第一話

見習い修道女の受難〈1〉

 聖ベルティアナ修道院は、公都ブランシェリウムで随一の歴史と伝統を誇る女子修道院である。

 初代大公の妹姫であった聖ベルティアナによって開かれ、代々、大公家に縁のある貴婦人が院長を務めている。そのため修道女たちのなかには良家の令嬢や夫人であった者が数多く、聖ベルティアナ修道院は高貴な女性たちの駆けこみ寺としても有名だった。

 その修道院の聖堂に、ひとりの少女の姿があった。〈天地の王〉アケロンと〈暁の聖母〉シェライーデ、〈星の御使い〉ラキエルの聖像が安置された祭壇の前に跪き、両手を固く握り合わせて俯いている。

 小柄な痩身を包むのは、見習い修道女であることを示す青色のベールと尼僧服。そばかすの散った幼げな横顔には苦悩が影を落とし、彼女をまるで嘆きの淵で祈りを捧げる聖女のように見せていた。

 そう、少女は悩んでいた。切実なまでに悩んでいた。

「神さま、聖母さま、御使いさま……」

 黒目がちな瞳で縋るように祭壇を見上げ、少女は途方に暮れた声で問いかけた。

「あたしはいったいどうしたらいいんでしょうか?」

 しかし冷たい石像は何も答えてはくれず、静かなまなざしを少女に注ぐだけだった。

 今すぐ奇跡が起きて、全知全能の神様がすべてを解決してくれればいいのに――思い浮かんだ虚しい願望に少女は項垂れてため息を落とした。

 折れてしまいそうな背中へ、不意に金の鈴を振るうような声が投げかけられた。

「まあ、マーニャったらこんなところにいらしたのね!」

 思わず飛び上がった少女――マーニャは、おそるおそる背後を振り返った。

「ずっとあなたを探していたのよ。一緒にお昼を召し上がりましょうねって約束しましたのに」

(そんな覚えなんてありませんっ!)

 マーニャは心のなかで絶叫したが、それを口にする勇気はなかった。

 青ざめて硬直したマーニャの様子などかまわず、声の主はかわいらしく微笑みながら近づいてくる。その後ろで、唯一の出入り口である扉が大きな音を立てて閉まった。

「本当にあなたは意地悪でつれない方ですわ。こんなにもわたくしが――」

 薔薇窓から射しこむ七色の光が照らし出す、清艶な美貌。

 金翠に煙る豊かな睫毛、その奥から見つめてくる蜂蜜色の瞳は背筋が震えるほど蠱惑的だ。肌は陶器のように白く滑らかで、だというのに笑みを浮かべるくちびるは濡れた果実よりも瑞々しくふっくらしている。マーニャと同じ見習い修道女の装束を身につけているが、その細さは貧しさゆえのものではなく洗練された美しさだった。

 視線を逸らすことすらできないマーニャの目の前までやってくると、絶世の麗人は身をかがめ、鼻先が触れるような距離でささやいた。

「仲良くしたいと言っているのに」

 甘美なアルトに、マーニャは心底震え上がった。

「フフ、フ、フレデリケさま……お、お顔が近いです」

「まあ、わたくしのことはリデルと呼んでくださいと何度も言っていますでしょう?」

「リ、リデルさま、あの、お願いですから離れて、くださ……」

「リデル、ですわ。それにそんな言葉遣いをされたら、わたくし悲しくて悲しくてせっかくのお願いも聞けませんわよ」

 じりじりと迫ってくる美貌に祭壇の下まで追い詰められたマーニャは、とうとう涙目になって叫んだ。

「わかったからどいてえぇ、リデル――!」

「いいよ」

 てのひらを返したようにフレデリケはあっさりと身を離した。マーニャはぐったりと崩れ落ちる。

「本当に失礼だなぁ、マーニャは。ひと月も同じ部屋で暮らしてる相手の顔をまだ見慣れないなんて」

 フレデリケはへたりこんだマーニャの傍らに腰を下ろすと、慣れた仕種であぐらをかいた。スカートの裾が盛大にめくれたが、気に留めずあらわになった膝の上に頬杖をつく。

「そ、そういうことは鏡を見てから言いなさいよ……!」

 恨めしく睨んでやると、なぜかにっこりと笑みが返ってきた。

「褒め言葉だと思ってありがたくいただくよ」

「褒めてない!」

 この、見てくれだけは天使か女神かというような少年の名を、フレデリケ・エリアス・グリーンヒルという。

 公国じゅうの若者たちが焦がれてやまない麗しの伯爵令嬢は、実は男だったなどと――いったいだれが想像するというのか!

 偶然にもこの事実を知ったとき、あまりの衝撃にめまいを覚えるどころか気を失ってしまった。目覚めると、骨までとろけるような微笑を湛えたフレデリケが添い寝をしていたということのほうが更におそろしかったが。

「ところで、一時間も聖堂にこもって何をお祈りしてたんだい?」

 ふと変わったフレデリケの声音に、マーニャはぎくりと肩を強張らせた。

「何を、って……」

「ずいぶん深刻そうな様子だったね。『あたしはどうしたらいいんでしょうか?』なんて言ってたし」

「聞いてたの!?」

 フレデリケはうっそりと金色の瞳を細め、マーニャの顔を覗きこんだ。

「ねぇマーニャ、何か悩んでることがあるなら力になるよ。きみと僕の仲じゃないか」

「別に、悩みなんか……」

「それとも――まさか僕との『約束』を破る気でも起こしたわけじゃないよね?」

 口元はこの上なく優しく微笑んでいるのに、フレデリケのまなざしはマーニャの心臓を氷漬けにした。

 フレデリケの秘密を知っているのは、この修道院のなかで同室のマーニャだけだ。それゆえ彼女はフレデリケの共犯者になることを脅され――もとい、約束させられていた。

 マーニャはがくがくと首を縦に振った。

「そっか……それならいいんだ」

 ふっとフレデリケは表情をゆるめると、珊瑚色の爪が並んだ指先でマーニャの頬に触れた。

 羽が掠めるような愛撫に、マーニャの鼓動が激しく鳴り響く。

「それにかわいいマーニャと離れ離れになるのは、とても寂しいもの」

 フレデリケはくすりと小さく笑って立ち上がった。ぼうっと顔を赤らめたマーニャに手を差しのべる。

「そろそろ行かないと昼食抜きになっちゃうよ。今日の食事当番は口うるさいシスター・アデリラだから」

「そっ、そうね」

 マーニャは一瞬ためらい、おそるおそるフレデリケの手を取った。優しくマーニャを立ち上がらせてくれる彼は、まるで紳士のようだった。

「ああ、そうだ。きみの洗濯ものが乾いてたから取りこんでおいたよ」

「へ……?」

 妙にどきどきしている胸に戸惑っていたマーニャは、一瞬なんのことを言われたのかわからなかった。

 確かに、洗った着替えや下着を朝食の前に干しておいたが――下着?

 フレデリケは爽やかな笑顔でのたまった。

「マーニャってば、ずいぶんかわいい下着を穿いてるんだね」

「……い、いやあぁ――っ!」

 昼下がりの聖堂に憐れな仔羊の悲鳴が響き渡る。

 結局ふたりは昼食を食べそこね、腹の虫を鳴らしながら午後の修行に励む羽目になるのだが、それはまた別の話である。

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