世界最強だけど残虐非道の魔法使いになりたくない僕の100日悪あがき
ことのはいろり
変容
ずっとこのまま寝ていたい。そんな甘えが生じるのは、いまだ自分が完全に自分を律しきれていないからだ。
常に自分を律する一方で、他人とは一定の距離を置くこと、それが面倒に巻きこまれず、自己を保つベストな生き方だと考えてきた
「ううっ……」
世にいう二日酔いなのだろうが、実直はこれまで二日酔いになるほどの酒量を嗜んだことがない。だから、自分をさいなんでいる症状が果たして二日酔いなのかどうなのか判断がつかなかった。
二日酔なのではと疑ったのは、昨晩バーと呼ばれる場所で、ひとりの女性とグラスを傾けたからだ。
初の経験だった。
だからだろうか。かなり舞いあがっていた実感がある。それにしても、どういった経緯で彼女と酒を飲むことになったのかはっきりしない。彼女がどんな顔をし、どんな恰好をしていたのかも。
喉の渇きが気になった。
とにかく水を飲もう、そうすれば頭もスッキリすると上半身を慎重に起こしたのだが、すでに彼の見知った日常は望むのも難き存在となっていた。
まず、それまで自分の横になっていた寝床とは似ても似つかぬものに変じていた。
彼がいつも使っていた布団は、ひとり暮らしを契機に購入したもので特別なものではない。しかし、いま彼が横たわっているのは、ひと回り以上大きいサイズの、まるでどこぞの王族が寝起きするかのような天蓋のついたベッドだった。
部屋も一変している。
その部屋の感じをひとことで表現すれば、ゴシック。欧州には歴史ある古城を改装し宿泊施設として解放しているホテルもあるというが、泊まれば実際にこんな感じなのかもしれない。
アーチ型の窓からの差しこむ陽光で室内は明るい。六畳一間だった実直の部屋よりもそこは広く、実直の家族やオンライン仲間といった知り合いのありったけ、といっても10人くらいだが、彼ら全部を招いて、リアルパーティチャットしても余裕があるほどだった。
しつらえられた調度品のどれもに品があり、使い込まれてはいるが手入れが行き届いている。正面に女性らしき肖像画が飾られ、左手には出入口らしい両開きの扉が見える。深紅の絨毯には酒樽やワインの空瓶が一面に転がっていた。
散乱した瓶や樽を見てもなお、本当に自分が二日酔いなのかいまひとつ信じられない。実直だって酒を飲まないわけではないが、二日酔いになるほどアルコールを摂取する姿が、どうしても自分と結びつかないのだ。
そもそも、どうして自分はこんなところにいるのか。日本とは思えなかった。だとすれば、日本以外の国。どこか欧州の一国という臭いがする。では、バーで飲んだ後、欧州まで?
バーで酒を飲んだのは昨晩。正確な現在の時間はわからないが、たって十数時間。ならば、それこそ某国の大統領専用ジェット機を持ち出さなければならぬだろう。あまりにも荒唐無稽な考えに苦笑する。それよりも現状をもっと現実的なものとして解釈できるツールがある。
夢だ。
夢なのに現実的とはなんとも支離滅裂な話ではあるが、いま見ているのが明晰夢だとすれば現状は説明できる。
明晰夢とは、夢の中でそれを夢だと認識できる夢。これまで実直は明晰夢を経験したことがなかったので、なるほどこれがそうなのかとあらためて室内を見回した。まるで現実味のない光景でも夢だと思えば冷静に眺められるのがなんとも不思議だ。
不思議な点はまだあった。
部屋の細部に意識を尖らせば茫漠とし、逆に意識を緩めればイメージとなる。頭がぐらんぐらんするほど気持ち悪い現象だが、その感覚をあえてたとえるなら、数年前に観た映画。
数年前に観た映画は、年月の経過が全体のイメージを残すものの、一方で細部を曖昧にする。
気持ち悪い現象だが、これも夢だと思えば納得できる。
その内、「んん……」という実直の脇から艶っぽい声が漏れてきた。声が漏れ聞こえた方向に目をやると、薄手のシーツがこんもりと盛りあがっている。
「……ネーヴ……様?」
シーツがもぞもぞと動く。実直はぎょっとした。自分以外の人間がいるとは思わなかったからだ。
シーツから姿を現したのは、ふくよかな金髪白人女性だった。
身につけているのかいないのか分からないくらい露出度の高い寝衣の合間から見える隠す気のない胸元には、つけすぎではと思えるほどの装飾品。高価そうな宝石を埋め込んだゴージャスなもの、細い金鎖で編みこまれ動くたびに光を放つもの、緻密な装飾を幾重にも施したものと、価値だけでなく重さも相当なものだろう。香りも強烈だ。あまたの香水をミックスし大量に付着させた効果と豊満な胸元から漂う色香もあいまってメマイを誘う。
彼女を飾るものはそれだけではない。
耳や指、足首にもアクセサリーがついていて彼女が動くたび、さざ波のようなかすかな音を立てる。目、頬、爪は抜かりなく彩られ、赤や紫、ゴールドといった行き過ぎた色合いは儀式的なものを感じさせた。
誰かのために自分を美しく見せたい、そういった感情も分からないではないが着飾るのにも限度がある、と実直は思う。そもそも彼女は着飾らなくても十分美しい。
波打つ金髪、玉のような肌、加えて彼女の碧眼といったら。ときに瞳の美しさの表現に吸いこまれるという比喩が用いられるが、彼女の瞳はまさに比喩の現実化で、人工的な装飾品のどれも及ばない。
もって生まれた美しさをないがしろにし、人工の借り物で己を飾る。だとしたら、なんとも理にそぐわない習性を持っているのだろう。
そう思って、すぐにその思いを打ち消す。
他人、あるいは女性を一般的にはこうだと言えるほど実直は自分以外の人間のことをよく知っているわけではないし、知れるほど深く付き合ってきたわけではないのだ。
「いや、僕は……ネーヴ? じゃないんですよ」
実直の身長は日本人の平均を超えるものの欧米人の平均には及ばない。
就職活動時は印象が悪いかもと伸ばした髪も馴染まず、数カ月で学生の頃と同じように短く刈り込んだ。短髪の実直は面白みのない彼という人格の顕れととれたが、亡き祖母は戦時中の特攻兵かと揶揄されるくらい日本人然としたものだった。
だから、ネーヴという異国を想起させる名で呼ばれたとき、彼女がどうして自分をネーヴという男と間違えたのかさっぱり理解できなかったし、まだ寝ぼけているのだと思った。
まっとうすぎる実直の返事を聞いた彼女は、吊りあがり気味の目を大きくした。
「くくく」と可笑しそうに切り返すと、冗談ばかりなのね、とわき腹を指でなぞってきた。
んくっと変な声が漏れそうになるのを押しとどめる。
「あら、あなたがネーヴ様じゃないとしたら、わたしもエレンシュールではないとでもいいたいのかしら」
彼女――エレンシュールは実直の腰のあたりに馬乗りになる。何とも挑発的な態度だ。
「よいわ。あなたとわたしは名もない男と女。それでも、あんな素敵な夜。ネーヴ様とだからこそ味わえた。わたしはそう思っておりますわ」
にやり、と妖艶に笑う彼女に、女性ならではの自信が透けて見えて、実直は思わず身震いする。
「うふふ。思い出してきたでしょう? あなたはネーヴ。世界最強の魔法使い」
彼女は実直の手を両手で包みこんだ。彼女の掌は肉づきがよく、実直の手がすっぽりと埋まる。
「むほーっ」
あたたかく柔らかに包まれる心地よさに、実直は正気を失いそうだ。つい手だけでなく、もし全身が包まれたら、と淫らな想像をしてしまう。
とろけるような表情をしていたに違いない。
エレンシュールが満足げに舌なめずりをするのが見えた。彼女は実直の手をゆっくりと離すと、とん、と軽く押しやる。実直は彼女のなすがままにベッドに倒れこんだ。
エレンシュールは実直にマウントをとると、背を大きくのけぞらせたかと思うと、勢いよく紫色に塗られた唇を突きだしてきた。
「あっ、あっ」
急速接近する彼女の唇に、実直は彼自身にすら思いもつかなかった行動をとる。それが物理的な恐怖からくる反射だったのか、精神的なものからくる拒否だったのか。
思いきり両手で彼女を押しのけたのだ。
「あああーーーっ!」
ベッドを転がり落ち、軌道にあった雑多なものを弾き飛ばしていくエレンシュール。ちょうど実直の正面、彼女の転がった終点に、石壁がある。
思わず、実直は手を伸ばした。その指先が、あたかも彼女が石壁に激突する結果を避ける一助になるかのように。結果的に、彼女は正面の壁に激突しなかった。
消えたからだ。
石壁に吞まれたかのように。いや、石壁にという表現はもはや正確ではない。壁があった場所は、既に漆黒の闇に変じているのだから。いつ闇に変じたかは定かではない。気づけば部屋が、実直のいるベッドまでもが闇となり、実直は闇に浮いている状態になっていた。光の溢れる一室は、今や光の一条すら望むべくもない徹底的な闇に満たされ、自分の目が潰れてしまったのかと疑わずにはおられない。なんの匂いもなく、音が一切遮断された闇。ついているはずの腕も足もなんの情報も伝えてこなかった。
五感の全てが機能を一斉に失ってしまったかのようだ。もし誰かにお前の四肢はもがれ、目は潰され鼻、耳は削がれたと言われれば疑いなく信じただろう。それでも自分がまだ生きていることを感じるのは、呼吸の実感があるためだ。
ごくり、と唾をのんだ音が、喉が動く振動とともに耳に届いた。
「エレンシュール」
彼女の名を口にした。声は驚くほどわなないている。
夢だ。ただ同じ夢でも、先ほどの明かりに満ちた室内とはなんと異なる状況か。先ほどどの室内が天国に思える。同じ状況が1日、いや1時間でも続けば発狂してしまっただろう。幸いにもその状況は回避できたのだが。
「ネーヴ様」
実直に呼応し、どこからともなく、エレンシュールの声が響いたのだ。
「エレンシュール?」
彼女の声が響いた方向に彼女の姿を探した。しかし、彼女の姿はなく、永遠に闇が拡がるだけだ。
「くくく」と含み笑いに続いて、「やっとわたしの名を呼んでいただけたのね」と弾んだような声がした。
「どこだ。どこにいる?」
ぽ、と光がともり、実直を誘うように上下する。ぷ、うぷぷぷぷ。
実直は感覚のない腕、足を櫂にし、その光の下へと闇を漕いだ。
「なにをうろたえていらっしゃるのかしら。ぷ、うぷぷぷ。あなた様はこの世界で最強の魔法使い。この程度の闇など、あなた様のお力で即座にお払いできますでしょうに」
「だから、僕はそのネーヴじゃ……うわぁ」
自分はネーヴではない、と言い切る代わりに絶叫に変わったのは、顔数センチ先にエレンシュールの頭部がいきなり浮かんだからだけではなく、彼女の後頭部が闇で切り取られていてあたかも面のように見えたからだ。本来であれば喜ぶべきエレンシュールの登場。しかし、その出現はあまりにも奇怪だった。いつもの実直であれば警鐘を鳴らしたのであろうが、冷静さの去った頭からは危険を察知する能力が失われていた。
ぷ、うぷぷぷ。
「では、あなた様はこの闇を打ち払うことができない。そう仰るのですね」
宙に浮かぶエレンシュールの面が妖艶に笑った。
「そうだ! だって、僕は……」
そもそも、自分はネーヴではない。ネーヴではないとしても、闇に導いたエレンシュールがいれば、同じように光に満ちた世界に戻ることができると思っていた。少なくとも害される、生命を脅かされることはないと思っていた。 何故なら、生きとし生ける存在に無二の生命が理由もなく奪われるはずがないというのが彼の世界だったから。
ある日、突然何の前触れがなく、自分の体が傷つけられ生命が奪われるという現象を人は『理不尽』と叫ぶ。その行為に異論があろうか。いやあるまい。
実直は理不尽を憎む。これまで実直が生きてきた年月、他人を遠ざけ自己を貫いてきたのには、理不尽を厭う彼の性格が理由のひとつであることには疑いがない。
しかし、彼はまだ若く、本当の理不尽に遭遇する経験に多く恵まれたわけではなかった。だから、闇が縦に割け、実直の体をひと飲みできるほど大きく横に広がった変化に、実直は気づけなかった。
漆黒に漆黒を重ねられたら視認できないというのが大きな理由であったにせよ、実直がもう少し注意深ければ、エレンシュールの面が彼の顔近くまで下りたときに、広げられた闇はそれまで実直の在った漠然たる空間ではなく、グロテスクないくつもの突起を生やすなにか得体のしれない生物の一部だと垣間見れたに違いない。
結局のところ、実直は最適なタイミングを逃した。それが命とりになるとも知らず。
エレンシュールの面は、広げた闇の一歩手前に実直があることを確認すると、さらに彼を奥にと先導した。ようやく、実直が自分の踏み込んだ場所が得体のしれない生物の一部だと気づいたのは、エレンシュールの面が放つ光が彼の上下左右にある無数の突起を照らしたからだった。実直のために広げられた穴は奥にいくほど狭まっており、だからこそ判断力の低下した実直でも、自分がもはや絶望的な状況にあることが容易に自覚できた。
「うわーっ」
穴はもはや待ち構える必要がなくなったとばかりに一斉に蠢く壁となって、すぐさま実直を包んだ。
エレンシュールが身につけていた香水の香りが漂っていた。
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