LAP:2

 荷造り中に段ボールが一つ増えた。呆れたような目で見てくる母親を宥め、開封と設定を済ませる。久しぶりの感覚だ。記憶の底から湧き出てくる懐かしさに襲われそうになりながら、俺はコントローラーを握った。

 約束まで2日。引っ越し準備もそこそこに、俺は黙々と勘を取り戻すための反復作業を繰り返す。プレイするカップはひとつ。その4コースをがむしゃらに練習するだけだ。

 リビングのテレビでゲームをプレイするのは久しぶりだ。普通の家族ならリモコンの独占権を巡って父親と小競り合いがあるかもしれないが、俺の家にはなかった。それでもこのテレビを使わなかったのは、あの頃の記憶に囚われていたからだ。俺にとってリビングでプレイするゲームは親父とのマリカで、それ以降は無い。そんな日々もこれで最後だ。


 約束の日は、あっという間に訪れる。

 土曜の昼下がり。俺は親父にフレンドコードと登録方法を送りつけ、届いた申請をすぐさま承認した。小さく息を吐き、ソフトを起動する。

 通話を繋ぐのは断られた。どちらにせよ、俺も緊張するから好都合だ。なるべく走りに集中したいし、今日の目標は親父に勝つことだ。ローディング中の暗い画面に映る俺の顔は、あの日の親父とよく似ていた。

 対戦相手の名前は〈Hiroki〉。俺のセーブデータをそのまま使っている。適当に作った似顔絵のアバターがチープなミラーマッチを見ているようで妙に気恥ずかしいが、そんなことで気圧されている自分じゃない。子どもの頃に勝てなくても、今はもう18だ。ゲーム勘も育っているし、あの頃のような完敗はないはず。静かに心を落ち着け、対戦開始のアクセル音が響いた。


 親父をナメていた。あの頃と年齢は変わったとはいえ、ほとんど一夜漬けに近い素人と今も度々遊んでいる経験者だとレベルが違う。

 記憶に焼き付いた加速とコーナリング、あの頃よりも精度が上がったロケットスタートやミニターボなどのテクニック。俺が動画で学んだアイテムを使わないショートカットNISCさえも置き去りにして、コースマップには常にはるか前方をいくワリオの姿が映っている。

 一位のプレイヤーに強いアイテムが来る確率は低い。親父は最小限のアイテムやコースの曲がり角を利用し、俺の投げるこうらやバナナを捌き切る。最高難度のCPU相手にひたすら研鑽を続けてきたようだ。対人戦嫌いの親父がレートに潜っていないことに安心したのは初めてだ。


 次も、その次のコースも親父の圧勝だった。必死に食らいついても突き放され、無情に得点差が積み重なっていく。残る最後のコースに賭けるしかない、そう思った。

 スペシャルカップ、レインボーロード。あの日の俺と現在の俺が必死に練習した最終コース。勝っても負けても昔の不満が消化されるからこそ、ここで勝ちたい。


 アイドリング音と共に広がる宇宙ステーションを模した風景に、七色に輝く曲がりくねった道。低重力を表現したかのような勾配やジャンプ台は、ただ眺めているだけでも楽しい。このコースはシリーズの花形で、毎回新たなアレンジが行われる。俺にとっての思い出は、このメカニカルな外観だ。

 レースシグナルと号令はロケットスタートの合図だ。どちらも綺麗なスタートを切り、俺と親父のカートは一瞬だけ並び立つ。カスタム分で親父のワリオの方が加速は速い。俺は競馬でいう番手に立ち、親父のカートを視界に収め続ける。少しの加速で抜き去る、理想的な位置だ。

 BGMと共に甦る記憶が、コントローラーを握る手に熱を伝える。タイムアタックの時に飽きるまで聴いた曲だ。焼き付いて染み込んだコース取りを行えば、先手を打って親父がその場所にいる。やはり一枚上手か。


 ラップタイムは拮抗。やや親父が早い。勝負は最終ラップにもつれ込む。連続ジャンプ加速とミニターボでタイムロスを削りながら、俺はただ一つの策に賭ける。

 付かず離れずの位置でカートの背中を追った。グライダー滑空後のカーブで、奇妙な違和感を覚えた。それまで内を突いていた親父が、少し外に膨れたのだ。内側は柵が無いため、コースアウトを避けたか?


「……違う」


 最後のラップで外に膨れるクセを、俺は知っている。小学生の頃に飽きるまでやったタイムアタックで、俺が出した最速の記録。完璧だと思っていたコース取りに生まれた少しの傷。あれは、俺のゴーストだ。

 声が洩れ、視界が滲む。俺は笑っていた。笑いながら、どうしようもなく泣いていた。


「あの記録、親父も抜けてないのかよ」


 思い返せば、このコースにおけるそれまでの進路が全てそうだ。偶然かもしれないが、それを信じるだけの材料は俺の中にあった。

 ゴーストはそのコースにおける最速記録の追想だ。タイムアタックのたびに映る、半透明の栄光。否が応でも目にする、対戦相手よりも近い過去のライバル。

 親父が追い続けて向き合っているのは、記憶の中の俺の背中だ。親父の中の俺はまだ変声期も迎えていない子どもで、それがどうしようもなく寂しかった。なら、超えてやるよ。それでお互い満足だろ?


 温存しているアイテムはキノコ。タイムアタックでも標準装備になるそれは、本来ならただ加速できるだけのアイテムだ。

 ミニターボで一時加速すると、俺のカートはその勢いを保ったままコース上の障害物を擦る。ピンボールのバンパーめいた形状の障害物はカートを弾き飛ばし、車体がコース外に放り出される。その瞬間、俺はキノコを使った。虚空に落下する寸前で車体は前進し、ギリギリ下のコースに復帰する。再加速し、さらに下に着地すれば、通常コースを通る親父に圧倒的なアドバンテージを取れる!


 教科書通りのタイムアタックをしていた頃なら考えられなかった、ショートカットを利用する方法だ。その時のアイテム運に依存し、失敗すれば大きなタイムロスが発生する、五分五分の賭け。数日行った練習は、このためだ。

 猛追してくるワリオを振り切り、ゴールを通過する。あの日の過去なんか置き去りにして、強かった親父も、超えられなかった俺の記録も、全部全部抜き去って。


「……っし!」


 今の俺を見てくれ、親父。

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