第31話 突然の電話

 隣を見てみると、あまりにまっすぐな目でこちらを見ているので、つい呼吸さえも忘れた。その瞳からは、今彼が何を考えているのかまるで読めない。怒っているようにも、苦しそうにも見える。


 彼の大きな手が、私の心も掴んで離さない。


「……抱き着かれたりもしたなんて、最悪だったね」


「……あ、ま、まあ……」


「今、俺もめちゃくちゃ不快だから」


 彼の低い声から、怒りが伝わってくる。透哉さんが私のために怒ってくれていることが、凄く嬉しかった。嫌だったことなんて全て吹っ飛んで、彼の言葉で頭がいっぱいになる。


 どうしよう。こんなに夢中にさせられて。どれだけ眼中にないと分かっていても、抑えきれそうにない。自然と諦めるなんてこと、できそうにない。


 震える胸をそのままに、私は素直に声に出した。


「私、あの、私は……」


「俺さ」


 言いかけたところで、透哉さんが割って入る。至近距離で見る彼の顔はやっぱり綺麗だ。そして、どこか不安げに見える。


「伊織に言っておきたいことがある。もしかしたら困らせるかもしれないけど」


「え……?」


 あまりに真面目な顔で言うので、私も息を呑む。瞳に囚われたまま動けなくなっていた。


「俺は、元々は」


 そう言いかけた時、部屋中に大きな音が鳴り響いた。電話の呼び出し音だった。反射的に手がぱっと離れる。


 同時にお互いのスマホを見て確認すると、私のスマホが鳴っているようだった。ふとその画面を覗き込むと、森さんからの電話だったので一瞬固まった。


 どうして彼女から電話? 連絡なんて、一度も来た事ないのに。


 透哉さんも画面を見て、怪訝そうな顔になった。でも、このまま無視というのも気が引ける。彼女が用もなくかけてくるとは思えないからだ。


「すみません、ちょっと」


「出るの?」


「普段プライベートな連絡なんて取らないんです。何かあったのかも」


 断りを入れて電話に出てみると、向こうから半泣きの声が聞こえてきたので驚いた。


『ああ、先輩ー!』


 明らかに困っているような、縋る呼び方だった。私は慌てて尋ねる。


「森さん? どうしたの」


『今、私の家のすぐ近くのコンビニにいるんですけどー……なんか変な人につけられてて』


「えっ!?」


『どうしましょう、全然店の前からいなくなってくれないんです』


 透哉さんの顔を見る。内容までは聞こえないものの、森さんの焦っている声色は伝わったようだ。首を傾けて聞いている。


「警察は?」


『だって、別に実害あったわけじゃないですよ? 動いてくれないと思って……もし来てもらって家まで送ってもらったとしても、それを見られてた家がばれるじゃないですか……逆恨みとかされても怖いし。私、今頼れる人がいなくって』


 洟を啜りながらそう言った。森さんは確かに凄く可愛いので、変な男に目をつけられてもおかしくはないと思う。それに、三田さんと別れた今なら、確かに頼れる人がいないというのも納得ではある。


『先輩、タクシー呼ぶので、今日先輩の家に泊まらせてくれませんか?』


「え、私!?」


『一人で家に帰るの怖くって……』


 おびえた声で言ったが、まさか家に来たいと言われるとは思っていなかった。でも確かに、一人暮らしなのに変な男に付きまとわれたとなれば、恐怖心が凄いのは安易に想像がつく。


 でも、私の家か……同期とか、友達とか、他に候補があると思うのだが。


「あの、友達の家とか、聞いてみた?」


『聞いたんですけど、今日は彼氏が泊まりに来てるとか、そういう子ばっかりで捕まらなくて。頼れるのはもう先輩しか……先輩がダメなら、もう一人で帰るしかないんです……』


 申し訳なさそうな小さな声がした。そうか、誰もいなかったから私に電話したのか。そりゃそうだ、親しくもないのに一番にかけてくるはずがない。


 一応大学からの知り合いだし、最後の候補として上がったんだろう。


 黙って考えた。なんとなく森さんを家に泊めることに、少し抵抗はある。


 でも、そんなことも言ってられない状況だ。私が断って、もし森さんが一人家に帰る途中何かあったら? このまま彼女を放置しておけるはずがない。私は決意して頷いた。


「分かった、いいよ」


『ほんとですか!?』


「どこのコンビニなの? タクシーとはいえ一人は危ないと思うから、迎えに行くよ」


『えー先輩、神ー! えっと……』


 聞いた場所を頭に入れると、私は電話を切った。透哉さんが怪訝そうな顔でこちらを見ている。


「森さん、なんだって?」


「変な男性につけられて、コンビニに避難してるらしいです。一人で帰るのが怖いから、泊まらせてくれって」


「今から? 警察は? 友達とか同期とか、他にいるだろ」


「実害がなければ警察もそんなに動かないだろうし、逆恨みとかも怖いからって。他の友達は都合がつかないらしいんです」


 私の説明に、彼はあからさまに顔を顰めた。一人でぶつぶつと小声で言う。


「まあ、女性は変な男に狙われるっていうことはあるだろうし……誰かの家に泊まりたいって気持ちも分かるけど、タイミングとか……」


「放っておくことも出来ませんし……」


「泊まらせるの?」


「他に行くところがない、ってなれば仕方ないかと。もう遅いから、寝るだけになりそうですし」


 実際の所不安もあるが、理由もなく断れる状況でもない。


 透哉さんはどこか不満げに顔を歪めた。


「わざわざ伊織が泊めなくても」


「他に頼れる人がいない、って言われたら断れませんよ。何かあってからじゃ遅いです」


「……君の真面目で優しい性格は、時に心配になるぐらいだよ」


 苦笑いをした彼は続ける。


「だったら俺も一緒に、って言ってやりたいとこだけど、さすがに俺まで泊まるのはなあ」


「え!? だ、大丈夫ですよ、はい!」


 準備もしていないあの部屋に彼が泊まるなんて、私の精神状態が普通ではいられない。それに、透哉さんがいたら、森さんがやたら接触していそう。そんな二人を見るのは嫌だ。森さん、透哉さんの寝込み襲ったりとか……何を考えてるんだ、自分は。


「迎えに行くって言っちゃったんで、タクシー乗って行ってきますね」


 私が立ち上がると、透哉さんに腕を掴まれた。


「迎えは俺も行く。変な男が近くにいるんだろ? 伊織に何かあったらどうする」


「え、でも……」


「三田の件もあるし、こんな遅くに一人で動いちゃだめだ。伊織の家に行くっていうのも気を付けて行こう。あとを付けられたらまずいから、迂回して向かうのがいい」


 付き合わせてしまうのは申し訳ないが、実際の所男性がいてくれるとかなり心強い。私は素直に頭を下げた。


「ありがとうございます、助かります」


「ごめん、ちょっとだけ待ってて。さすがに着替えたい」


 慌てて去っていく透哉さんを見送ったあと、さっきこぼしたお茶がまだ床に残っていることに気付き、急いで布巾で拭いた。ふと傷のないグラスを見つめ、さっき彼が言いかけたことが気になる。


 一体何を言おうとしたんだろう。


 続きはいつ聞けるのだろうか。


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