夕凪の頃、君に伝えたい

@HarusakiNozomu

余命一年

 カーテンの隙間から朝日が入り込み、目が覚めた。窓を開けると、湘南からの潮風が心地よく吹いてくる。

 今日からいよいよ待ちに待った高校生。進学先は神奈川県内にある、県立江ノ島高等学校。観光地で有名な江ノ島や水族館などが近くにあり、学校から海までもそう遠くない。学校の評判もかなり良いものとなっており、楽しい生活を送れると思っていた。


――余命一年半


 今から約半年前の中学三年生の十月、医者から告げられたのは死へのカウントダウンだった。急に熱を出して行きつけの病院で診てもらったところ、ただの風邪だと診断された。が、一向に熱は下がってくれず、悪化する一方だった。気になって詳しい検査を市民病院で受けた。その時に告げられた余命宣告。余命宣告なんてドラマとかの話かと思ったし、まさか自分が言われるとは思ってもいなかった。が、それが私に突きつけられた現実だった。

 今は薬でなんとか症状を抑えているが、症状がどんどん悪化しているのは定期検診で分かっている。治療が難しい病気らしく、治ることが無い私の病気。どうせ死ぬんだったら悔いのない様に死にたい。最期の一年間、楽しく過ごそう。そう強く思った。


「美香、達也君がお迎えに来てくれたよ」

 朝ご飯を食べ終え、部屋で慣れないブレザーに袖を通していると、下からお姉ちゃんが呼んでいる声が聞こえた。

 達也は家が隣という事もあり、知り合った小学生の頃から仲が良い。お母さんはシングルマザーで家に居ることが少ないらしい。だから一人っ子の達也は、我が家に遊びに来ることも多かった。私のお姉ちゃんのことを「美優姉ちゃん」と、呼ぶくらいお姉ちゃんとも仲が良い。

 慣れないリボンと奮闘していたら、お姉ちゃんが先に学校に行ってしまった。私も、いってきます。と、玄関を出ると、達也が小説を読みながら待っていた。ちらりと見えた表紙には『最後の夏』と書かれていた。

「おはよう美香。入学早々お寝坊さん?」

 鞄に本をしまいながら、嫌味をまじえて挨拶をしてきた。

「おはよう……言っておくけど寝坊じゃないから。ちょっとリボン着けるのに手間取っちゃっただけだから」

「なら良いけど。それより早く駅に向かわなきゃ。瑞希が待ってる」

 そう言うと、達也はさっさと前を歩き出してしまった。私も慌ててその背中を追いかける。

 瑞希とは中学生の時に知り合った。つい人見知りをしてしまう性格の私は、その性格ゆえに友達がなかなか作れないまま学校生活を送っていた。が、瑞希はそんな私に辛抱強く接してくれた。そんな瑞希に私もいつの間にか心を開き、今では瑞希とは大の仲良しになった。

 昨日降った雨の水たまりが残っている道を、二人並んで歩く。目指すは最寄り駅の稲村ヶ崎駅。朝早いこともあるが、すれ違う人は少ない。駅から少し離れているからだろうか、まるで二人しか居ないんじゃないかと思うぐらいとても静かだった。

 稲村ヶ崎駅に着くと、瑞希は手鏡で前髪を気にしながら待っていた。

「あっおはよう!美香ちゃん、達也君!」

 こちらに気づいて手を振りながら駆け寄ってきた。私も手を振って答える。

「おはよう瑞希。高校も一緒の学校に行けて嬉しいよ」

「私もー。それより……今日も達也君と一緒なんだねぇ。仲良いねぇ」

 瑞希はニヤニヤしながら私の顔を覗き込んできた。この子は何か勘違いしている。

「一緒に来たというか、達也が勝手に迎えに来ただけ。余計な事考えないで。それより、そろそろホームに上がらないと電車来ちゃうよ」

 三人でホームに上がると、タイミング良く電車が入ってきた。四両編成の藤沢行き。緑色とクリーム色の車両が朝日に輝いている。ドアが開いて乗り込むと、朝早い時間帯で観光客が少ないからか、ゆったりと座ることができた。

 電車に揺られること約十五分、やっと江ノ島駅に着いた。ここから五分ほど歩けば、江ノ島高校に通うことができる。校門に着くと、昇降口まで奇麗な桜が咲いており、より一層入学の雰囲気が出ている。

「ほら、早くクラスを確認しに行こうよ!」

 クラスの名簿表に向かって走っていった瑞希を、達也とやれやれと追いかける。今日からいよいよ高校生活が始まる事に実感が湧いてくると、胸が高鳴ってきた。


「只今より、第四十六回神奈川県立江ノ島高等学校、入学式を始めます」

 進行役の教頭先生の言葉で、美香の高校生活、そして最期の一年が始まった。

 余命宣告をされた時は、正直高校に進学しようとは思わなかった。高校に入っても、進学も就職もできないし、そうなると成績も関係なくなる。だから高校には進学せずに、残りの人生を自分の好きなように自由に生きようと思った。しかし、よくよく考えたら、特にやりたい事は見つからなかった。それならばと、達也や瑞希の行く高校に一緒に進学して、最期の思い出を作った方が有意義に過ごせそうだと思った。だから高校に進学した。だけど、このままずっと二人と一緒に高校に行けるわけではない。私の人生は、長くてあと精々一年。その事を、まだ達也と瑞希に伝えていなかった。流石に自分の症状ぐらいは伝えていた方が良いと思う。問題はいつ伝えるべきか。

 そんな事を考えていると、長ったらしい校長講話はいつの間にか終わっていた。教頭先生が、たどたどしく次々とプログラムを進行する。

「続きまして、生徒会による新入生歓迎の言葉です」

 校長先生と入れ替わりで壇上に上がってきたのは、美香の見慣れた人物だった。

「新入生の皆さん!ご入学おめでとうございます。そして、江ノ島高校へようこそ!生徒会長の佐々木美優です。私達、生徒会は――」

 まさかお姉ちゃんが生徒会長になっているとは。よく家でも学校の話をするのに、会長になったなんて一回も話してくれなかった。これは、いたずら好きのお姉ちゃんなりのサプライズなのだろう。

 新入生歓迎の言葉の後、指導部での諸注意、クラス担任紹介など、順調に入学式のプログラムが進んだ。


 約一時間で無事に入学式が終わった。これからホームルームを行うために、は教室へと向かう。私と瑞希は運良く同じ三組になったが、残念ながら達也だけは隣の四組になってしまった。

 教室に入って席に座ると、長身で眼鏡をかけた細身の先生が静かに入ってきた。

「みなさん、ご入学おめでとうございます。私は、三組の担任をする事になりました、田中健仁です。担当科目は科学です。一年間よろしくお願いします」

 と、軽く自己紹介を終えた。

「さて、入学してこれからの学校生活に胸が高鳴っていることでしょう。そんな時に申し訳ないのですが、事前に配られた資料に書いてある通り、明後日は学力テストを実施することになっています」

 そういえば入学早々学力テストがあったなぁ。学力自体は気にしていないとはいえ、一応しっかりと勉強した方が良いかもしれない。江ノ島高校は進学校だから、もしかしたら悪い点数を取ってしまうと補習もあり得る。そうなると帰りは遅くなてしまうし、なにより面倒くさい。

 勉強の話が続いて退屈だったから、ボーっと窓の外を見ていると、前の席からプリントが回ってきた。慌ててそれを受け取ると、一番上に『部活動について』と、書いてある。

「我が校の部活動は強制入部ではありません。ですが、推薦で進学を希望している方は極力入部した方が良いかもしれません。積極性や部活での活動記録で推薦状等が書きやすくなり、面接でも発表できます。運動部、文化部ともに充実しており、運動部には――」

 部活動か……どうしようかな。何かと忙しいだろうし、自分の身体がいつまで耐えれるかも問題だ。でも、部活で何かを達成できるかもしれないし、それはそれで思い出になる。まぁ、達也と瑞希がどうするかで自分もどうするか決めよう。

 その後、教科書配布や各係の説明などを受けて、ホームルームの時間は終わった。今から帰るとなると、お昼前には家に着きそうだ。

 早速帰ろうと思い、教室から出たところで田中先生に呼び止められた。達也と瑞希と帰る予定だったから、瑞希に先に昇降口で待っていてもらうように伝えた。

「佐々木さんは、学級委員の仕事に興味ありませんか?」

「え?」

「まだ立候補者が出ていなくてですね、もしよろしければ佐々木さんがやっていただけないかと思いまして」

 田中先生は、指でメガネを押さえ、微笑みながら言った。

「そういう事はやったことが無くて……。ごめんなさい」

「いえいえ、こちらこそ押し付けるような事をしてしまってすみません。てっきりお姉さんが生徒会長をやってらしたので、美香さんも学級委員とかやってくれると思ってました。分かりました。お時間をお取りしてしまってすみませんでした。気をつけて下校してくださいね」

 そう言う田中先生の表情や口調もとても優しいものだったが、私の中には言葉にしにくいもやもやとしたものが残った。何か良く分からないものがグルグルと回っている感じがして、正直……気持ち悪い。


 その気持ち悪さから逃げ出すように教室を出て、急いで昇降口に向かう。下駄箱の近くで、達也と瑞希が雑談をしながらちゃんと待っていてくれた。

「ねぇねぇ、田中先生と二人っきりで何話していたの?」

 瑞希が、またキラキラと何かを期待した目で聞いてくる。

「瑞希が何を期待しているのか分からないけれど、ただ単に係の話だから」

「ほんとにぃ?」

「ほんとだって」

「そうなのかぁ。なんかつまんなーい」

 瑞希は不満そうな顔で口を尖らせた。


 江ノ島駅から電車に乗り、稲村ヶ崎駅へと戻る。帰りの車内では、ずっと先生に言われた言葉が頭を回っていた。

「じゃあね、美香ちゃん。達也君。また明日ー!」

 瑞希は元気よく手を振りながら脇道へと入っていった。私と達也は瑞希が見えなくなるまで見送り、家へと歩き始めた。

「あの……今日も美香の家に寄っていいかな?」

「はぁ?高校に進学してからも家に来るつもり?」

 一体現役女子高生の家で、何をする気なんだろう。

「なんだ、ダメか?ダメなら別にいいけどさ」

 別にダメってことではないんだけど。と、玄関の鍵を開けた。やけに静かだと思ったら、お母さんの靴がなかった。今日はどこかに出かけているらしい。玄関に上がろうとした瞬間、達也のお腹が鳴った。

「ごめんごめん。実は朝ご飯食べずに来ちゃったから、結構お腹がすいてたんだよね」

「一回家に帰ってお昼ご飯食べてから来る?」

「それがさ、昨日で冷蔵庫の中身ほとんど切らしちゃってさ……」

 これはまさかだけれど……。

「もしかして私の家でお昼ご飯を食べさせてほしいって事?」

「美香さん、よろしくお願いします」

 まったく、しょうがない人だ。それに、私もここで断るほどそこまで鬼ではない。

「分かった。じゃあ、荷物を置いて早速準備しよ。その代わり、ちゃんと手伝うんだよ?」

「お任せください!」

 私の部屋に荷物を置き、キッチンに移動する。さて、何を作ろうか。冷蔵庫を覗いてみると、あまり食材が残っていないことに気づいた。冷凍庫にはミックスベジタブルが見つかった。卵の在庫も充分あるし、そうなれば作るものはアレしかない。

「今日のお昼ご飯はオムライスにしよっか」

「お、いいね!最近、オムライス食べてなかったから楽しみ!」

 そうと決まれば、早速調理に取り掛かる。達也にオムレツ部分を任せると、大変なことになりそうだから、達也にはチキンライスの部分をお願いしよう。

「達也はチキンライスを作ってね。私はオムレツの部分を作るから」

「了解。ご飯は何人分?」

「お姉ちゃんはもう少ししたら帰ってくると思うけれど……お母さんはどうだろう?ちょっと電話してみるね」

 早速、スマートフォンを取り出してお母さんに電話する。

「もしもし、お母さん?今どこにいるの?」

「今ね、高校時代の友達とランチに来てるの」

「え?じゃあ、お昼ご飯はいらないって事?」

「そういう事になるわね。あ、呼ばれたから切るわね」

「待って!冷蔵庫の中身がもう無くなりそうだから、買ってきてね。じゃあ、ゆっくり楽しんでね」

 お母さんは本当に気まぐれな人なんだから、友達も苦労してそう。

「美香、お母さんはなんだって?」

「高校時代の友達とランチしているからいらないって」

「分かった。じゃあ、ご飯は三人前だね」

 達也は人数分ご飯をよそい、ミックスベジタブルと一緒にフライパンに入れ、コンロに火を点けた。さて、私もオムレツを作らなきゃ。

 冷蔵庫から卵を取り出す。ボウルに手際よく割れた生卵を入れていく。菜箸で黄身と卵白を混ぜていると、お姉ちゃんが帰ってきた。

「ただいま。あれ?達也君来てたんだ。いらっしゃい」

 お姉ちゃんは、いい匂いに誘われたのか、直接キッチンにやってきた。

「美優姉ちゃん、お邪魔しています」

「お姉ちゃんおかえり。今日は色々あって、達也と一緒にお昼ご飯だよ。お母さんは、高校時代の友達とランチだって」

 ふーん。と、お姉ちゃんは聞き流すと、近くに寄ってきて耳元で囁いてきた。

「で、美香は達也君と新婚劇を楽しんでおられるってわけですか?おめでたいですなぁ」

 その瞬間、顔が熱くなるのを感じた。

「ち、違うから!うちでご飯を食べさせてあげるかわりに、お昼ご飯作るのを手伝ってもらっているだけだから!」

「そうですかそうですか。二人は昔から仲が良くて微笑ましいですな」

「そんなこと言ってないで早く荷物置いてきて!」

「お!お母さんも似合うねぇ。それじゃあ、ごゆっくりー」

 お姉ちゃんの背中を押しながら、部屋に行くよう促す。お姉ちゃんが自室に行くのを腰に手を当てながら見送る。

 さてと、気を取り直してオムレツ作りを再開する。フライパンにバターを敷いて、一人分の溶き卵を流す。流し込んだら、ふわふわになるように菜箸で空気を取り込むように混ぜ、オムレツの形に丸める。最後に、達也が作ってくれたチキンライスに乗せ、オムレツの真ん中に切り込みを入れて開いたら完成。

「お姉ちゃーん、お昼ご飯できたよー」

 三人分のオムライスと箸を、ダイニングテーブルに置く。

「お、今日のお昼ご飯はオムライスですか」

「そう、オムライス。上のオムレツ部分は私で、チキンライスは達也が作ったんだよ」

「へー凄いじゃん。じゃあ、冷めないうちに早速食べますか」

 お姉ちゃんも椅子に座ったところで、お昼ご飯にする。

「いただきます」

 久々に作ったオムレツも思った以上にふわふわに仕上がったし、達也が作ったチキンライスも少し焦げていたけれども、そのお焦げも良いアクセントになって美味しくなっていると思う。達也もお姉ちゃんも、満足そうに食べている。

「それで二人とも、高校はどう?慣れそう?」

「私は……学校自体は慣れると思うけれど、電車通学がね。夏の観光シーズンが不安」

「美香は人込み苦手だもんね。早めに学校行くしかなさそうだね」

「そういえば美優姉ちゃん、生徒会長になったんだね」

「そうそう、驚いたでしょう!高校生最後の三年生だから、張り切って生徒会長に立候補しちゃった!」

 お姉ちゃんのその言葉で、今日、田中先生に言われたことを思い出した。今まで何かに推薦されたことがなかった私が、初めて学級委員に推薦された。が、私は未経験を理由に逃げ出してしまった。これでは前向きに生きようと決めたのに、全然できていない。なんだかそんな自分が情けなくなって、一人黙々とオムライスを食べ終え、そそくさと自室へ戻る。


 達也もお昼ご飯を食べ終えたらしく、部屋に入ってきた。私に気を使っているのか、特に何も聞いてはこなかった。何かと暇だったので、明後日の学力テストに備えて二人で勉強することになった。テストは明後日なんだから別に明日でもいいじゃん。と、言ったけれども、一夜漬けはいけないと怒られてしまった。達也のお母さんは学校の先生をしているから、達也もそれに影響されてそういう事には厳しいい。だから渋々だけれども勉強することにした。

 学力テストの範囲としては、国語と英語と数学の三教科。文系の二教科はそこそこできるけれども、数学だけは中学から苦手で、卒業までに克服することができなかった教科だ。対して達也の方は、平均的に全ての教科が得意で羨ましい。

 入学説明会の時に渡された課題を、達也に教えてもらいながら復習する。が、やっぱり教えられっぱなしはつまらない。そもそも勉強自体が苦手なのに、学力テストなんてやる気が起きない。だけれど、やる気が起きないからってボーっとしていたりすると、達也に注意されて余計にイライラするから仕方なく勉強する。


 勉強しているうちに日はかなり傾いていた。達也の提案で、勉強の息抜きとして外を歩くことにした。向かったのは稲村ヶ崎公園。今から向かうと、日の入りまでには公園に着きそうだ。思えば、達也と公園に行くのはかなり久しぶり。小学生の頃はよく二人で行っていたけれど、中学生になると部活動が始まり、なかなか公園に行く機会は無くなってしまった。

「二人で公園なんて、小学生以来だな」

「そうだね。最近は忙しくて、なかなか行く機会なかったもんね」

 地平線に沈んでいく夕日を眺める。その間、沈黙が流れた。私はこういう沈黙な時間が流れるのが苦手だったりする。

「ねぇ」

「あのさ」

 達也と声が被ってしまう。少々気まずい雰囲気が流れた。

「達也から……どうぞ」

「いや、美香からで……」

 しょうがない。こっちから話すか。

「じゃあ、私からで。達也と瑞希って部活はどうするの?」

 そう聞くと達也は少し安堵したかのような顔をした。

「瑞希は中学の頃と同じで、吹奏楽部に入部予定だって。俺は……どうしようか迷っているところ」

 瑞希のお母さんは元々有名なトランペット奏者で、瑞希もその影響を受けて吹奏楽を始めた。楽器は木管楽器のオーボエを担当している。

「どの部活で迷っているの?」

「違う違う。部活に入ろうかどうしようかってこと」

 あれ?どこかに入部するんじゃなかったの?

「達也が入部で迷っているなんて珍しいね。何かあったの?」

 中学生の時は、あれだけ部活熱心な人だったのに。いきなり入部しようか迷っているのは気になった。

「ほら、俺の家ってシングルマザーだから母さんが働きに出てるじゃん?それも教師をやっているから、基本的には平日も休日も関係なく帰りが遅くって。だから、気持ちも金銭的にも少しでも楽にさせてあげたいと思ったら、バイトの方を始めてみても良いかなっておもってさ」

 なるほどね。これは、達也なりの親孝行なのかもしれない。

「美香は部活動するの?」

「入ろうか迷ってたけど、達也が入部しないなら私もやめておこうかな」

「なんだよそれ」

「なんとなくね」

 こういう何気ない日常の会話ができるのが幸せだと、最近になって気づいた。

「で、達也は私に何を言いたかったの?」

 つい、部活の話に盛り上がって忘れかけていた。ふと海を見ると、もう水平線に太陽が沈みかけていた。

「さっき、お昼ご飯の時にあまり会話に入ってこなかったし、さっさと部屋に戻るしさ」

「そのことね。今日、担任の先生から学級委員やってくれないかって言われてね」

「へー凄いじゃん。引き受けたの?」

 美香は静かに首を振った。

「ううん、断ったよ。元々そういうのはやる気ないし」

 本当は、病気でできないとか、お姉ちゃんと比べられてしまって少し傷ついてしまったとか言えない。達也は大雑把な正確に見えて、実は結構心配性な面があるから。

 日もかなり沈んでいる。周りもそれにつれてゆっくり暗くなっている。

「達也、帰ろっか」

 今日も達也に病気の事を打ち明けられなかった。もう、あれから半年も経っているのに。一体、いつになったら言えるのだろうか。こっそり達也の横顔を見ると、私の心境とは対照的に幸せそうな満面の笑み。こんな顔を見るとなかなか言い出せないなぁ。

 そんな事も知らずに、意気揚々と歩く達也。その背中に、思いっきり平手打ちをくらわしてやった。

「痛っ!何するんだよ!」

「そのヘラヘラとした顔が憎たらしかった。だから八つ当たり」

 達也から離れるように早々と歩く。

「おい待てって!」

 背中を押さえながらついてくる達也を見ると、可笑しくってなんだか気が楽になる。

「ありがとね、達也」

 恥ずかしいから、本音は小声で言ってみる。

「えっ、何?なんか言った?」

 小声だし背中を向けて言ったから、達也には案の定聞こえなかったらしい。良かった。

「なんでもないよーだ!」

 今度は聞こえるように大声で言ってやった。

 海からくる潮風に、背中を押されているような気がした。モヤモヤとした気持ちも薄れていく。あと一年。なんだか思ったより楽しく過ごせそうな気がしてきた。


 入学して次の日の目覚めは良くなかった。達也が帰ってから、少し具合が悪くなってきたけれど、まさか翌日まで続くとは思っていなかった。

 熱も微熱程度。一応、鎮痛剤で症状を押さえてから学校に行こう。

「美香、体調悪いの?学校休んだ方が良いんじゃない?顔も赤いし、熱あるんじゃない?」

 と、お母さんは言うけれど、入学してからまだ二日目。そう簡単に休めるはずがない。入学して早々休んでしまうと、周りの人から目をつけられてしまうかもしれない。それに、達也や美香に心配させてしまうし。


 今日も達也が迎えに来て、一緒に稲村ヶ崎駅に向かう。途中でフラフラとしてしまったが、何とか持ちこたえて駅へと到着した。

 駅で瑞希と合流し、学校に向かう。痛みは薬のおかげで和らいではいるけれど、熱は徐々に上がっている気がした。江ノ島駅に着いた時点で、誤魔化せ切れないぐらいに悪化してきて、保健室まで達也におんぶしてもらった。背中は意外にも大きくて暖かかった。小学生の時は同じぐらいの身長だったのに、高校生になると、いつの間にか私より大きくなっていた。周りの目は少し気になったが、達也は人目も気にせず保健室に直行する。少しぐらい周りの目を気にしても良いんじゃないかと思ったけれど、言う気力も無いのでやめておいた。

 保健室に着くと、女性の保健の先生が、熱も三十八度三分あるから早退した方が良いと判断し、家に連絡してくれた。我が家は車を持っていないから、教頭先生が送ってくれるそう。だけれど、今は職員会議をしているから、家に帰るのは少し遅くなるそう。だから、先生が来るまでは保健室のベッドで休ましてもらうことにした。

「ほら、佐々木さんが心配なのは分かるけれど、朝礼の時間が近づいているから二人は教室に戻ってね」

 保健の先生が達也と瑞希を、教室に戻すよう促す。

「美香ちゃん、お大事にね」

「学校終わったら見舞いに行くから」

 二人が保健室を出てから、やけに静かになった。締め切られたカーテンに、白い天井。いつもと違う風景で一人ぼっちになるのは、やはり少し寂しいものだった。ゆっくり目を閉じると、いつの間にか眠ってしまった。


「佐々木さん。起きれますか?」

 声に気づいて起きると、保健の先生と入学式の時に見た教頭先生が、ベッドの側に居た。

「教頭先生が来たので、お家に帰りましょう」

 教頭先生は鞄を、保健の先生は私を支えるように、駐車場に向かった。助手席に座り、車は家に向けて走り出す。途中、観光客の渋滞などにも巻き込まれたが、十五分ほどで家に到着した。

「どうも、美香がお世話になりました」

「いえいえ、お大事になさってください。それでは私はこれで失礼します」

 そう言うと、教頭先生は忙しそうにすぐに学校に引き返していった。

「ほら、やっぱり休んでおいたほうが良かったじゃない。ほら、早く着替えて安静にしてて」

 フラフラになりながらも、なんとか階段を上り、自分の部屋へとたどり着く。そのままベッドで横になりたかったけれど制服を着始めたばっかりで皺を作りたくない。だから渋々パジャマに着替えてベッドに横になる。


 窓からは橙色に染まった空が見える。次に目を覚ましたのは夕方だった。どうやら昼ご飯も食べずに寝ていたらしい。今朝よりも体調が良くなってきた気がする。熱も三十七度六分とだいぶ下がった。この調子だと、明日には学校に行けそう。

 ふと、部屋を見渡すと、折り畳み式のテーブルの上にコンビニ袋が置いてあった。袋の中を覗いてみると、メモが貼られたプリンが入っていた。

『しっかり休んで元気になれよ 達也』

 何か消した跡もあったから、目を凝らして読んでみると『プリン代は後で請求する』と、書いてあった。最初は冗談のつもりで書いたのだろうけど、気遣いで消したのだろう。

「何やってるんだか」

 プリンの蓋を開けて、スプーンですくって一口。達也からもらったプリンは、カラメルが少し苦かった。でも、ほんのりと甘い味もした。

 結局、三日目の学力テストの日も学校には行けなかった。熱も平熱で万全な体調なのに、お母さんから今日は念のために安静だと言われた。結果としては、達也と勉強した内容も無駄になってしまったという事。

 毛布に包っていると、いつの間にかまた寝てしまった。起きたら十時を回っていた。とりあえず、お風呂に入ることにした。昨日はお風呂に入れなかったから、シャワーでしっかりと汗を流す。こんな時間からシャワーを浴びれるなんて、ちょっと贅沢な気がした。今頃、みんなは学力テストを受けているんだろうなぁ。そう思うと、少し罪悪感を感じてしまうけれど。

 お風呂を出て、まだ濡れている髪の毛をバスタオルで拭きながら、部屋に戻る。ドライヤーをコンセントに刺して電源を入れて髪を乾かす。ボブだった髪も、少しずつ伸ばしていたら、腰ぐらいまで伸びていた。髪質は良い方らしく、瑞希からも「髪サラサラで良いなぁ」と、よく言われる。

 ある程度乾かした後に、新品の櫛があったことに気が付いた。中学三年生の頃、入院中で修学旅行の京都に行けなかった私に、達也が買ってきてくれた物。もちろん、達也には入院ではなく、風邪と伝えたが。

 赤色の可愛らしい花柄の入れ物から、櫛を取り出してみる。つげの木で作られた、扇形のつげ櫛。ほのかに木材のいい匂いがした。決して値段は安くないであろうつげ櫛。ざっと値段を調べてみると、三千円を軽く超えるものが多かった。貰った頃は高すぎて使えなかったけど、ずっと使わないのも勿体ないから、高校に入ってから使うことにした。早速、髪を梳かしてみる。髪に沿ってスーっと流れるように櫛が通った。うん、やっぱり良い櫛は安物と大違い。


「ただいま」

「お邪魔します」

 髪を梳いていると、下から声が聞こえた。一人はお姉ちゃん、もう一人は声からして達也だろう。二人の足音が階段を上がって近づいてくる。

「美香、体調の方はどう?」

 お姉ちゃんがドアを空けながら聞いてきた。櫛の事をお姉ちゃんは知らないから、つい急いで隠してしまった。達也からもらったと知ると、からかわれてしまうかもしれないし。

「うん、もう大丈夫。明日はちゃんと学校行けるよ」

「それは良かった。今日も達也君がお見舞いに来てくれたよ」

 後ろから、コンビニ袋を持った達也が、ちょこんと顔を見せる。

「昨日はずっと寝ていたから話せなかったでしょ?ちゃんと昨日のお礼を言うんだよ。じゃあ、私は持ってぁえってきた仕事を片づけるから、二人でごゆっくりー」

 そう言うと、ニコニコしながら部屋を出ていった。

「生徒会長って、やぱり仕事も多くて大変なんだな」

 去っていくお姉ちゃんの後姿を見ながら、達也がボソリと呟く。確かに、入学式の日も帰りが少し遅かったし、やっぱり会長ともなると大変なんだなと感じる。

「それより、体調の方は本当に大丈夫なのか?昨日みたいに無理したりしていないか?」

「ううん、本当に大丈夫。この前はいきなり倒れこんだりして心配かけてごめんね。ほら、座って」

 クッションを手渡し、座ってもらうように促す。

「あれ?それって修学旅行のお土産で渡した櫛だよね」

 半年ぐらいたっているし忘れていると思っていたのに、意外にも達也は覚えていた。そりゃこんな高い買い物をしたら、達也だって覚えているよね。

「そう、行けなかったからって達也がお土産にくれたやつ。高校に入ってから使うことにしたの」

 このまま使わなかったら、買ってきてくれた達也に申し訳ない。なんて思っていても、恥ずかしいから本人にそんな事は言わないけれど。

「そっか、良かった。てっきり使ってくれないんじゃないかと思ってたから」

「これから沢山お世話になります」

「そうそう、このつげ櫛って結構長持ちするんだって。しっかりと手入れしてあげると何十年も使えるらしいよ」

 そうなんだ。つげ櫛って結構長い期間使えるものなんだ。

「そうだ、ついでに梳いてあげるよ。後ろの方とかやりにくいだろ?」

 確かに後ろの方は届きにくいけれど、男子にやってもらうのも気が引ける。でも、ここで躊躇ったら無駄に意識していると思われるかしれないし……まぁ、良いか。

「別にやっても良いけど……梳くなら優しくしてよね」

 美香の隣に腰かけた達也に、櫛を手渡した。達也は櫛を受け取り、梳き始める。なんだか他人に髪を梳かれるのは、少しこそばゆい感じがする。それより、達也が思っていた以上に優しく梳いてくれていることに驚く。少々大雑把な性格の達也だが、結構優しいところもあるのだと気が付いた。決して無理した梳き方はせず、暖かい手で梳いてくれた。そんな達也に、美香は少しだけ身体を預けた。

 ある程度梳かしてくれた後に、こんなもんかな?と、達也が櫛を返してきた。

「うん、ありがとう。助かったよ。後ろの方とかなかなか届かなくて困っていたから」

「お役に立ててよかったよ。そうだ、プリン買ってきたんだけど食べる?」

 折りたたみ机に置かれていたコンビニ袋を持ち上げた。

「そういえば昨日も買ってきてくれたよね。そんなにプリンが好きなの?」

 二日連続でプリンを買ってくるなんて、よほど好きなのだろうか。

「好きだよ。あれ?もしかしてプリン苦手だった?」

「そんな事無いけれど、昨日も今日もプリンを買ってくるなんて好きなんだなぁって」

「まぁ、病気の時とかはやけにプリン食べたい人だったからね」

「分かる分かる。なぜか無性に食べたくなるよねぇ」

 そんなことを話しながら、二人でプリンを食べる。熱が引いたせいか、昨日よりもプリンの甘さを感じた。

 その後、午前授業だった達也と一緒にお昼ご飯を食べ、談笑していたらあっという間に時間が過ぎていた。

 お昼の二時を回る頃に、達也が鞄を持って立ち上がった。

「そろそろ帰るわ」

「あれ?今日は早いね。何か用事とかあるの?」

 いつも夕方まで居座る達也が、こんなにも早く帰るなんてかなり珍しかった。

「この後、三時ぐらいからバイトの面接があるんだ」

 そういえば、入学式の後にもバイトをするか部活に入るか迷っているって言ってたっけ。結局バイトをすることにしたんだ。

「そう……じゃあ、玄関まで送るよ」

 せっかく元気になったのに、また一人になるのは少し寂しい感じがした。でも、昨日と今日もお見舞いに来てくれたから、せめて見送りだけでもしたかった。

「じゃあ、今日はしっかりと寝て明日に備えろよ」

「お見舞いとプリンありがとね」

「じゃあ、明日」

「うん、明日」

 そう言い、達也は玄関を出て、隣の家に入っていった。

 家の玄関を閉めて、部屋に戻ろうと階段を上がると、お姉ちゃんが顔からひょこっと顔を出していた。

「な、何?お姉ちゃん」

「別にー。何もないよー」

 ニヤニヤして気持ち悪いなぁ。

「何もないならニヤニヤしないでよ」

「まぁまぁ。何かあったり進展したら、ちゃんとお姉ちゃんに相談するんだよ?」

 何かってなんの事かって聞き返したくなったけれど、めんどくさいことになるのは確実だから無視して部屋に戻った。一体お姉ちゃんのこの行為は、いつまで続くのだろうか。

 美香はベッドに寝転がり、大きくため息をついた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夕凪の頃、君に伝えたい @HarusakiNozomu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る