第14話 契約

ーーー消えた。スッと音もなく。


数瞬の沈黙が流れ、低木の揺らす葉音に、ふと空気が緩む。

止まったかの様な時間が動きはじめ、途端に空気がざわめく。

そこにピリピリしたものが混じる。王子の怒気だ。

ズンズンと肩も怒らせ、私の目の前まで歩いて来た。

唖然としながらも、膝を付き、頭を下げようとした私の胸ぐらを、怒りの形相で王子が掴み上げる。

グッと喉元が締まって、苦しくて呼吸が出来ない。


「グエッ」


変な声が出たよ。

今度はグワングワンと揺れて気持ちが悪い。酷く揺さぶられる。


「殿下!お止め下さい!」


親切な人、ありがとう。でも、もう少し頑張って、殿下を止めて下さい。

耳から何かが出そうです。



「貴様!何ということをしてくれた!あの方が、ああもお怒りになるとは!貴様一体何をしたッ!クソッ折角のチャンスを!フィリアナにッ会いに来て下さったに違いないこの時を!お言葉を賜る筈だったのだぞ?!煩い忌々しい神殿すら黙るであろうにっーーー!コイツを牢へ放り込んでおけ!逃げるなとの仰せだったからな!」


最後は押される様に放り投げられて、私の身体は草の上を転がる。


解放された喉から、肺に空気を入れようとして咳き込んでしまった。


王子は言いたい事だけ言うと、王宮へと戻ってしまっので、数人残った近衛騎士とタタルの契約者である従者、後はーーー眼鏡を掛けた青年、と言うにはまだ早い若者が私をどうするか逡巡している。

先程の美女と私の一部始終を見て、聞いていたのだろう。


ーーー牢へ、だものね。

聞いてる限り、知り合いなのは(一方的ではあっても)間違いでは無いと思うだろう。向こうはとんでもなくVIPっぽいし。


皆さん、そんな困った顔をされてもーーー。私も困ってます。


そしてかなり痛いです。


近衛の騎士が手を貸してくれたので立ち上がると膝がジンと痛む。

擦りむいたかもしれない。手の平も血が滲んでいる。


「あの、タタルを助けてくれてありがとう御座います。どうぞ、これを使って下さい」


そう言ってアイロン掛かったハンカチをくれたのはタタルの保護者侍従さんだ。

タタルは従者さんの肩の上でペコっと頭を下げてくれた。


そこに、ふわり、と飛んで来た、ネモフィラみたいなブルーのドレスの妖精が、ハンカチに水を掛けて濡らす。ヒンヤリして熱くなっている手のひらに気持ちが良い。

ん?この子に見覚えがあるような?


「ありがとう御座います」


侍従さんは緩く首を振っていいえ、と優しく微笑んだ。

その後ろから、優雅な足取りで私の前に出てきたのは眼鏡の若者で、水を出してくれた妖精を手の平に乗せた。


「いや、こちらこそ済まない。もしかして、君が迷子のシャーリンを保護してくれた宝物庫の女官だろうか?ランジ神官殿に聞いてる。その節は世話になった。有難う」


何処かで見たと思ったら文官の妖精だからってランジ様が預かった子かぁ。


「いいえ、見つかって良かったです。それよりも、私はどうしたらいいのでしょうか?」


いつまでもここで立っている訳には行かないし。

侍従さんも王子のお世話しに戻らなくていいのかしら?


「正直、悩ましい。女性である君を夜風に晒しておくわけにも行かないし、かと言ってーーー」


「トリスタン、良ければ騎士団の反省室で預かるのはどうだろうか。騎士団には女性騎士もいるし、反省室とは言っても、安宿よりも綺麗だ。怪我も手当をした方が良いだろう」


トリスタンって宰相の息子の名前よね。

切れ長の目が印象深いクールビューティーだ。紺に近い黒の髪色と澄んだ水色の瞳は眼鏡と相まって知的に見える。実際頭が良いのだろうけど。

側近って大変だろうな。あの殿下じゃ。同い年らしいし、学園でもフォローしてるんだろうな。


「そうだな。あの方も誰かを呼んで来ると言っていたのだし、所在が分かれば良いだろう。頼めるか?アルブレフト」


確か、アルブレフトって騎士団長の息子だっけ。トレツキー伯爵家長男の。

紫紺の髪色にトパーズの瞳は、凛と立つ菖蒲を思わせる風貌だ。

こちらも側近なのね。歳は王子の一つ上だった筈。


「それでは参りましょうか」


息をする様に自然とエスコートをするのは流石だ。

超VIPの知人だと思われているからだろうけど、前世日本人の感覚からして、恥ずかしい気持ちが先立つ。


西宮殿の南、騎士団の寮までは庭の散歩道を通って行くと早いそうで、儀式の為に整備されてきた庭を歩く。

歩調がゆっくりなのは有り難い。紳士がいる!


世間話が思いの外弾み、あっという間に庭を抜けると、広い芝生広場の向こうは騎士団の敷地内になるらしい。


ふと、アルブレフト様が西宮殿を振り返った。


「ーーーーーー気の所為か?」


急な仕草の為に、何かあったのかと心配になった私に、何でも無いと安心させる様に微笑むと、先程迄とは違って足早に寮へ歩き出した。


この時私は、西宮殿の二階から睨む二つの瞳があるのに気が付く事はなかった。











騎士団の反省室は、はっきり言って、下級女官の部屋よりも上等でした。

お貴族様の血筋がいると、ここまで差が出るんですね。反省室でもちょっと豪華です。


待遇の差はともかく、漸く少しは休めると安堵の息を付いたが束の間、結果的に私がその反省室を利用する事はなかった。


厳つい顔の兵士に連行されたからだ。


第一王子直属の親衛隊隊長だと言ったその男は、私を騎士団の反省部屋から引きずり出し、手錠を嵌めると乱暴に引きずり、岩屋の牢獄に放り投げた。


階段をいくつも降りた先の部屋だったから、地下なのは間違いない。

窓一つ無く、ジメジメしたカビ臭い空気が肌を撫でる。不愉快指数が半端ない。

鉄格子の向こう側に太い蝋燭が数本灯っているだけで、視界が心許ない。なさ過ぎる。


投げられた時に付いた手の平が痛くて泣きたくなる。折角綺麗にしてもらったのに。


疲れたけど湿った石床に座るのヤダな。

誰も居なければちょっと座り心地の良い椅子を『お呼び出し』するんだけど。

ウロウロとする牢番の男さえ居なければ!

袖を破って床に敷こうかと考えた時、ヤモリの怪異がいない事に気がついた。


ーーー上手く逃げてくれたかな?


ちゃんと宝物庫へ帰ってくれると良いのだけど。帰れるかしら。

私だってここから宝物庫へなんて、迷わずに帰れる自信なんて無い。


私はしゃがみこむ振りをして、小型の折りたたみ式の椅子をお尻の下に出す。

これなら女官服が上手く隠してくれる。


「今は何時なのかな。心配してるよね」


うつらうつらとしてはハッとして頭を振る。

辛いミントキャンディでも舐めよう。飴なら誤魔化せるし。


ミントキャンディで頭がスッキリしてくると、思い浮かぶ顔がそれぞれ険しい顔でお説教してくる。

険しい顔と言えば、ストロベリーブロンドの美女もそうだ。

私と何の関係があるのだろう。記憶を無くした事に関係があるのかな。

感覚で言えば、私にとって悪い人じゃなさそうな気はする。


でも王子がなぁ。あの美女に再会する前に、首チョンとか有り得そうで怖い。


騎士団の反省室からの移動だって、王子の命令っぽいし。どうせ、私が牢屋にいない事に激怒したんでしょ?


小さな椅子に座っているだけなのも疲れるので、ウロウロと歩き回っていると、牢番にチッと鋭く舌打ちをされる。


「大人しくしてろ!どうせ直ぐに胴体と首がおさらばするんだ。お前は絶対に怒らせてはならない方を激怒させたんだ。女神の庭に入る事も許されず、永遠の煉獄で焼かれるのさ。もう正午だ。そろそろ殿下もあっちの片付けが終わる頃だろう。そうしたら、お前の番だな。なに、死ぬ前にたっぷりと可愛がってやれとの仰せだったからな、せめてもの情けだ。有難く思えよ」



ーーーーーーーーーーーー。


牢番は卑下た笑いを残して戻って行ったけど、何か凄い事を聞いた気がする。

私物凄くピンチじゃないの!?って、今正午?え、いつの正午!?殿下の片付けが終わる!?朝と夜と朝は通り過ぎてしまった後ですか!いつの間に!?

すいませんわたくし許可を出しておりませんが!?


ああ、ヤモリさん、ランジ様達にに知らせてくれてるよね?探してくれてるよね?


「チュウ吉先生ーーー!カリンーーー!」


藁にも縋る状況で叫んだ私を神様は見捨てなかったらしい。

助けて、と口に出す前に壁の方から返事があった。


「呼んだかの?」

「私を呼んだ?フィア」


カリン!!チュウ吉先生!!天の助けが!



「え、でも何で、どうやってここに?!」


「説明は後じゃ。フィア、契約をするぞ。さすれば我は力を得て、ここから其方を連れて逃げられる」

「僕とコイツもね」

「蒲公英ちゃん!?」


さぁ、と急かされる。

今は考えている暇は無い。


「分かった。契約を受け入れる」


その瞬間、牢内に光が迸った。


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