05:町の名は?
先ほどの話が重かったから、部屋に漂う空気はすこぶる悪い。
しかしヘルムスの話は先ほどの事だけではなかったようで、「もう一つだけよろしいですか?」と恐る恐る問い掛けてきた。
「先ほどの様な大問題が出ると困るが、聞かないわけにはいかんだろう。
いいから話せ」
先ほどの話ですっかり機嫌を損ねてその語尾は荒い。おまけに不機嫌そのままに、強面のフィリベルト様に睨みつけられてヘルムスは首を竦めていた。
「ねぇ私は喉が渇いたわ、少し休憩を入れましょう。
ヘルムス。お茶を煎れ直して貰えるかしら?」
「は、はい畏まりました」
ヘルムスはベルを鳴らして使用人を呼び、お茶を煎れ直すように指示を出した。使用人が入ってきたことで、重苦しい空気は多少マシになった気がする。
「領主様にお聞きします、この町にはもう名前がございますか?」
するとフィリベルト様はそのまま私の方へ視線を向けてくる。流れでヘルムスの視線もこちらに向かった。
やめて欲しい。
これでは旦那様を無視して、妻の私が勝手に決めている様な風じゃないか。
「私の記憶では、旦那様はこの町の名前を決めていらっしゃいませんでしたわ」
私にはそういう権限は無いよと、我ながら上手い返しじゃないかしら?
するとヘルムスは、「そうでしたか」と困ったように口を一文字に結んだ。
「どういうことだ?」
完全に同意、私もフィリベルト様の隣でコクコクと首肯する。
「この町の住人の殆どが避難民なのはご存知の通りです。
彼らは帰る場所を失っておりますので、ここを新たな住処に定めました。畑を造って種を蒔き収穫する。さらに木を伐り家を建てた。
この町を大きくしたのは自分たちだと自負しております」
それはまあ分かる。
半年でここまでの町を造ったのは凄いと素直に思う。でも慢心せず、私らが支援したからと言うことは忘れないで貰いたいわね。
「ある日の事です、やってきた行商人が帳簿を付けたいから、この町の名前を教えてくれと言いました」
「それで何と答えたの?」
突然話が飛んだなと思ったが相槌を打って先を促す。
「恐れながらその町民は隣町ビヒラーを見習いまして、『ベアトリクスだ』と答えました」
「ハァ!?」
驚きで私の声が完全に裏返った。
ついでに言うと、隣にいたフィリベルト様は「く、くくくっ」と声を殺して笑いを堪えていた。
声漏れてますからね!?
「何でそんなことになったのよ!」
「住人達は奥様にとても感謝しているのです」
支援を忘れてないどころか斜め上に突き抜けていた!?
「どうしてそういうことになるのかしら、支援されていたのは旦那様でしょう」
「ですが実際にこの町に幾度も足を運ばれたのは、シュリンゲンジーフ伯爵夫人でございますので……」
この町が出来た頃、フィリベルト様は野盗討伐の為に城を留守にされていた。
そのため私がこちらに頻繁に訪れていろいろ世話を焼いたから、この町の住人は、私に対してかなりの思い入れを持っていたらしい。
食事の炊き出し、女性が働く職場、畑を造った褒美の品、それらはすべて私の指示だと思っていたとか。
勘違いしないで欲しい。
フィリベルト様に進言して許可を貰ったのは確かだが、最終決定はすべてフィリベルト様の意向だ。だからこれは領主であるフィリベルト様の行いだ。
と言っても今さらの事で、私がやったと勘違いしたから町の名に私の名前を使おうとしているのだ。
先日、ビヒラーの事を聞いてややこしいわねと言って笑っていたのが悪かったのか、まさか自分の身にそれが降り掛かるとは思わなかった。
「奥様、恐れながらまだ話に続きがございます」
「えぇぇ……」
私の口から淑女らしからぬ声が漏れたのは容赦して頂きたいものだ。
「それを聞いた近くにいた町民が『奥様の名を勝手に使うなど恐れ多い!』と怒りだしまして」
「あらっ常識的な住民もいたのね、良かったわ」
「さらに恐れ多いことですが、『町の名はベリーだ』と……」
実名から愛称に変わったと言われて私は完全に絶句した。
ちなみにフィリベルト様は笑いを堪えるのに失敗して、ブハッと噴出した。むぅと不満げにフィリベルト様を睨むと、すまんと笑いながら謝罪をくれる始末。
まあいいけどさ!
「それでどうなったの?」
「『ベアトリクス』と『ベリー』で論争がおきまして」
その二つは決定なんだと呆れた所で、
「『いいや奥様の名前を使うなど恐れ多い』と第三勢力が立ち上がります」
「おおっ待ってました! 今度こそ常識人ね!」
「いえ、残念ですが彼らは『町の名は奥様の旧姓のベーリヒとすべきだ』と言い出しました」
「何でよ!?
ベーリヒは国の重鎮たる侯爵家の名前よ、もっと恐れ多いでしょ!!」
「わたしもそう思いますが、平民からすると見知らぬ大貴族より身近な貴族でございますので……」
「それで結局町の名前はどうなったんだ」
「実はまだ決まっておりません」
それを相談したく~とヘルムスの声はだんだんと小さくなっていく。
領主様に決めて頂くからとひとまず矛先を収めるようにと住人らに言ったそうだが、まだ決まらないのかとことあるごとにせっつかれているらしい。
「私は旦那様に言われてやっただけよ。町の名前になるなんて嫌!
あっそうだわ! 町名はアデナウアーでどうでしょうか」
「却下に決まっている」
「ええっどうしてですか!
アデナウアー子爵領からはずっとこちらへ資金が贈られています。つまりベーリヒ侯爵家の名を使うよりは、子爵家の名の方が正しいと思いますわ」
それに侯爵家の名を田舎町の名に使ったなどと、継母や姉に知れたらどんな嫌味を言われるか分かったもんじゃないわ!
「いいか。ここの住人はベリー、他ならぬ君に感謝しているんだ。
ならば使うべきは君の名前に違いない」
諭すような静かな声色。
だが私は忘れない!
「だってフィリベルト様は笑ってました……」
「すまん、つい」
思い出したのか口元がやや緩み始める。
「絶対に許しません!」
フィリベルト様は、「では」と言うと耳元に口を寄せてきて、「(口づけで勘弁してくれ)」と小声で囁いた。
私が交渉していた時とはもう状況が違う。
何もして頂けなかったあの時の口づけは貴重だが、とっくに一線を越えて、毎晩一緒に寝ている今となってはその価値は駄々下がりよ!
「お断りします!」
ちなみに私の抵抗むなしく、町の名前は『ベアトリクス』に決まった。
領地において、領主命令は絶対なのです……
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