1-10 靴を履く気力


「どこの中学出身かどうかでマウント取られるんだよ、父さんの業界は。くだらないだろ。でも、こんなくだらない見栄に一生悩まされるんだよ……」


 かなり酒が回っているのだろう。父はまくし立てると、床に垂れた息子の血など見向きもせずに風呂へ向かった。


 時刻は二十三時。夜中に怒鳴り声が聞こえてきて、ご近所はさぞ迷惑だっただろう。

 いっそのこと、誰か通報してくれればいいのに。

 鼻血を拭いながら冷静に思う。


 父から殴られたのはこれで三回目だ。暴力に慣れたのか、今回はやけに達観していられた。

 「お前は星盟せいめい学園に入学するのだ」と、物心ついた頃から言われていた。きっと他の小学生も同じことを言われているのだろうと思い、これを特別なことだとは思っていなかった。


 しかし「星盟学園を受験するつもりだ」と言うと、それだけで周りの大人は「すごいね」と目を丸くする。

 具体的に何がどうすごいのか。

 それを知ったのは受験勉強を始めて間もなくの頃だった。


 私立の中学を受験する小学生のほとんどが学習塾へ通う。それにならって、当時小学生だった俺も大手の塾へ入るためのテストを受けた。


「この成績で星盟学園に合格するのは無理だよ」


 俺の入塾テストの点数を見た講師に、きっぱりとそう告げられた。

 勉強は好きなほうだと思っていた。学校のテストは毎回ほぼ満点だった。しかし中学受験では、とくに星盟学園のような全国でもトップレベルの難関校では、それでは通用しないらしい。


 すっかり自信とやる気を失い、塾から帰ってきて「中学受験なんてしたくない」と頬を膨らませた。

 最初に父に殴られたのはそのときだった。

 「受験するかしないか」ではなく、「受験するか殴り殺されるか」のどちらかだと言われた。


 小学四年生に進級すると友達と遊ぶなと命令され、同時に幼い頃から続けてきたピアノもやめさせられた。勉強は難しく、楽しくなかった。「これはお前のためなのだ」と何度も言い聞かせられた。


 結局桜は咲かず、公立校へ進学した。

 通っていた小学校のほとんどの生徒が進む、近所の中学校だった。


 父にはさらにつらく当たられるのだろうと思ったが、正反対だった。彼はすっかり正気を失って、息子の存在など見えなくなってしまったかのように無視をした。


 これで解放される。


 父親はもう自分のことなどお構いなしだから誰と遊ぼうが、とやかく言ってくることはない。これからは友達と好きなように遊べるし、ピアノにだって励むことができる。

 そう思ってむしろ清々しかった。


 しかし、中学では友達が一人もできなかった。

 教室内で飛び交う同級生の話題に全くついていけなかったのだ。受験勉強をしている間に同級生の話し方や振る舞いが変わっていて、ひどく戸惑った。浦島太郎になったかのような衝撃は今でも忘れられない。


 中学に入学する前は、また昔のように親しくなれるのだろうと思って疑わなかった。だからこそ、腫れ物に触るような友人たちの態度がショックだった。


 友達なんて要らない。


 周囲に溶け込めない代わりにまた勉強に打ち込もうと決めたが、成績はなかなか上がらなかった。


 中学一年生の秋、合唱祭の伴奏を務めた。他にピアノを弾ける生徒がいなかったため、どうしてもと担任に頼まれたのだ。

 ブランクがあったなりにも必死に練習したのだが、他のクラスの伴奏者との腕前は歴然の差。

 それ以来、ピアノもやめてしまった。


 とうとう学校に行けなくなったのは、二年生の冬頃だ。


 朝、支度を終えて玄関へまでは行けたのに、靴を履く気力がどうしても沸かなかった。



 寮の自室の窓を開ける。丘の上で昇山しょうざん高校の校舎が明かりを漏らしていた。シャワーを浴びて火照ほてった体を夜風が冷やす。


 体温が下がると眠気が襲ってきた。ベッドに寝転びたくなったが、我慢して椅子に腰かける。


 机に勉強道具を広げ、いざ取り掛かろうとしたところで音楽が聞こえてくることに気付いた。

 窓の外からだ。他の部屋の誰かが動画でも観て楽しんでいるのだろう。

 面倒に思いながらも窓を閉めるために立ち上がる。音量は耳を凝らしてやっと聞こえる程度だが、雑音があると勉強に集中できないたちだ。


 窓に近付くと、ぼやけていた音が少し鮮明になった。サッシに掛けた手をつい止める。

 もの悲しい歌詞を歌う女性の伸びやかな声。

 それを包むようなピアノの音。

 一体誰が流している曲なのだろう。

 風がカーテンを揺らしていた。窓は開けたまま目を閉じる。カーテンの生地と柔らかい音楽が耳たぶをくすぐった。


――友達を作ろうとしなかったのではなく、できなかっただけ。


 「友達ができない」という事実に向き合えず、「友達なんて要らない」と自分に言い聞かせていただけだ。

 勉強しなければいけないと思っているのは、ただの口実。

 その証拠に今日、クラスメイトたちから話しかけられて安堵している自分がいた。


 押し殺していた新生活への不安と緊張。

 それから、心の奥底で勝手に生まれる、ごく僅かな期待。


 いつの間にか目元が濡れていた。

 他人ひとを無遠慮に感傷的にさせてくる、優しい音楽のせいだった。

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