伸手

久志木梓

一、残日

 永嘉えいか五年六月一日の残日は、未だ暮れなずむ。

 宦官かんがんは、京師けいし洛陽らくようが王城の奥深く、帝が起臥きがさるる寝殿しんでんにあって、ひれ伏していた。

 ひれ伏したる先にましますみかどおんひとは、崩れ破られたる王城の、いと深き一隅いちぐうへも忍び入る晩夏の赤い陽光を、こけた頬へ浴びられていた。

 ご嘆息ののち、

ちんのようであるな」

 とおっしゃる。

 玉音ぎょくおんに、夕餉ゆうげぜんを捧げ持ちたる宦官は無言でかしこまり、謹聴きんちょうの意を示す。

「落つか、落ちぬか、わからぬ」

――ああ、おいたわしや!

 宦官は泣いた。

 泣くのが、礼である、忠である。帝が残日ざんじつに我が身を重ね世をはかなんでいらっしゃるのだから、おいたわしやと悲嘆し、帝をきわませししんたる己の不徳ふとくを詫びるが、礼である、忠である。赤心せきしんの唯一の表し方である。

 宦官はかく考えて、満身の力をふりしぼり、詫びながら身も世もなく泣き出したるを、

「よい」

 帝は制せられて、

「体にさわる」

 とおっしゃる。

 慈悲深き御心みこころに、

――ああなぜこのような聖帝せいていが。

 と宦官はもう一筋だけ落涙した。

 帝は宦官の捧げたる膳へ、御手みてを伸ばされる。

 伸ばされたる御手は、立ち枯れし木が如く、痩せ細り、乾き、荒れている。帝は、まだお若い。御年いまだ二十七にして、その御手は、ひなのくたびれた匹夫ひっぷのようであった。玉体ぎょくたいとは、畏れ多くも到底とうてい思われぬ、荒んだ手であった。ただただ日を知らぬ色の白さだけが、かろうじて御手の主の高貴なるをあかしていると、宦官には思われた。

 御手の伸ばされたる先の膳には、椀が一つ載るのみである。

 椀は、汁をたたえている。汁は、残り少ない塩を溶かした、ほとんど白湯さゆである。わずかな白味をおびし湯の底には、茹であがった鼠が沈んでいる。宦官がしかけた罠にかかったのを見つけ、誰かに食われてしまう前にと、急ぎ絞めた鼠である。

 帝は椀をお持ちになり、なかの鼠の汁物へ一瞥いちべつたまうと、

「ありがたい」

 とわずかな微笑びしょうを、皮のむけ血のにじむ土気色の口唇こうしんへ浮かべられ、静かに口をつけ、すすられた。

 宦官はいまいちど平身低頭へいしんていとうし、帝に五日ぶりに肉をたてまつり微笑をたまわった誇りをもって、丸二日何も食べていないえを慰めた。

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