冷血の地獄へいきたガール

権俵権助(ごんだわら ごんすけ)

(前)

 男は無精髭を撫でながら鼻歌交じりにハンドルを握っていた。大きな仕事を終えたばかりで上機嫌だったのだ。でなければ、あんなおかしな女のヒッチハイクなど無視していはずだ。いや、実際一度は横を通り過ぎたのだ。しかし、どうしても好奇心に負けて引き返した。


 女が掲げたスケッチブック──その行き先には「地獄」の二文字があった。


 車の窓を開けると、女が屈託のない笑顔で男を見つめた。冬の風が彼女の長いブロンドの髪をなびかせる。自分より一回りは年下、十代後半くらいに見える。幼さを残した丸くて大きな目と、すらりとスマートなシルエットがアンバランスに感じた。フリルのついた淡い桃色のワンピースという出で立ちが、その不気味な行き先とのギャップを助長している。


「乗んな」


 女は笑顔をいっぱいに広げると「ありがとうございます!」と元気よくお辞儀をして後部座席に乗り込んだ。


「…………」


「…………」


 沈黙を破ったのは男の方だった。


「おい」


「はい?」


 女は笑顔のまま首を傾げた。


「ドア」


 言われてハッと気付き、慌ててドアを両手で閉めた。あからさまに表情に出るタイプのようだ。


「ごめんなさい! いつも自分で閉めないから……」


 どんなお嬢様だよ、と男は舌打ちをしてアクセルをふかした。長く貧しい暮らしを強いられてきた自分とは正反対の人生を送ってきたんだろうなと思うと腹が立ったが、シフトレバーの脇に置いた小箱に目をやって心を落ち着かせた。走りながら時折バックミラーで後部座席を確認すると、その度に女と目が合い微笑みかけられた。……からかわれているのだろうか。


「で、どこ行きたいって?」


「地獄です!」


 即答。目は真剣だった。


「あんまいいとこじゃねえぞ」


「まあ! いらっしゃったことがあるんですか?」


「いや。けど、いい評判は聞かねえな。たぶん治安はここらと似たようなもんだ」


 この地域はコルレオファミリーが牛耳るギャングの巣窟であり、彼らの暴虐には王室の軍隊も手を焼いていた。孤児である男は物心ついた頃からずっとこの街の理不尽や暴力と共に生きてきたのだ。


「そうですか……」


 彼女は少し俯き、それから。


「でも、行きたいんです」


 上げた顔の瞳の奥には強い光が揺らがず宿っていた。


「なんで」


「そこに、父がいるから」


 嘘をついているようには思えない。しかし、やはり話が見えない。


「んー……」


 ハンドル片手に頭を掻く。羽織ったコートの胸ポケットからタバコの箱を取り出し、一本咥えて火をつけた。フウと煙を吐き出すと、後ろで女が咳き込んだ。


「お前、年は?」


「ケホッ、じゅ、十七です……コホっ」


「未成年がタバコも吸わんで地獄に行こうなんてな」


「そ、そういうものですか……?」


 フンと鼻で笑い、窓を開けてやった。冷たい風が車内を通り抜け、煙を連れ去った。


「で、オヤジが地獄にいるなんて一体誰が言ったんだ?」


「……お母様が、亡くなる前に。私が生まれた時にはもうお父様は家にいませんでしたから、どうしても会いたいと思って一度だけ母に尋ねたんです。そうしたら『あいつの行き先は地獄以外にはない』と……」


「…………」


 困った。どうも思っていたのとは別種の不穏さが漂ってきたぞと男は面倒くさくなった。さて、オヤジは離婚したのか死んだのか。いずれにしてもハッピーエンドには辿りつかない話だ。


「けれど私、あいにくその『地獄』という場所を存じ上げなくて。お隣の国から雇っている専属の教育係にも尋ねてみたのですが、なんでも宗教上の理由でよその地獄については教えられないと言われまして……」


 これ以上、他人の家庭事情に首を突っ込んでもろくなことはない。大体このまま走っていても地獄には辿り着かないし、そもそも男には自身が目指す場所があった。地獄の謎も解けたことだし、どこか適当な場所で女を下ろそうと決めたその時、グルルと何かの唸り声が車内に響いた。バックミラーを覗くと、女が頬を真っ赤に染めて俯いていた。本当にすぐ顔に出るタイプだ。


「……とりあえずなんか食うか」


※ ※ ※


 数キロ走ったところで道路沿いにガソリンスタンド併設のコンビニを見つけて車を停めた。男がパンと紙パックの飲み物を適当に見繕って戻ってくると、女は車から降りたところで何やら下手くそなタップダンスを踊っていた。


「何やってんだ」


「あっ、あの、この子がっ……!」


 見ると、雑種の子犬が女の足元を八の字を描いてせわしなく駆け回っていた。


「……くくっ」


「な、なんで笑うんですか!?」


 野生の動物は本能的に自分より弱い相手がわかる。つまりコイツはこの可愛らしい子犬よりも弱い。そう思うとなんだか可笑しくなってしまった。


「いや別に。……ほれ」


 男がパンを投げると、女はおぼつかない足取りながら腕を伸ばしてなんとかキャッチした。


「ガソリン入れてくるから、それ食って待ってろ」


※ ※ ※


「……なあ」


「な、なんですか?」


 戻ってきた男が運転席の窓から顔を出して女に問いかけると、目を逸らされた。


「オレは犬の餌を買った覚えはねえぞ」


「お、おいしかったですよ? クリームパン」


「白あんだっつの」


 男がため息交じりに訂正すると、味を想像したのか、また女の腹が鳴った。その足元では、急におとなしくなったさっきの子犬が彼女の靴に頬を擦り付けていた。


「明らかに懐いてるじゃねえか」


「だ、だって……すごく物欲しそうにパンを見るから……」


「……ったく」


 男は自分のサンドイッチを手渡した。触れた女の指はやたらに冷たかった。


「えっ、いいんですか……?」


「さっさと乗れ」


 後部座席のドアを開けると、真っ先に子犬が飛び乗った。


「あの、この子……」


「……ああもう、いいから乗れって」


 今さら犬がついてこようが別に構わなかった。地獄など無い。そう告げて、どうせこの先の駅前あたりで下ろすのだから。それなのに。


「ありがとうございます!」


 女は相変わらず無邪気に笑っていた。胸の奥が少しモヤモヤして、男はまだ自分にそんな気持ちが残っていたのかと気付き、苦笑しながらアクセルを踏んだ。それから、今度は窓を開けてタバコに火をつけた。


「……へっくち!」


 後ろから可愛らしいくしゃみが聞こえてきた。見ると、女が小刻みに震えていた。この真冬に薄手のワンピース。寒くて当然だろう。まったく、煙に気を遣ってやったら今度はそれか、と男はため息をついた。


「これ着てろ」


 コートを脱いで後部座席へ放ると、受け取った女が「でも……」と遠慮がちに言った。


「このままじゃ吸えんだろうが」


「あ、ありがとうございます……」


 女が微笑むのを見て、男は視線を逸らすように前を向いた。子犬がキャンとからかうように小さく吠えた。


「……そういやお前、名前は?」


「はい、私はアン…………ジー、アンジーと申します。あの、あなたのお名前は?」


「さあな。仕事によって変えてる」


「あら、変わったお仕事なんですね。でも、お仕事をされていない時のお名前があるでしょう?」


「……ワイラーだ」


 親が付けたものではない。単に初めての仕事で名乗らされた名前が仲間内で定着しただけだ。


「ところで、お前にハッキリ言っとかなけりゃならんことがある。あのな、地獄ってのはロクでもない人間が死んだ後に行く場所だ。……まあ、お前のオヤジが生きてるのか死んでるのか、それはわからん。だが、少なくともお前の母親から恨まれていたのは間違いない」


 アンジーは驚いた表情でしばし呆然としていたが、ポツリと「……そうなんですね」と呟くと、俯いて膝の上の子犬を撫でながら黙ってしまった。


「……この先の駅前で下ろしてやるから、そのまま家に帰るんだな」


 返事はなかった。静寂のドライブが続く。すっかり元気をなくしたアンジーが気にかかり、ハンドルを握りながら何度もバックミラーを覗いた。そのせいで前方を横切ろうとするトラックに気付くのが一瞬遅れた。相手のクラクションで我に返り、慌ててブレーキを踏み込む。車体がガクンと大きく揺れ、直後トラックが目の前を高速で通り過ぎていった。


「っぶねえ……。おい、大丈夫か?」


 後部座席に目をやる。「は、はい……」とアンジーがシートベルトに締め付けられた胸を押さえながらどうにか声を絞り出した。どうやら怪我はなさそうだ。


「……あら?」


 アンジーが足元から小箱を拾い上げた。シフトレバーの脇に置いてあったものがさっきの急ブレーキで転げ落ちたらしい。その衝撃で蓋は開いてしまっていた。


「おい、それは……!」


 ワイラーが慌てて取り返そうとしたが手遅れだった。アンジーは箱の中身を見て呟いた。


「ブルーダイヤ……」


 本来、王室で保管されているはずの10カラットの青く輝く宝石、通称「冷血のブルーダイヤ」。時価30億とも40億とも言われるそれを、なぜかワイラーが手にしていた。


「おい、返せ!」


 ワイラーは無理やり手を伸ばして箱ごと奪い返したが、時すでに遅し。見られてしまった。舌打ちして、ワイラーは再度アクセルを踏み込んで車を走らせた。しまったなと思ったが、しかし、よくよく考えてみれば今さら誰に知られようが関係ない。どうせこれから空港へ行き海外へ高飛びするのだ。ダイヤを売った金で顔を変えて追手を撒いてしまえば、あとは悠々自適の逆転人生が待っている。


「あの、このダイヤ……」


「ああ、その通り。冷血のブルーダイヤだ。王室のお宝が何故ここにあるのかと不思議に思ってるんだろう?」


 どうせこの国には二度と戻ってこない。そう思うと、一世一代の大博打に勝った武勇伝を誰かに語りたくなった。


「今、王室にあるダイヤは偽物だよ。本物は十七年前にギャングのドン・コルレオが盗み出したんだ。……おっと、プリンス・コルレオーネと呼んだほうが通りがいいかな」


 当時、鉄壁と呼ばれた箱入りプリンセスの心を射止めたのが貧民街出身の純朴な青年コルレオーネだった。国を上げて祝われたロイヤルウエディング。その最中、儀式のため式場に持ち込まれた国宝ブルーダイヤは盗まれた。コルレオーネは詐欺師だったのだ。だが王室はこの事件を汚点として国民に秘匿した。一方、コルレオーネは王室に勝った男として裏社会で名を上げ、さらに持ち前の射撃の腕も加わり、たちまち頂点へと上り詰めたのだった。この事実は一般国民は知らずとも、男の育ったギャングの世界では常識だった。


「オレは物心ついた時にはコルレオに拾われ、育てられていた。……いや、使われていた。ガキは何かと便利なんだ。誰でも油断するからな。スリ、囮、鉄砲玉……なんでもやらされたよ。最低最悪の毎日だった。いつかコルレオの野郎を出し抜いてやる、その思いを胸に秘めて耐え続けた。そして……」


 助手席に置いたダイヤの小箱をちらりと見た。


「長年かけて奴の信用を得て、ようやくコイツに近付けたってわけだ。……驚いたか? 別に、車を降りた後、警察なりコルレオなりに駆け込んでも構わんぜ。どうせその頃、オレはとっくに雲の上だからな」


 だがアンジーは驚く様子もなく、冷静に言った。


「そのダイヤ……偽物ですよ」


「…………はあ?」


 思いもよらない発言に思わずブレーキを踏んだ。


「何言って……」


「あのダイヤは普段は青くないんです。常人よりも体温の低い特異体質者……つまり王族の人間が触れた時にだけ反応を起こして青く光るんです。彼らが国を興したのも、その体質を利用して呪い師として大成したのが始まりです」


「なっ……そんな話、聞いたことねえぞ! それにテレビに映ってたダイヤはいつも青く……」


「それもレプリカです。盗難防止のために」


「そんなはず……!」


 小箱を拾い上げてブルーダイヤを凝視する。小さな傷跡──いや、それにしては直線的すぎる。明らかに人為的な割れ目。さっき床に落ちた時に接着された部分が外れかかったのか。両手に力を込めて左右に引っ張ると、ダイヤはぴったり左右対称に割れ、中から一枚のチップが現れた。位置を特定するための小型発信機だった。


「そんな……」


 王室はブルーダイヤの盗難を秘匿していたわけではなかった。そもそも盗まれていなかったのだ。むしろ逆に、コルレオが偽物を掴まされたことをを隠すために本物だと嘘をついていた。もしもダイヤが流出し、それが偽物だと明らかになればコルレオの面子に関わる大問題だ。だから内部に発信機を埋め込み、犯人を追跡できるようにした。連中にこちらの動きが筒抜けである以上、今頃、空港には奴の手下どもが先回りしてワイラーを待ち構えているのは間違いなかった。


「くそがっ……!」


 すべてはコルレオの掌の上だった。裏切った上にダイヤの秘密まで知った以上、奴がワイラーを生かしておくはずがない。何が悠々自適だ。何が逆転人生だ。初めからそんなものは存在しなかったのだ。


「…………いや、待てよ」


 ワイラーは違和感を覚えてアンジーを睨みつけた。


「なんでお前がそんなこと知ってる?」


 冷血のブルーダイヤ。その秘密を知るとすれば。アンジーがワンピースの内側に入り込んだネックレスを持ち上げると、服の中から大きなダイヤモンドが顔を出した。彼女がそれを指でつまむと、触れた箇所から波紋が広がるようにダイヤはたちまち青く染まった。


「……本当は、アンと言います」


 若さゆえにまだほとんど表舞台には出てきていなかったが、ワイラーもその名前だけは知っていた。先日、病死した王妃の後を継ぐと報道されていた、この国の王女だった。


「嘘をついていてごめんなさい。ヒッチハイクをするなら身分を隠した方が安全だと思いましたので」


 突然の告白にワイラーはしばらく口を開いたままだった。何もかもが突然で、頭の中を整理するのに時間を要した。だがその口が閉じられた時、同時に口角も上がっていた。


 あるじゃないか。ここに本物が。このダイヤを奪ってコルレオに渡せばあるいは……。グローブボックスを開き、中に隠した拳銃を確認すると、血走った目でアンに言った。


「……いいぜ、今から地獄に連れてってやる」

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