第4章 スノーラビット

第32話 転職

「転職が決まりました」


 いつもの地下通路のカフェで、雪間くんから報告を受けたのは、一月の半ば頃だった。


 冬の街は、灰色の空の下で、猫みたいに縮こまり息をひそめていた。

 凍えるように寒い日だった。コートのポケットに手を入れて、冷たい風が吹きつける歩道を早足で歩いた。階段を下って駅の地下に入ると、唸るような風の音が遠ざかりほっとした。


「おめでとう。良かったねえ」


 嬉しくなり思わず小さく拍手してしまった。

 私たちは小さい丸いテーブルに向かい合っていた。テーブルの上にはマグカップが二つ並んでいる。彼はコーヒー、私はカフェオレを頼んだ。カフェオレの白い泡に、キャラメルソースが網目模様を描いている。

 

「ありがとうございます」


「決まるの早かったね」


「そうですね。意外とすぐに決まりました」


「だから、雪間くんなら大丈夫だって言ったじゃん。このままじゃ、体を壊すんじゃないかって心配だったから良かったよ」


「自分では中々踏み出せなかったので、あなたや駿介が色々励ましてくれたのは助かりました」


 世話になった塾の講師に合格のお礼を言う生徒のような、晴れ晴れとした表情をしている。


 スキルも実績もあるんだから、絶対にもっといい職場は見つかる。だから転職活動をして、とっとと今の会社は辞めた方がいい。

 転職に腰が重い雪間くんに、私と駿介は前から何度もそう促していた。


 雪間くんが渋っていたのは、激務で時間が無いのが主な理由だったが、やけに自己評価が低いせいもあった。

 すぐ「そんなことはない」などと否定しようとするので、「いいからとりあえずやって」と、良さそうな転職サイトをいくつか見つくろいリンクを送りつけたり、同じような境遇で転職した人の体験談をネットで見つけたら送ってあげたりしていた。

 駿介に至っては、勝手に雪間くんをサイトに登録してエージェントとの面談まで手配していた。そういう事は止めろと怒られたと言っていたが、それは駿介が悪い。


 本人は自分の価値に半信半疑だったようだが、結果としては、好条件のオファーがいくつも来て、すんなりとその内の一社に決まった。

 新しい会社では、給与はこれまでと同等で、仕事内容は希望していたことがやれる。何より残業しないことが是とされ、働き方も色々選べるのだという。


「ただ、四月から半年間、シンガポールに行くことになりました」


「シンガポール?」


「はい。研修と仕事で」


 こんなに亜熱帯地方が似合わない人も珍しい。


「暑さに弱そうだけど大丈夫?」


「あなた、僕への偏見激しいですよね」


「そんなことないって。半年間、シンガポールかあ……」


 色々な感情がカラフルな花火みたいに頭の中に浮かぶ。


「しばらく会えなくなるね。寂しくなるな」


 結局、それしか言えなかった。言葉と一緒にため息が漏れた。

 雪間くんが眉を上げた。心なしか優しい口調になる。


「……まあ、半年したら帰ってきますし」


「シンガポールのお土産って何だろう。マーライオンチョコとかあるのかな」


「お土産目当てですか」


「何が?」


「別に」


 そっけなく言うとそっぽを向いた。顎の線が細くなり、前よりやつれているように見えた。

 指摘すると、気落ちした様子で遠い目になる。


「最近、忙しくて。有休がたまっていたので、二月から有休消化の休みに入るんですが、それまでに持っていた仕事を引継がないといけなくて」


「残業続き?」


「まあ」


 今日も報告のために来たが、少し喉が痛く、あまり体調も良くないのでお茶だけしたら帰るという。

 体調が悪いのに、わざわざ直接、転職の報告に来るなんて義理堅い人だと思う。


「倒れないようにしてね」


「大丈夫ですよ」


 小さい声で呟くと、かすかに微笑む。一瞬、賢い子どものような表情になったが、すぐ真顔に戻った。水面で跳ねて消える魚を見たみたいな気がした。

 

***


「半年間、シンガポール!」


 綾菜ちゃんが箸を止め、目を輝かせた。 

 丸みがかったショートヘアが首の動きに合わせて揺れる。翡翠色の石がついたピアスがよく似合っていた。


 今日のお昼は、会社の休憩スペースでお弁当を食べていた。大きな窓がある広い部屋に机が間隔を開けて置かれていて、各自、好きに使っていいことになっている。

 綾菜ちゃんはタッパーに親子丼を詰めていた。

 私は、自分で作ったお弁当を持参していた。料理は嫌いではない。今日は、人参の肉巻きと卵焼きを入れた。


「だったら花音さん、告白しなくていいんですか?」


「何でそうなるの」


「だってしばらく会えなくなるわけだし」


「最早そんなことを言える空気じゃない」


「告白して駄目だった時に友達でいられなくなるのが怖いとか、そういうのですか。よくある」


「そういうのが全く無いとは言わないけど、それよりも……ほら、怪獣映画があるでしょう。ゴジラでもキングギドラでも、何でもいいんだけど。ウルトラ怪獣でもいい」


「は?」


「ああいうのって、怪獣が暴れて近隣のビルを壊して迷惑をかけるじゃない。罪の無い一般市民の家を壊したり。私が何か言うって、向こうにとったらああいう感じだと思う。ひたすら迷惑っていう。だったら無益な破壊はしたくないというか」


「花音さんの言っていることがさっぱり分からない」


 綾菜ちゃんが怪訝な顔をする。


「だってよく会って、ご飯食べたりしてるんですよね? それで何も無いの? そんなことあります?」


「向こうは私のことはタイプじゃないから。そういう感じじゃない。綾菜ちゃんも会って話せば分かるよ」


「一度見ましたけど。コンビニにいた人ですよね。どんなだったかなあ。正直、カビゴンしか覚えてないですね」


「まあ、あの状況ならそうだろうね」


「花音さんの気持ちが第一ですから、いいんですけど」


「綾菜ちゃんは優しいよね。話を聞いてくれてありがとう」


「花音さんの話は二重の意味で聞きごたえがあります」


「何それ?」


 首を傾げる私に、綾菜ちゃんは爽やかな笑みを向けた。ピアスが日光を反射してちかりと光る。彼女はやけに力強く言った。


「私はカビゴンを応援してますから」

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