第4話
自転車庫に到着し、鍵を抜いて館内に入った。
外にいる時は若干寒かったのだが、自転車を飛ばしてきたこともあって暖房のかかっている図書館に入ると、少し汗をかくほど体温は上昇していた。
休日ということもあってか、平日なら僕の他には数人しかいない時間帯でも、おそらく社会人と思わしき人たちがある程度の人数、多種多様な小説や自己啓発書を物色している。
いつも通りの司書の読好さんに、もう一人おじさんもいた。
話をしたことがある関係ではないが、決して初めて見る顔ではない。
僕はいつもの通り、館内に入って最初に九類、日本文学の棚に向かい、パッと目についた本を一冊、棚の最下段から選ぶとそれをあまりよく見ないままカウンターに持って行き、読好さんと少しばかりの言葉を交わしてからいつもの通り日の当たらない窓際の席に腰を下ろし、いつもの通りに参考書を開く。
ほのかに温かみを感じる丸い机と椅子は、何やらこの地域で採れたものを使用しているらしい。
だから何だという話だが、なんとなく嬉しくなった。
話は変わるが、僕がここに持ってきたのは、ドリルというよりも辞書に近しいような、分厚い参考書であり問題集の青チャートである。
つまるところ僕が今日行うのは数学ということだ。
難問が群衆のように押し寄せるこれに対し、僕は他の教科も並行して勉強しているとはいえ、買ってから半年経つもののいまだに折り返し地点にさえ到達していないことに溜息を吐いた。
特段得意教科がない僕ではあるが、数学に関しては他の四教科と比べると、頭一つほど抜けていると勝手に思っている。
とは言っても僕は高校に入ってから模試や定期テストを受験したことがないので、客観的に見てどうなのかは判断しかねるところだ。
筆箱の中からゆっくりと青いシャープペンシルを取り出す。
母から高校入学する時に買ってもらった品だ。
……ごめん。
いつもペンを取り出すたびにそう思う。
やがて僕は周りの景色を忘れ、机の上だけを見始めた。
始めてから1時間ほどたった頃だろうか、待ちわびていたその瞬間は突然やってきた。
彼女と会話をすると言う高難易度ミッションの始まりだった。
「おはよう、風斗くん……だよね。
一昨日ぶりだね」
え……?
僕は今まで生きてきた中で一番速く顔を上げた。
図書館に、のぞみさんがやってきたのだ。
場所が場所ということもあり、抑えたような声だった。
彼女に名前を覚えていて貰えたという事実が、僕の感情を浮揚させる。
あまりに唐突な登場に、僕の拍動の音が、静まり返っている図書館中に響き渡ったかのように錯覚した。
時が止まったような感覚でもあった。
多分、僕の口は微かに開いていた気がする。
この前に見たときはコンタクトレンズをつけていたのだろうか、今はガラス越しに目を合わせることしかできない。
おしゃれな眼鏡は度がかなり強いのだろうか、前よりも少し目が小さく見えた。
二日前とは違い彼女は、学生服とはガラッと変わった風貌の、黒のロングスカートに白いニット、その上に薄いブラウンのコートを羽織っていた。
前に彼女を見た時とは打って変わって大人っぽい姿は、僕の心のまた違った部分を動かした。
会うのは二回目だし、私服を見るのは初めてだし、そもそも人と喋るのは苦手だしで、僕の脳みそは鬼ごっこをする小学生のように暴れ回っている。
だが、そんなことを考えている暇などない。
何かしらの返事をしないと、僕が彼女を無視したと捉えられてしまう。
「う、うん。
そうだ、この前はありがとう」
僕は返答しないということを避けるためだけに、無難にそう答えた。
おそらく緊張していることは悟られているだろう。
彼女は、左手に持っていた白い手提げのカバンを、右手に移し替え、口を開く。
「なんか、顔赤いね。
もしかして体調よくない?」
にこやかな表情をする彼女は、マシュマロみたいな唇を開いた。
僕は今の心情を指摘されるようなことを聞かれると思っていたので、また一瞬、硬直した。
「いやいや、元気だよ、その、なんていうか、図書館が暑くて。」
半分は事実で、半分は嘘。
そこまで焦るほど、中身のあるような会話をしているわけではないのに、僕は何度も言葉に詰まった。
イントネーションもほどけない紐のように、ぐちゃぐちゃだったかもしれない。
僕が会話に慣れていないということは彼女に明白に伝わっただろう。
僕には気の利いた返事なんてできないし、笑いを取れるような技術もない。
でも、これが僕の精一杯だから。
投げたボールは大暴投。
でもこの会話が、一つでもつながってほしかった。
「暑がりさんなんだ。
じゃあ夏とか、しんどくない?」
大丈夫なの?
と、彼女は首を傾げた。
僕は自転車を飛ばして来たから体が熱くなっているため、その見当は全くの誤解で、むしろ寒いほうが苦手なのだが、僕にはそれを否定するだけの語彙が、頭から抜け去っていた。
しかし、彼女が横っ飛びでなんとかキャッチしてくれたボールを、すぐにまたとんでもないところに投げ返すわけにはいかない。
「だ、大丈夫だよ。
慣れてるから。
その、のぞみさんは夏か冬、どっちが好きとかある?」
僕はそっけない返事にならないよう、なるべく喋ることと、会話を続けるために質問を返した。
言った瞬間に、もっと別のことを聞くべきだっただろうかと考えたが、今の僕では、これが天井。
「私は……夏も冬も嫌いかな。」
彼女は虚空を見つめながらそう言った。
三十秒ほど静かな時間が続き、彼女は僕のほうにぱっと視線を戻すと、唐突にある提案をしてきた。
「そうだ、一緒に勉強する?」
首を横に振る理由はなかった。
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