目の前にある絵画をじっと見つめながら、微笑んでいた。
日朝 柳
供養
赤、青、黄、緑。
絵具を混ぜずにそのまま使ったような極彩色。
見ているだけで目が痛くて、不安定な配色。
どの色も「渾身」の二文字が似合いそうな色なのに、バランスよく、適当に殴り付けられている。どうにももったいないような気もするが、どこか整合性のある佇まいで僕の心はひどくこの絵画に惹きつけられていた。
けれども、不思議と「混沌」とかそんな印象はなくて、それが「花」であることが頭の浅いところで感じることができる。
絵筆をぶつけるように、絵筆で殴るように描かれているこの絵画は、どうやら僕の隣で天使のように儚く、石像のように微動だにせずに僕を眺めている同級生が描いた作品らしい。
その髪は風にさらさらとなびかされて、その瞳はどこか僕を測っているような眼差しで、その口は不自然に口角だけを上げながら鼓動を止める瞬間を今日も今か今かと待ち望む心臓を貫く。今日ほどに才能とかそういう人の価値にひどく影響を与えるものを希ったことはないだろう。
それほどにその同級生は美しかったのだ。
美しいという言葉が不釣り合いに感じるほどに。
「どうぞご自由に話しかけてください」と首から看板を下げているようにその同級生は僕に細かな首のかしげる動作を送りつける。僕以外の不特定多数の鑑賞者には目もくれずに、たった一人だけのしかめっ面でその絵画を眺めている僕という人間に向けて言葉を発することを強制するような眼差し。
どうにも無視をするわけにもいかないので、素直に思ったことを独り言のように呟いてみる。
「才能があるのはいいことだよ」
と僕が話しかけてもこの同級生は「才能なんてないよ」と優しく微笑むだけ。気持ちの悪さというか、気味の悪さで言ったら今季一番だろう。
この世界には、等価交換という絶対的な概念が存在する。平たく言えば、「何かを得るためには、何かを失うことが必要だ」ってこと。少なくとも僕はこの絶対的な概念を美しいと思っているし、何よりも正しいと思っている。
……目の前にいる同級生を除いては。
目の前にいる同級生もその概念の中にいるのであれば、どんなものを失ったのだろうか。この同級生だけ、等価交換という酷く残虐で、絶対的な概念から外れているといことはないのだろうか。そうだとしたらこの同級生は人間とかそういうことを超越した、どこまでも世界にとって特別な存在なんじゃないか?
でもそんなことはないということを僕は知っているはずだ。
昨日だって僕とこの同級生は贅沢に秋の風を浴びながら小さな死を経験したじゃないか。
一昨日だって僕とこの同級生は秋の寒さに震えながらちょっぴりこの世界における質量を増やしたじゃないか。
その前だって、僕達は人間における文化的な最低限度を上回る優雅な生活を謳歌したじゃないか。
なら、今更何を疑えばいいのだろうか? たった一日、たった一つの出来事だけで僕達は神に見放された側、神の特別になった側で別れなければいけないのだろうか。世界は平等に不平等だが、こんなことはないだろう?
これが知らない誰かなら僕はここまでに脳神経を酷使することはなかっただろう。
でもこのミステリにおける僕は名前のないエキストラとかただのやられ役とか、あからさまな悪党とかそういうものじゃなくて、ただの善良な一般市民であり、事件に遭遇した哀れな主人公でもなく、たまたま通りかかった探偵役ででしかないのだ。
白く、小綺麗な壁にかけられた絵画には絶対的概念から外れていそうな不協和音が聞こえる。ざっと想像するに、数リットルほど。それだけの絵具だけで、ここまでの感動と呼ぶべきか心の起伏と言うべきものを生むには、果たして何が必要なのだろうか。この中に才能という才能を細かく刻んで混ぜたからこういう風になるのではないだろうか?
「なあ、これが才能の塊っていうものじゃないなら、これはなんなんだ?」
「さあ。ボクにはなんとも言えないけど、一般的に言えば『経験』とかそういうものなんじゃないかな」
「まだ二十年も生きていないくせに」
「もう二十年も死なずに生きてこれたんだよ。おかげでボクはもう二十回も春を経験している」
「たった二十回じゃないか」
「ボクの経験する春ってのは君の経験する春よりもずっと、ずっと内向的なんだ。でもその分話かけてみるとたくさんのことを教えてくれるんだよ」
天才、というのは確実にこの同級生のことを言うんだろう? ならさ、もっとこの同級生から何かを奪ってやってくれよ。何も得ず、何も失っていない僕達が酷く腹を立てて不必要にこの同級生から何よりも価値のあるものを奪い取ろうと、無かったことにしようとするする前にさ。この同級生が感じた二十回ほどの春を帳消しにするような、酷く理不尽で絶対的な、そんな対価を早く払ってやってくれ。
才能に嫉妬みたいなどこまでもありふれていそうな感情は、どうやら僕の元より進まない筆を完全に鉛に変えてやっているようで、椅子に座るだけ座ったまま何もできていない状態が長く続いてしまっていた。
……昨日、たった一人の自称「天才なんかじゃない」天才と話したからだろうか。
特別何か欠けているわけでもない僕にはどこまでも才能がないのだろう。僕の心の伽藍堂な器が、ただの一つも欠けていないことを僕は十分に理解していたし、所詮才能があったとしても僕はその才能を引き出せずにぐるぐると酸素を回し続けることだろう。
等価交換ってものがありやがるから、才能のない人間ははっきりと死刑宣告を人生のどこかのタイミングで受けてしまうのだ。
神は平等に不平等を分け与えるが、もし本当に誰にでも平等に才能が与えられていないなら、僕はその神を一生呪い続けるだろう。せめて、「わからないようにしてくれればいいのに」と泥に塗れながらにも訴えたい事柄であり、目を瞑って耳を閉じて考えれば、授業に飽き飽きした中学生の妄想よりもよっぽど精神年齢が低い思考だ。
あの頃の自分とは鏡で照らし合わせてみても全然別の人間なのに。全く成長していない。
どこまでも白い洋紙に色を乗せることがどうしてもできなかったから、僕は一度中庭に出てみることにした。
三方を施設に囲まれているが、そのいずれもあまり高くない。時間によっては心地よい季節の日差しを感じることができる。それに、この中庭には芝生があるのだ。
この芝生があること。それこそがこの中庭の存在意義であり、存在価値なのだ。僕の生活圏内に、ゆったりとシートを引いて寛げる芝生はここにしかないのだった。何せ、ここにはそう人がこない。それもまたいい。清少納言が枕草子に描くぐらいかな。
「なんだかそれっぽいから」と、形から入るために買ったスケッチブックは思いの外かさが高くて、そこに鉛筆と、折れて小さくなってしまった消しゴム。それだけを制服の胸ポケットに忍ばせて大きく息を吸う。
まだ桜が咲くにはだいぶ早いようだった。池の中のめだか達も寒くて死んでしまいそうな瞳で、エサを探していた。そうした、僕なりの「秋」を感じてみる。あの同級生の言うことなんて知るものか。僕なりの「秋」を感じて、それを真っ白なキャンパスに殴りつければいいじゃないか。めだか達は僕に近づくことなく、金魚と追いかけっこしていてこの中庭の中で唯一孤独だった僕は、秋の木枯らしに頬を撫でられている。
ついつい落ちてきてしまった瞼とどこかに遊びに行こうとしていた意識の感覚が、どこか冬眠を彷彿とさせてくる。今の僕は冬眠のために穴蔵に篭るクマの気持ちだってわかる。
どうして夢というのは自分を鳥の視点で見下ろす構図が多いのだろうか。今の僕は屋上に留まっていた烏の視点そのものだった。やけにリアルで、そよ風が気持ちいい。
遠くの方に僕の家と近くの公園が見えて、聞こえない小鳥のさえずりに耳を傾ける。向こうの山の上の建物からもくもくと出てくる白煙になんだか無意味な感情を覚えて、そっと何も考えていないフリをする。特に意味はないけれど、わざわざ気になって見にいくほどでもないだろう。
特別棟の方から、誰かが歩いてくる。ひょろっちい、細くて背の高い同級生。服の端に極彩色のペンキが付いていて、寝ている僕をみると一直線にこっちにきて、手に持っていたビニール袋から缶コーヒーを一本取り出すと、その同級生は僕の額に当てた。
額に嫌な冷たさを感じて、僕の意識は覚醒する。
目の前で缶コーヒーをお上品に鷲掴みする同級生はにかっと微笑んで「いる?」と聞く。「生憎僕はコーヒーが飲めないんだ」って丁重にお断りしても、「オレンジジュースもあるんだよ」と次から次へと矢継ぎ早にアルミ缶を取り出す。
「実は僕は今、金を持ってないんだ。缶ジュースをもらったって僕はなんにもお返ししてやれない。大人しく僕のことなんかほっといて自分なりの『秋』というのでも探してきたらいいじゃないか。今だけでいいから寝かしてくれないか」
「なら別にいいよ。無理矢理押し付けられた缶ジュースよりも胸糞悪い不味さのジュースはないからね」
「ああ、そう思うのだったら早くお絵かきでもすればいいじゃないか」
「いや、ボクもここで寝ることとするよ。隣、失礼するよ」
「……ああ、もう好きにしておけばいいよ」
なんだかもはやまともな思考というものがとてつもなく億劫になってしまって、「なんでもいいや」って7文字が脳裏に絶えず表示されているものだから僕はそのまま深い睡眠の深海にでも探索しに行こうと瞼を閉じた。
隣から聞こえる呼吸の音がどうにも肌に合わなくて、そっと近くのベンチに腰掛ける。古くなって腰を下ろした瞬間にギシギシと音を立てて左右に揺れる。思えばこのベンチに座ったことはそう何回もなくて、すやすやと寝息を立てる同級生の睫毛の本数をぼうっと数えた。一本一本があまりに長いので、僕はどこか敗北感を覚えながら空を仰いだ。
午後二時の青空に殴り描かれた白い雲は、綺麗な鱗柄をしていた。昔僕の家族という人に「鱗雲は雨のサインなんだ。気をつけるといいよ」と少し笑みを浮かべながら言われた覚えがある。手を伸ばしても、もう届かない記憶。もう風化して消えてしまっていてもおかしくはないはずなんだけど、脳内で手をかざしたら出てくる、哀愁のフィルターがかかった思い出とかそう言うものはとっとと僕の前から消えてくれればいいのに。
今の僕に過去の僕なんか存在しちゃいけないんだ。
思い出の中の僕はまだまだ未熟で、まだまだ背の低いガキだったから、前を歩く僕の家族と名乗る人物の背中がやけに大きく感じて、その背中に置いていかれないように必死に歩くけど、あっという間に鱗雲に吸い込まれてしまって、やがて雨が降った。しとしとと、滴を僕の気づかぬ傷に染み込ませながら。
いつの間にかベンチの上で死んだように眠っていた。少し肌寒く感じる今日この頃だが、どうやら余計な気を利かせた例の同級生が薄手のブランケットをかけてくれたみたいだ。空は少し暗くなってしまっていて、僕は急いでその場から離れた。雨の気配に襲われて、少し焦ってしまっている僕がいることを否定することはできない。
下駄箱の中に入れておいた折り畳み傘を差して自分のうちに帰る。
歩いているうちに雨粒が大きくなってきて、次第にそれはバケツをひっくり返したような豪雨になっていた。手元のスマホの画面には「台風」の二文字が並んでいて、足早に道路を歩く。すれ違う人たちは皆同じように憂鬱な顔をしていて、折り畳み傘からはみ出た肩が寒さに悲鳴を上げていた。靴の中に雨が染み込んできて、雨音が寒くて赤くなった耳に響く。どこまでもこの不快感に慣れはしない。
そういや、玄関のドアを開けた瞬間に、忘れ物を思い出してしまうのはなぜだろうか。きっと脳内で外出したときの記憶のまとめ作業が始まるからとか帰ってから何をしようかなって考えたりとか、一概に言えないけどたくさんの要素を含んでいるのには違いなくて、簡潔に言えば僕は忘れ物をしたのである。決して狙ったわけでもないが、とりあえず覚えているうちに取りに行くのが筋だろう。闇が深くなって、雨も少し弱まってきた。これくらいならゆっくり歩いて取りに行くことだってできるだろう。
したたかに振り続けている雨に些か不快感を覚えながらも僕はさっき足早に去っていった道を優雅に歩いている。
今日のような寒い日には蜜柑が恋しくなる。僕はどうにも食べるのが苦手で、皮を剥いたときに爪を黄色く染めてしまうし、白い筋のようなものなんかも几帳面に全て取り除いてしまおうとするものの、爪が実に刺さってしまって果汁が吹き出してしまうこともある。
そういや僕に何かを訴えかけるような目をしていためだか達は蜜柑のあの白い筋を食べてくれるのだろうか。僕はやっぱり、何度言われてもあの白い筋が味がしないからか、食感として不快に残るからなのか、別に蜜柑に栄養を求めていないからかで「ちょっとぐらいなら付いていてもいいけど、あまりにも付いていたら取り除く」スタンスを貫いていた。
いつも根城にして絵を描いている建物は壁に蔦が蔓延っているような、そんな古い建物だったがつい半年ほど前までは三年ほど毎日通っていたものだ。
学校へ行く唯一の道には酷く急な坂があって、向こうの山からはサンタが入りやすそうな高い高い煙突が立っている。あんなところからサンタが中に入ったら腰骨を折りそうで少し冷や冷やするが、きっとサンタに重力というものはないのだろう?
校舎が見えると雨はさっきまで小雨だったのにどっと大雨になった。急いで生徒玄関まで走る。体育館からは心地の良いシューズの擦れる音がして、地響きのようなボールの音がする。リズムに乗って、ダムダムと。
校舎の中からはなんの気配もしなくて、生徒玄関の屋根の下に入って一息つく。傘に乗せられたままの粒を落としながら、回り込んで中庭に入る。スケッチブックはベンチの上に置いていたはずなんだけど、どのベンチの上にも見当たらない。あの中には僕の大切な絵があるのだ。そうでなければわざわざ取りに帰ってくることもないだろう?
五分ぐらいしただろうか。ようやく、少し奥に入り込んだところにある、渡り廊下の通路の端の方に立てかけられた状態で置いてあるスケッチブックを僕は見つけることができた。でも、僕はそれを目視しただけで取りにはまだ行けていない。僕はどこまでも雷が怖いのだ。さっきからゴロゴロと唸って空に描かれている光の筋が、僕はどこまでも恐ろしいのだ。学校には避雷針があるのはわかっているが、どうしてもちょっと怖くて、今はちょっとした屋根の下で雨粒を眺めている。
本来なら雷なんか降る予定はなくて、サッと帰って乾かす予定だったのに。
覚悟を決めて渡り廊下まで行き、ヘナヘナと倒れ込む。すごくこれだけで疲れた気がするのはなんでだろうか。少しも濡れていないスケッチブックを抱きしめ、顔を上げると例の同級生の顔が目の前にあった。絵に描いたような「水も滴るいい男」って感じでどこか嫌味を感じてしまう。
渡り廊下の一番端っこで、逃げ場なんてもとはない。なんだか圧迫感というものも感じる。
顔面に張り付いた爽やかな笑顔が深く心に刺さって、いつもならこいつに会ったことを少し自慢して闊歩したいと思うのに、今だけはそんなことを思うほどの余裕はなかった。
七秒ほど目を合わせていると、だんだん同級生の仮面が外れていって、どこまでも間抜けな顔で「怖かった……」と僕に縋り付いてくる。雨音が五月蝿くて、聞こえないフリでもしてやろうかとでも思ったけど、どこか安心しきった表情で濡れた服でまとわりついてくる。
どこまでも迷惑なわけだが、僕はスケッチブックにこの同級生の鼻水とか涙が付いていることなんかには気を留めずに、口を開いた。
「なんでここにいるんだ?」
当たり前のように口に出る言葉。テンプレートにも程があるその言葉に一切動じずに、僕のあまりに迷惑な同級生はにかっと笑って白い歯を見せて、「なんでって、弟を助けるのが兄ってものでしょ」と言った。誰がお前なんかを兄なんかと認めるものか。僕達に同じ血は繋がってないだろう? 僕にこの同級生を兄と呼ぶ義務はないのだ。ただの戸籍上の関係性ででしかないじゃないか。
「弟を助けたぐらいで兄と名乗れるのなら僕にはたくさん兄がいるよ。助けたってことは何かから僕を守ったってことだろ? なのに何からも僕を守っていないじゃないか」
「何を言っているんだ。ボクはしっかり雨の冷たい滴から弟のスケッチブックを守ったじゃないか。これは命同然の代物だろう?」
「代物ってほど重々しいものではないけどね。中身、見た? 見てないよね?」
「そんな物騒な眼で兄を見つめるんじゃないよ〜。やっぱりボクの弟なだけあって基礎は守りながらもそこそこうまいよね」
やっぱり見たんじゃないか。
人のスケッチブックなんて個人情報の塊のようなもの、なんでわざわざみようだなんて思ったのだろうか。
僕のスケッチブックの中にはこの同級生にだけは絶対に見られたくないような絵もあるのだ。
だから僕は、たった一つのこの出来事だけで目の前の同級生を意地でも兄と認めないことにした。やっぱりこの同級生の立ち位置は僕と過ごす時間が増えても「面倒で迷惑な同級生」ってことなんだ。それ以上にもそれ以下にもなりそうにない。
第一、僕はこうも簡単にプライバシーを侵害してくるような家族を家族と認めたくないのだ。戸籍上は家族でも、血が繋がっていてもいなくても、家族はただの他人であることはどこまでも頑固な規則だ。そもそも目の前の同級生とは血は繋がってない。
「くちゅ」とかわいい女の子がくしゃみをしたらそれなりに僕だって庇護欲というか守ってあげたい感というものが出るだろうが、当然今そんなくしゃみをしたのはただのめんどくさい野郎だし、僕のつい五分ほど前までは傘に守られて濡れていなかったジャンパーはさっきこの同級生が抱きついてまとわりついて絡みついてきたせいで今や防寒の役割を放棄している。
実質的に自分で首を絞めたようなものだが、はなから僕はこの同級生にこのジャンパーを貸す予定じゃなかったし、僕の心はそこまでも暖かくないのだ。温もりを与えても僕は寒いだけで、なんら得と言えるものはないだろうし。
「なんだか今の気分はどうにも形容し難いけど、強いていうなら蜜柑の白い筋をとっている気分と似ているかな」
「なかなかに個性的な感性をしているね。どこがそう思ったんだい? どう説明されても僕に理解はできないだろうけどね」
「個性的ってのはボクを貶していると受け取っても良いのかい?」
「ああ、どうにも僕には理解し難い感性だからね。直接的に否定されるよりもそうやって言われた方が痕が残らないだろう? それで結局どこが蜜柑の白い筋をとっている気分と今のこの状況が似ていると思ったのさ」
「そうだね、強いて言えばちょっとしたむず痒い気持ちとか、ワクワクした気持ちとか、ちょっとずつ心配な気持ちとか、そういうのを全部ひっくるめたのが蜜柑の白い筋をとっている気分ってのかな。自分で言っててまるで理解してないや」
「自分で理解してない言葉を不用意に吐くのは無責任だよ。少なくとも僕はそう思ってる」
「確かにボクにしては不用意な言葉だったね。でもボクは言葉を吐き捨てるような真似はしないよ。言葉には霊が宿るからね」
「そんなの幻想だよ。作り話だよ。大人が『いい子供』を作るために作った法螺話だよ。霊なんてあやふやなものを根拠なく信仰するのは好きじゃない」
「それは好みの問題だろう? ならボクに否定されてもこの考えを覆す義務なんてないじゃないか。価値観の押し付けのような、どこまでも不毛な会話はしたくないよ」
正論で殴られるっていうのはきっと何よりも痛くて痕がつくことで、僕のSAN値はもうほとんどなくなっていた。比喩でもなんでもなく、素直に正気を失いそうだ。
僕の体の体温がだんだん奪われていく感覚がずっとしていたけど、ついには体の芯まで冷えてきたような感覚に寒気がする。今の僕の体温はどれくらいだろうか?
「そんなに寒いならボクの羽織を貸してあげるよ」
と、不気味な優しさ。
さっきまでしていた「どこまでも不毛な会話」なんて覚えていないと言わんばかりに僕に羽織を差し出す。「どこまでも不毛な会話」をし始めたぐらいからこの同級生は僕の隣で手のひらを必死にこすり合わせているのだ。僕もカイロぐらい持ってくればよかったかな。
そろそろ雨はまだ降っているけど雷は少しマシになったので帰ろうと思う。隣でいる同級生はすよすよと寝息を立てているが、僕の同居人でもあるので連れて帰ろうと腕を引っ張ったり体を揺さぶったりしてみるが、なかなかに起きない。
あいにく、僕には狸寝入りしているかどうかを見分けるスキルってものは持っていないのでこの同級生が本当に熟睡していることに懸けて起こそうとしているが、これが狸寝入りだったら相手は面白がってもっと狸寝入りを決め込むだろう。これは僕の実際の経験から来ているもので、中学生の時によく賑やかな先生の授業で実践したものだ。
「賑やか」っていうのは僕があんまり「五月蝿い」って言葉を多用するのが好きじゃないから言っているけど、この同級生に対して「五月蝿い」って言うのにあまり抵抗がないのは何故だろうか?
「はぁ……」とため息をつき、そっと聞こえる大きさギリギリの音量で話しかける。
「兄さん」
たったその一言でパチリと目を開いて、無様によだれを垂らしながら僕を見つめる。兄の瞳は、この世界のどの思い出よりも綺麗だ。ダイヤモンドにだって負けないだろう。
「そろそろ家に帰ろうか。もう九時だよ」
どこか放心状態になっている兄を見つめながら、自分でも情けないほどボソッと吐き捨てる。聞こえたのか、聞こえていないのか。わからないままに立ち上がって、空を見上げると雲の隙間から月が見えた。兄の瞳のように感じる。どこまでも綺麗で、引き込まれそうだ。
「ああ……帰ろうか」
未だに目を見開いたままに、僕の差し出した右手を握る。
握られた右手に力を入れると、兄の重さって言うのはほとんど感じなくて、天使のようだと思ってしまった。兄に、こんなこと思っているだなんて悟られたくない。天使のような兄と兄が天使のようと言うのは、文学とか文章的には同じことなのかもしれない。でも、断じて兄は天使のようではないのだ。そう思うことはきっと少し、ちょっと間違ったことなんだ。
僕は何よりも懸念すべきことを忘れていた。いきなり雷の音がして、半分兄に見惚れていた僕は驚いて尻餅をついてしまった。どうにも無様で、兄も道連れにしようかと思ったけど、そんなことを考えるまでに座り込んでしまった。立ち上がることもままならない。目の前の兄はクスクスと笑って、手を差し出す気配もなく、月を見上げる。
「蜜柑みたいなお月様みたいだね」
と零して、濡れた服の裾を絞ろうと服を脱ぎ始める。
よっと立って、視線の向ける先に困る。まじまじ見るのも、わかりやすく見ないって言うのもどこか不自然で、どう想像しても兄は僕を微笑うだろう。どうせ性根の腐った才能人のことだ。耳まで真っ赤にして俯く弟を見て何かおちょくることがないわけがないだろう?
……そう思っていたのに。僕の兄はそんな僕を見ても動揺とかそう言う心の動きっていうのを一切出さずに黙々と水を絞っている。
兄はいつから僕を待っていたのだろうか。僕が帰ったとき、兄は何をしていたのだろうか。僕はもしかしたら、重大な罪ってやつを犯してしまったのかもしれない。
そのまま、僕たちは記憶が朧げなまま帰路についた。兄は僕に「兄さん」と呼ばれたことで夢うつつって感じだし(多分頭の中で反芻しているようで、時々気持ちわるほどの笑みが漏れている)、僕は僕でのぼせてふにゃふにゃになってしまった頭を元に戻すのに必死で、歩くことすらままならない。
家の玄関についた時には僕に自分の布団まで移動したり濡れた服を脱ぐほどの元気と気力はもうなくて、熱でほとんどいうことを聞かなくなってしまっていた体は冷たい玄関の床に崩れ落ちてしまった。
それからのことは本当に何にも覚えていなくて、朝起きたらいつもの濡れていない寝間着に着替えていた。
無意識の自分を褒めようと起き上がろうとするとお腹に兄の腕があった。僕は思わず「きゃあ」と女の子みたいな声を上げて腕の持ち主に枕を投げつけ、布団をかぶし、光や音といい勝負をするぐらいの速さで布団から抜け出すと背後の壁に激しく頭を打ち付けた。
何があったのか整理がつかないままに被せた布団の中身がピクピク動くものだから、僕のあまり出来のよくない頭はもう何がなんだかわからなくなってしまって、もうなにもかもがこんがらがってしまって、もう一度眠りにつくことを提案した。
もちろん僕の善良な精神はそんな提案を即座に否決して、被せてしまった布団を剥ぎ取る。被せられていた腕はそれを本能的に反抗して、カバーが少し伸びるんじゃないかってほどにつかんできたけど、僕だって所詮は男性であることには変わりないので起きがけでも現在進行形で睡眠の最中にいる成人男性との布団の取り合いには負けないのだ。(体全体を使って綱引きの要領で引っ張っても少し時間がかかってしまったのは、寝起きだからってことにしておこう)
少しするとベッドの下から腕の持ち主の癖っ毛がにょきっと出てきて、次第にせっかくの建物をもったいなく汚している誰かの下手くそなスプレーアートのように、お世辞にも健康そうとは言えない目元と真っ赤になった頬が見えてきた。明らかに体調が悪かったので、この兄(のような誰か)を本人の部屋まで連れて行こうと引っ張るが、なかなか動こうとしない。
「兄さん、風邪ひいてるからベットで寝ようよ」
と、少し猫なで声で囁くと一瞬僕の方を向いてコクッと元気のなさそうに頷き支えられながら立ち上がろうとした。少し額に手を当てがっただけでわかるほどの熱が出ているし、何よりも兄の服は昨日の濡れた服のままだった。シンプルすぎてもはやどこにも売っていなさそうなパーカー。そりゃそんな格好で布団もろくに被らずに寝たら風邪だって引くよな。
少しの罪悪感と一緒に、適当に兄の体格に合うサイズの服を自分のタンスから引き出して、兄を部屋に連れていく。
なんとか兄の服を着替えさせて、晴れて自由の身になった僕は平日のつまらない空を見上げて昨日の晩から今日の朝にかけて起きたことを推測しようとしていた。
僕が朧げでも覚えているのは玄関で体がいうことを聞かなくなったところまでで、それから僕は何にも話した記憶はないのだけど、きっと兄は熱と疲労で倒れた弟の服を着せ替えて布団に運んだはいいものの、なんだか達成感を感じてしまって自分の世話をするのを忘れてしまったのだろう。
まだこの同級生が「兄」って言うことを百%認めたわけではないけど、人として相手に感謝する心は人なりに持ち合わせている。次目を覚ましたら「ありがとう」の一言ぐらいは言ってやろう。
ちょっと気を利かせてやろうと、スーパーまで足を運んでみる。台風一過って感じの空模様で、少しだけ指先が寒い。僕は少し、ほんの少しだけ寒がりなのだ。兄が元気になったぐらいにこたつでも出そうかな。
家から少し歩いたところにある、小さな公園に見たことのある人影があった。肩まで伸びる、綺麗な金色の髪。遠目では男性なのか女性なのかよくわからないが、僕は女性だったと記憶している。
特別、僕は人と話すことが苦手ってわけじゃない。ただ、人と話す機会自体が人と比べてちょっとだけ少ないだけ。
見覚えのある、と言ってもたまたま街中で兄とばったり会った時に後ろにいたのを覚えているだけで、今は特別時間がないわけじゃないので話しかけようか迷う。
でもなんだか話しかけると不自然な気がして、そのままスーパーに向かう。
スーパーのやけに広い駐車場を生身で突破して、周りの主婦たちの少し白い視線をひしひしに感じながら缶詰コーナーに行き、一つの桃缶を手に取る。僕の身長はそろそろ成人を迎える男性にしては低い方だから、側から見れば中学生が学校をサボってお使いに来たかのように見えただろう。
なんだか居心地が悪いので、さっと買い物を済ませる。梨でも買ってこようかと思ったけど、桃缶食べたらお腹がいっぱいになるよなと思ってやめておく。僕基準では桃缶とお粥さんを食べるとお腹が膨れて眠くなってくるのだ。
帰路について、家の前までくるとさっき見かけた人が家の前で右往左往していた。
明らかに不審者だったから取り敢えずスマホを取り出すと、すぐさまこっちに来て「だめ、だめ」と体の前で腕を交差させ、ジェスチャーを至近距離で送る。どうにも兄が好みそうな人物かと思いきや、やっと何か喋ったかと思うと声が小さすぎて聞き取れずに何度も聞き返して、少し大振りなジェスチャーと合わせて何かを伝えようとしている。キャラが立ちすぎて何がなんだかわからないから、素通りしようと玄関のドアを開ける。
「悪いけど、話せるならちゃんと話して。聞こえるようにね。それが最低限のマナーとまでは行かないにしろ、伝えたいことを伝える最低条件だよ。何かあるなら僕にちゃんと伝えてくれ」
……少しきつく言い過ぎたかな。
申し訳なさそうに、眉尻を下げて、すうっと息を吸い、伝える。曰く、「僕の兄の友達のユズリってもので、本当は五人ほどで様子見に来ようと思ったけど流石にそれはだめかなと思い、ジャンケンで勝った自分がお様子見に来た」とのこと。ちゃんと伝えることのできる口があるじゃないか。
「じゃあユズリさん、いらっしゃい。って言いたいものだけど、何か渡すものがあるなら僕が渡しておくし、顔が見たいなら遠慮なくどうぞ。僕に兄の友達をどうこうする資格はないからね」
「いや、別に大丈夫ですよ。連絡なしに休むことなんて今までほとんどなかったので。と言うより連絡が途絶えた、の方が正しいですね。どこかで腹でも刺されたのではないかと思っていたので、ある程度元気なら別に大丈夫です。ほら、二階の窓からのぞいているじゃないですか」
「えっ」
「それでは。一家団欒の時を邪魔するのもなんなので。さようなら」
「さようなら……」
急に饒舌になったかと思いきや、兄がこちらを覗いていた。なんだか今日は感情が忙しい気がして、少し疲れた。にしても、ちょっと連絡が途絶えただけで腹を刺されたのかと思われるような生活とはなんなのだ。何をうちの兄はしたのだろうか。
体の外皮が冷えたからそそくさと家の中の床暖房目掛けて寒い廊下を走り抜ける。もちろん二階の兄に聞こえるように、大きな声で「ただいま」と言ってから。リビングの扉を開けると先に兄がキッチンに立っていた。僕は慌てて「兄さんは寝ててよ」と言うけど、兄さんは頑なにキッチンから動こうとしないし、僕が「兄さん」と呼ぶのを聞いてニヤッと口角を上げて不気味に喜んでいる節がある。少し、いや僕は相当な怒りを現在保有している。
病人なんだからさっさと寝ればいいじゃないか。僕が出かけてからまだ三十分もかかってないじゃないか。そう何度も僕が言っても兄は兄貴ヅラしたいらしく、二人分のお粥を作り始めた。
兄の作ったお粥はあったかくて、僕好みに赤じそでも入れようかと冷蔵庫を漁っていると、兄が「一口ぐらいはそのまま食べなよ」と諭すので、諦めてそのまま食べる。美味しいのは美味しいが、お粥はそのまま食べるとまさに病人って感じがして好きじゃないのだ。美味しいんだけど。
そう言いながら兄は小ぶりな蜂蜜梅を一つ、二つと乗せていく。さっき言っていたことをそっくりそのまま返してやりたいような気分になったけれども、兄はこの料理の創作者であり作者なのだ。つまりはこの料理においては兄はほぼ絶対的な神のような存在なのだ。今のこの数十分間の食事の時間だけ。
兄は美味しそうに蜂蜜梅をこれほどかと混ぜ込んだお粥を頬張る。頬を膨らませて美味しそうに食べていると、こちらまで食欲が湧いてくる。蜂蜜梅を、スプーンで器用に割って、お粥と共に口の中へ。無機質なLEDの光を温かい光に変えるような、そんな食べっぷり。つぶされかけた米粒が心なしか食べられることを待ち遠しく思っていそうに思えて、僕が今、この手にあのスケッチブックと少しの黒鉛があればこの光景をスケッチブックに描き映していただろう。一刻でも早く、この色を、真っ白な紙に乗せたい。
兄が全て食べ終わる頃、僕はまだ半分も食べられてなくて、どこか過保護な兄がちょっこっと心配していたけど、僕はそんなことよりもよっぽど、早く描きたくてうずうずしていた。
兄はそんなことを知る由もないままに、「ちょっと寝るね」と言って寝室に上がった。僕だけの、僕のためだけの自由時間に心を軽く踊らせながら、急いで部屋のスケッチブックに色を乗せる。瞼の裏にひどく焼き付いたあの光景を一ミリの誤差もなしに写し描く。
どれだけ経ったかはわからない。僕は描き終えた、真っ白だったキャンパスに乗っている色を見て達成感に浸る。優越感とかそう言うのをごっちゃにして、かき混ぜて、ぐちゃぐちゃに、ドロドロにして。原型のなく、液体だか固体だかわからないようになった僕の感情は、果たしてこの絵に活かしきれているのだろうか。
僕のまるでない才能は、キャンパスに乗せられた絵の具をただただ無駄にするだけで、達成感も優越感もある。けれど、不思議と僕はそれを破いて、塵と同じように、芥と同じように、捨てたくなる。
こうじゃないのだ。兄の顔は、兄の口は、兄の表情は、こうじゃないのだ。もっと、僕とは違う、他の何かを持っていそうで、どこかに行ってしまってもおかしくないような、そんな気配のするのが兄なのだ。
僕は僕の手が憎い。僕の頭が憎い。僕の骨が憎い。僕の筋肉が憎い。僕の思い通りに動かない、僕が憎い。
僕はあの完璧な兄を、完璧に描かなければいけない。その義務があるのだ。きっと。僕はそう信仰しているから、信仰のままに腕を動かす。何回書き直しても、どれだけ瞼の裏を見に行こうとも、完璧とは程遠く、満足もいかない、ただの燃えるゴミが生まれる。
ふと正気に戻って、お粥の味を思い出す。僕の冷え切った瞳と足先を、そっと温めてくれる。カサカサと指先を擦り合わせ、そっと絵筆を下ろし、僕の拳を覆う乾いた絵具を濯ぎ落とす。
どうにも僕は兄のようにはなれないようだ。それは当たり前ではあるが、やっぱり哀しいというか、虚しいというか。血は繋がってないけど、名目上は兄弟なのだから。だからさ、僕は受け入れていかなきゃいけないんだよなぁ。
つまりはわかり切ったことではあるのだが、僕と兄は全くの別人なのだ。血は繋がっていない。もしかしたら一生赤の他人で顔を覚えることのないままに、生きていくことになっていたのかもしれない。今日のおかしくて、狂った僕はそんなことすらもまともに理解できていなかったのだ。なんて間抜けで馬鹿な僕なんだ。
……そして僕の密度のない脳が、違和感を覚える。「これ、前にもやったよな?」
そうだ。僕はこんな気づきをもう何回も、何十回も、あのキャンパス丸々一冊分もしているのだ。才能なんかないから、何度も反芻して、何度も瞼の裏を見に行こうとも、何度兄の姿を身に焼き付けても、完璧な兄は描けない。そして僕は、ふらっと決まってカッターナイフを手に持ち、自分を斬り付けてしまうのだ。どうにも悪い癖なわけなんだけど、一向に僕の理性はそれを止めようと躍起になるわけでもないし、回数を重ねるほどに、僕の体は後の処理の方法ばっかり最適化して効率を上げていくものだから、もう、半ば諦めてはいる。
たまに、どうしようもない違和感に駆られるのだ。兄を描いて、兄を信仰して、己を傷つけて。そうして、頭のネジがどうしようもなく、ひどく狂った僕と、いつもの穏やかそうに弟のままに笑っている僕。本当にどうしようもなく、僕と言う人間は多重的で、そのくせに薄っぺらい。
僕と言う人間に、色は付いているのかもしれない。でもその色は、兄とか他の誰かのような鮮やかで、アート的で、哀愁とかそう言う人の感情の乗った色じゃなくて、ただただ無感情なだけの無機質な鋼の色なんだ。それは、人間としてどうにも生きにくいし、誰かが声を大にして押していく「人間失格」の烙印を受ける条件は常に整っているのだ。
僕の頭は糖分を欲している。僕のちっぽけで狂った理性は思考を止めるなと躍起になっている。僕の筋肉はカッターを探し求めている。今すぐにでもこの絵をひどく狂った赤で染めたいのだ。そうしなければ、僕はとても満足できないのだ。何故かって? だってこれは完璧じゃないから。僕は完璧を愛しているのだ。正確に言えば、完璧の権化と言えるような存在を探し求めて、つい数年前にその存在に出会ったのだ。名前は、「 」。彼、兄は、どうにも完璧なのだ。
ようやく僕の筋肉が、探し求めていたカッターナイフを見つけて、喜んで反対の右腕の筋肉が人間の脆い一面を差し出す。
ーーそして、ドアが開く。
兄は僕の筋肉がしていることを見て、何も言わず、何も動かず、何も表さずに、そっと見ていた。気まずそうにもしないで、ただただ呆然と、茫然と、ぼう然と。拍子抜けしたような表情で。
そのなんとも言えない表情がなんだか僕の快楽というかそう言うものを刺激して、「兄の前でこのままやってやろうか」と、ひどく人間として最悪な選択をするかしないかの二択を選ぶのに、真剣に考えていた。この数秒間だけ、何故か一番働いて欲しい僕の理性は一切の仕事を放棄して、そっと僕の脳内の片隅で時間を潰している。
僕の心の葛藤というかそういうものを兄は知っているわけもなく、ちょっと表現を崩したかと思えば「やるならやってみろよ」と言わんばかりに腕を組む。
なんだかやる気がなくなって、なけなしの正気を振り絞って、兄にいつも通りの声色で話しかける。
「兄さん、何か用?」
明らかに戸惑った表情で、「ああ……」とだけ返し、「何もないよ」とそっと笑う。目は笑っていない。どこか仮面をかぶっているようで気持ち悪くて仕方ない。いつもの兄だ。
何もかもが人工物で、もともとの兄を僕はそう何度も見たことがない。その数少ない自然な表情は昨日見た。僕が初めて、兄を兄と呼んだ日。
兄は結局要件を話すことなく、元いた場所に帰って行った。
僕にとって、兄の訪問というのは最高に都合が悪くて、最高に都合が良いことだった。
目の前にある絵画をじっと見つめながら、微笑んでいた。 日朝 柳 @5234
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