電話は、三回めのコールでつながった。俺は咄嗟に言葉が出ずに、黙っていた。なつめもそうだったみたいだけれど、その硬直状態から抜け出るのはなつめの方が早かった。

 『どうした? 電話なんて、珍しいな。』

 確かにそうだった。俺がなつめに電話をしたことなんて、ほとんどない。電話なんかしなくても、家に行けばいつでもなつめは俺を迎えてくれたから。

 「……ちょっと、な。」

 曖昧な返事しかできなかった。俺はお前に恋をしていると、真正面から言葉をぶつけることができるはずもなくて。

 『ちょっとって、なに? 緊急事態?』

 違う、と答えた。俺の頭の中は、緊急事態を超えて、もう非常事態なのだけれど。

 『じゃあ、なに?』

 「……ちょっと、」

 ちょっとなんなのか、自分でももどかしくなるほど言葉が見つからない。

 電話の向こう側は静かで、なつめは一人で自分の部屋にいるのだな、と分かった。電話越しの空気でも、俺はなつめの部屋の匂いを感じられた。それくらいには、側にいた。

 ちょっと、なんと言えばいいのだろうか。

 俺は縋るように、向かいに座る路水さんを見た。

 清水さんは苦笑して、いけいけどんどん、とほとんど唇だけで囁いた。

 いけいけどんどん。

 俺は頭の中でその言葉を繰り返し、腹を決めた。

 「なつめ。」

 『なに?』

 「今からそっち、行っていい?」

 電話の向こうのなつめは黙り込んだ。俺は今が真夜中なのを思い出して、その言葉を撤回しようとした。

 けれどその前に、なつめが言った。

 『だめ。』

 短い、拒絶。

 俺はそれだけで、心臓が凍り付いたかと思った。こんなふうに真正面からなつめに拒絶されるのは、はじめてだった。

 「ごめん、夜中だったな。」

  なんとか自分を保とうと口にした台詞は、あっさりなつめにひっくり返された。

 『夜中じゃなくても、もうだめなんだ。……俺、さ、彼女、できたから。』

 「誰?」

 反射で出てきた台詞だった。本当は、なつめの恋人が誰であろうと関係なく、俺はなつめに拒絶されているのに、それを認めたくなくて。

 『……中学の時の、知り合い。大学一緒になって。』

 そっか、と、俺は辛うじて呟いた。それ以上なにを言っていいのか分からずに黙り込んでいると、清水さんが痩せた腕を伸ばして俺からスマホをとりあげ、通話を切った。

 「……ごめんなさい。でも、もう聞いてられなかったわ。」

 「……うん。ありがとう。」

 ありがとう、と確かめるように再び口の中で呟いた。

 清水さんは、黙って頷くと、スマホを返してくれた。そして、帰れないでしょ? と小さく呟くように言った。俺は、言葉が一つも出てこないまま頷いた。今一人になったら、自分がどうなってしまうか分からなかった。

 清水さんは、淡々と客用布団を敷いてくれた。その晩俺は、はじめて女の人の部屋で、その人の身体に触れずに眠った。

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る