好きになるんじゃ……な、かった…………



 様々な疑問が頭を駆け巡り――――それが、腑に落ちた。落ちて、しまった。


 自分で暴力を振るって、怪我をさせて動けなくさせた相手に、家事をすることを求める……強要して、更なる暴力を振るう男が、まともな男であるはずがない。


「ご、ごめんなさいっ!!」


 奥さんが……彼のことが酷く怖くなって、あたしは部屋から出ようとした。


「待って!」


 けれど、奥さんはあたしの腕を掴んで言った。


「あなたは彼と結婚するんでしょうっ? 彼のことを愛してるんでしょうっ!?」

「そ、それ、はっ……」

「お腹に、彼の子がいるんでしょうっ? 父親のいない可哀想な子にしたくないんでしょうっ? あなたが、わたしを助けてくれるんでしょうっ!?」


 ギリギリと、掴まれた腕が強く痛む。


「ひっ! ご、ごめんなさい、許してくださいっ!」


 そう言って、奥さんの腕を必死で振り解いて玄関へ向かう。


 靴を履くのももどかしく、玄関を開けてバタン、とドアを閉める。


 そして、一刻も早くここをでなきゃと焦る。


 奥さんは、よろよろと歩いていた。きっと、身体中怪我をして痛むんだ。走れるような状態じゃないはず。


 急いで、けれど転ばないようにしなきゃ。


 最初にここに来たような気持ちは、もう全く無い。


 彼は、奥さんに……女に、妊婦に、躊躇ためらうこと無く、暴力を振るうような最低なDV男だった。あたしは、そんな男を好きになって、彼の子供まで妊娠してしまった。


 これからどうしよう、早く彼と別れなきゃ。


 ああ、彼と結婚するのだと、奥さんと別れさせてあげようだなんて考えるんじゃなかった。


 いや、そもそも奥さんがいる人を……いえ、外面がいいだけの暴力男に惹かれた自分を、ぶん殴ってやりたい。深い後悔が胸を襲う。


 どうしよう? どうしよう? どうしよう? 彼の子供を妊娠したと判ったときの嬉しい気持ちなんて、奥さんの話を聞いて、サッパリ消え失せた。


 今は、どうしたら彼と穏便に別れられるかを考えなきゃ。


 ああ、でも……さっきの話が全部嘘で、彼はいつもの彼で、あたしに優しくしてくれるんじゃ……? なんて、そんな妄想染みた馬鹿な考えが浮かぶ。


 頭の中がぐちゃぐちゃだ。


 落ち着いて、深呼吸をして……ビクビクしながら、家に戻った。


 この日は、彼からの連絡を全て無視して頭から毛布を被って眠ろうとした。


 明日――――会社に行くことが、彼と顔を合わせることを想像して、恐怖が止まらない。


 結局は眠れなくて。なんの答えも出せないまま、最悪の気分で会社へ向かう。


 彼と顔を合わせないで済むよう、時間をずらして――――


 とても早く着いた。の、に・・・


「おはよう」


 彼が、彼がっ……笑顔で、わたしに挨拶をした。待ち伏せをされていた?


「お、おはよう、ござい、ます……」


 震えそうな身体を叱咤し、挨拶を返す。


「昨日はどうしたの?」


 いつものように、にこやかな顔で彼が聞く。


「き、昨日……は、体調が、悪く……て」

「そう。話があるんだ。来て」


 笑顔で、けれど強くわたしの腕を掴んだ彼が歩き出す。


「っ……」


 怖いと思いながら、痛いのに声を出せないまま、彼に引き摺られるようにして人気の無いところへ移動。


 階段の踊り場で足を止めた彼が、口を開いた。


「君、彼女に離婚を迫ったんだって? 俺の子供がいるから、俺と結婚したいって」


 笑顔で。けれど、いつもの笑顔とは決定的に違う、冷たい瞳があたしを見下ろす。


「言ったよね? 俺は、彼女と別れるつもりは無いって。君も、俺の意志を尊重してくれるんじゃなかったの? そもそも、俺が既婚者だって判ってて付き合っていたよね?」

「そ、それは……」

「勝手に妊娠するって、ルール違反じゃないの? いや、そもそも君、本当に妊娠してるの?」


 疑わしいという目が、あたしのお腹に注がれる。


「そっ、れは……」


 妊娠している、と。今ここで、彼に真実を告げていいのだろうか? 奥さんは、この人に妊娠中に殴る蹴るされて、流産したというのに。


 ここは、会社で人目がある。


 奥さんはこの人のことを外面がいいと言っていた。人目に付く場所では大丈、……


「ま、別にいいけど。してもしてなくても」


 グイッと、強く掴まれていた腕が急に引かれ、


「え……?」


 パッと腕が、離された。身体が傾ぐ感覚。そして、彼の顔が歪んだ笑みをかたどるのが……


「ああ、一応救急車は呼んでやるよ。生きてても、死んでても。じゃあな」


 やけに、ゆっくりと見えた。


 なに、これ? 階段から、身体が浮く浮遊感。


 もし、かして……あたし、彼に落とされてる?


 彼に、落とされる。階段から落ちたら、良くて怪我。最悪、死ぬ。


 そんなの、嫌だ。


 死にたく、ない。


 死にたくない。死にたくない、死にたくない死にたくない死にたくないっ!!


 あたしに背中を向ける彼へと、必死の思いで手を伸ばして――――


 階段を、転がり落ちた。


 ああ、こんな最低最悪なクズ男なんか、好きになるんじゃ……な、かった…………


 あちこちぶつけて、身体中が痛くて……段々、と意、識……が――――


 ・・・・・・・・・

 ・・・・・・

 ・・・


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