或る男の話

白雪工房

第1話

 ふと、何か煮詰まってしまったような感があって外に出た。こうなってしまうともう駄目なのだ。一進も一退もせず、ただ骨となって朽ちていくのみ。あぁ、くだらない。そして退屈だ。

体はこの、退屈を吹き飛ばしてくれるものを求めていた。

 始めにお題を決めてから何か書こうと考えたのが不味かったのだろうか。歩きながら考えた。趣味で文章を書き始めたはいいが、その場の思い付きでしか動けないものだから筆が進まない。あんまりにも進まないから、いっそ全部消してしまったら気持ちいいんじゃないかなんて考え始める始末。

 それで仕方ないと、ひとつお題を考えてから書き始めることにしたのだった。できれば誰も思い付かないようなのが良い。そうだ、花より団子とは言うが花見にジャンクフードほどふさわしくないものは無かろう。そう考えて、桜とピザという取り合わせで何か考えてみることにした。

更に登場人物も決めた方が良かろうと、桜の樹の下でピザを頼む男という変人を設定してみた。

ついでにそいつとは別の、主人公に猫を助けさせたりもした。

これならきっと、何か面白いものが書けるだろうと思って。

 だがしかし、どうも上手くいかぬ。寧ろお題を細かく設定するほど自由を奪われていくような気がする。まるで手枷に繋がれているみたいだ、いや、この場合はある種の恍惚状態に至って自動書記でもしているようなものか。そう考えていくと、次第に思考は脇道に逸れていって、気づけば違うことを考えている。

 決して何も思い付かないという訳ではない。

ただ、思い付いて書こうとすると手が止まるのだ。あぁ、これは困った。実に困った。

えっと、こういう場合って本当何を書けば良いんだったかしら?なんて似非の女言葉を使ってみたりするけれど、それで打開できるものなどこの世のどこにだって無いだろう。

それで、もう何だか嫌な気分になってしまって、新鮮な空気を吸いに外に出てみたのだった。


 幸い、世の中は春である。取材にはうってつけの花見日よりで、桜の樹の近くで酒盛りしている連中がちらほら見えた。猿山で縄張り争いでもしているみたいに派手にはしゃいでいる奴等で、それを見ていると馬鹿ばかりやっていた中学時代を思い出してなんだか微笑ましく思った。あれくらいのはしゃぎ方をしているときが、人間一番楽しいのだ。

 少し遠巻きに彼らを見つめていると、ふと、何人かが染めた髪にピンクの花びらを乗せているのに気づいて、それがちょっとおかしかった。

 その横ではスーツの男がネクタイを振り回して歌っていて、しかしそれを咎める者はどこにもいなかった。寧ろ一緒になって歌っている者までいた。手拍子をとっている者もいた。

皆が皆楽しそうだった。

 きっと、この空間にはそういう、普段なら受け入れがたいものも許容してしまえるおおらかさがあるのだ。

悪くない。

こういう日も悪くないな。

やっぱり、外に出たのは間違いじゃなかった。

心底そう思った。

 そのまま暫く彼らを観察した後、立っているのに疲れたので近くのベンチに座った。

ふうっと長く息を吐き、全身を軽く伸ばして、すっかり解れてきた頭の中の繊維の塊に思いを馳せた。もう、今すぐにでも何か書けそうな気分であった。

ただ、それはそれとして、こののどかな休息を打ち切りたいとは思わなかったので暫くこのまま休んでいることにした。


「なぁ、あんた。ここ。座って良いか?」

不躾な声がした。薄く目を開けると、それはどうやらさっき桜の樹の下で騒いでいた男の一人らしい。別段、それを拒む理由も無かったので、

「構わないけど」

と言った。

それを聞くと、男はベンチにどかっと胡座をかいてその上に猫を乗せた。

猫?

「あぁ、こいつ。さっき車に轢かれそうになってたんだ」

「へぇ」

不意に、自分で設定した小説のお題を思い出したが、それをここで言うのもどうかしているので思うだけにとどめた。

「それで、その猫をどうする気なんだい?」

とは言った。

「どうするも無いさ、俺の家で飼う。それぐらいしか無いだろう?」

と、彼は言った。確かに、概ねそうするのが正しいような気がした。

しかしこのシチュエーション、上を見上げるとそこには桜の樹があった、いよいよ設定したお題と似通ってきていた。

後は目の前の男がピザでも頼めば完璧だろう。

ひどい偏見だが、ピザの一枚を軽食だと思っていそうな見た目ではあるし。

「何を言ってるんだ?」

男が言った。

やっちゃったか?と思った。

考えがすぐ口から滑り出す悪癖があるのだ、

これで人生何度損してきたことか。

「いや、そうじゃない。そうじゃなくってピザはお前が頼むんだろう?」

男が咀嚼するように言った。

でも、なぜ?

ピザを頼むのは男、知り合ったばかりの彼ではなかったのか。

「いいや違う。お前が頼むんだ、でなきゃお題通りにならないだろう?」

だって、俺は或る男なんだから。

彼が言った。

「そうか」

そうだった。

猫を助けたのは彼だった。

つまり、だとしたら確かに、順当に考えればピザを頼むのは僕でなければならない。

 僕は、デリバリーのピザを一枚頼んだ。

サラミの沢山乗ったやつ。サイズはSで。

それから、ピザが届くまで男と話して、ピザが届いたら男と猫と僕とでそれを分け合って食べた。

猫がピザを食べて良いものか僕にはわからなかったけど、男があげていたからそれには口出ししないでおいた。

 やがて、八等分のピザは全部すっかり胃の中に収まってしまった。

食べ終わってすぐ、急に便意を催したらしい男が猫を残して公衆トイレに駆け込んでしまって。残された僕は同じく残された猫のひたいをつっついた。小さな額だった。

猫がにゃあと鳴いた。


 ふと、頭を揺らした猫の鳴き声で目覚めた。どうやらベンチでうつらうつらしていたらしい。こんな天気だ。そういうこともあろう。

 しかし、だとしたら、どこまでが夢だったのだろう。僕は考えた。

男はまだトイレにいるのか、それとも或る男なんて僕の作り出した幻だったのか。

その答えは重なりあってそこにあるように思えた。

……まぁ、どっちだって良いか。

どっちだって良い。

今はこの何となく浮かぶ構想を書きとめたい。 

 そう思って、だけどそれじゃ納得できずにいた。誤魔化すつもりなのか何なのか、僕はなんとなく口許を拭う。薄いティッシュの表面にオレンジの染みが付いた。

鼻を近づけると、微かにトマトの匂いがした。

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或る男の話 白雪工房 @yukiyukitsukumo

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