに帰って来なければいいのに……と。


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