第5話 海の夢
「兎といえば、雪間さんはうさこちゃんが好きなんですね?」
私がしゃべっている間に食事が運ばれてきたのだが、私のグラタンはセットのライスが兎の形になっていた。それを見た雪間さんがスマホを持ち、遠慮がちに私を見た。
「写真を撮ってもいいですか?」
「私の?」
「違います、食事のです」
どうぞと向きを変えて差し出すと、楽しげに写真を撮っていた。そんなやり取りがあったのだ。
「はい。男のくせに変わっていると言われます」
「そんなことないって」
「……でも、職場の上司からは、そんなもの好きだなんて変わっている、だから彼女ができないんだと言われました」
「何それ? ばっかじゃないの!」
隣の席の女性が、こちらをちらりと見た。雪間さんがいたたまれなさそうに、顔を寄せてくる。
「声が大きいですよ」
「ごめんなさい。つい。それにしたってひどい偏見じゃない。そういうこという奴、私、大っ嫌い。どこかの配管工みたいに、片手を上げたまま道の溝に落ちてほしい」
「知らない人に、そこまで言わなくても」
「寝てないから心の余裕がないんです」
雪間さんは珍妙な顔をし、おもむろに前髪を耳にかけた。活力に欠け、影の色さえも薄そうな人だったが、色白の細面で目がはっきりとしていた。
私の肩の向こうをじっと凝視している。
「何かあります?」
振り返ってみたが、金色の額縁に飾られた大きな鏡と、青緑色に塗られた壁しかない。
「いえ、何でも」
雪間さんは目をそらし、アイスティーを飲む。
鏡には隣の席で一人で座っている女性が写っていた。大学生くらいのかわいい子だったので、それを見ていたのかもしれない。
愚痴を聞いてもらえて、私はいささか機嫌が良くなっていた。
「私も、うさこちゃん好きですよ。うちに何冊か絵本がありました」
「そうですか。僕は全冊持っています。このカフェは好きなんですが、中々、男一人では入りづらくて」
「だ、だからここだったんですか。自分が行きたいから」
「何か可笑しいところがありましたか」
堪えようとしたのだが、雪間さんの困惑した表情がさらに可笑しくて、肩を震わせて笑ってしまった。
*
「今日はどうも」
別々に会計をすませ店の外に出た私たちは、どちらからともなく深いお辞儀をしていた。
「もう二度と会うことはないでしょうが、雪間さんの婚活が上手くいくようお祈りしています」
「ありがとうございます。僕も、草野さんにいい彼氏が見つかればいいと思います。そんなけったいな人がいればの話ですが」
気持ちよく別れようとしたのに、口の減らない人である。
座っている時は気づかなかったが、顔が小さく、均整のとれたスタイルの人だ。背もそれなりにあるので、すらりとした印象を受ける。半袖のグレーのシャツに黒のパンツというシンプルな服が似合っていた。
「ご心配いただかなくても、それなりに誘いは来てますから」
「みんな、あのソフトフォーカスの写真に騙されているんですね」
あんまりな言い草ではないか。
「私よりも、そちらの方が先行き不安ですよ。あけすけな物言いがクールだと許されるのは、せいぜい高校生までですからね。雪間さんは、異性のお友達を作ることから始めたらどうですか? 女性と話すのに慣れた方がいいと思います」
「女性の友達ですか。気が進まないです」
「何、後ろ向きなこと言ってんですか。友達から恋になることだってあるでしょう。異性と話すのが苦手なら、練習すればいいじゃない」
「詳しくは言えませんが、色々あって」
雪間さんは眉を寄せ、陰鬱な顔つきになった。私の肩ごしにちらりと視線を走らせる。
「あなたみたいに無神経な人ならできるんでしょうが」
真面目な顔で言われ、さすがに傷ついた。
「どういう意味ですか、それ」
「言葉通りです」
「全然、分からない。私の事が嫌いなのは分かりましたけど。でも、そんな事言わなくたっていいじゃない。色々誤魔化して、本当はやらない理由を探しているだけなんじゃないですか」
雪間さんの白い顔が赤くなり、一瞬、狼狽がはっきりと露わになった。
それを隠すように、無言のままこちらに背を向け、そのまま、地下通路を歩きだす。
「あ、ちょっと……」
呼び止めたくて駆け出そうとしたら、パンプスの踵が床の溝にひっかかり、よろめいて転んだ。
「いったあ……」
こんなところで転ぶなんて恥ずかしい。膝を強く打って痛かった。
膝を押さえながら私が立ち上がった時には、もう彼の姿は地下通路には無かった。
***
彼の言ったことは当たっている。私は確かに無神経だった。
その夜、ベッドの中でそう思った。
眠れていないせいで気持ちの余裕が無かったし、売り言葉に買い言葉という状況ではあった。
それでも、垣間見たあの人の動揺した表情が、忘れられなかった。傷つけてしまったことは間違いない。
後悔に駆られ、足をじたばたと動かし、布団を頭からかぶった。
眠ることができれば、この最悪な夜から、とりあえずは逃げることができるわけだが、悲しいことに私はそれができないのだった。
不眠症がこんなにきつかったことはない。意識を手放せる安らかな眠りの時間が、心底、恋しかった。
暗闇の中、どうせ眠れはしないというあきらめとともに、目を瞑った。
***
古い機械が発する、虫の羽音に似た動作音が聞こえた気がした。
瞼の裏側に、
大きな砂山があった。下にトンネルが開いていて、覗きこむと水平線が見えた。
そばに、プラスチックの赤いスコップが置いてあった。海岸には誰もいなかった。砂山を作った誰かが、忘れていったのだろうか。
波が砂山のふちぎりぎりをかすめ、細かい泡を残して消えた。次の波が来る前に、早くスコップを取りに行かないと。
***
目を開けると、周囲が明るかった。カーテンの隙間から光が差している。ぼんやりと違和感を覚えつつ、枕元の時計を見て驚いた。
雪間さんと会った日の夜、私は本当に久しぶりに、朝まで熟睡できたのだった。
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