3☽星の願い


 西に東に山の尾根に囲まれて、真北には巨大樹の森が不気味に佇む。その南に領館と湖はあった。日は沈み星を映した湖面はぼんやりと光を灯す。春先の冷たい水を掬って少女は口に含んだ。水はどこに行っても同じ味だろうかとしばし郷愁に駆られながら。


 慌ただしい一日だった。

 王子の出立に合わせて、明朝にはグリンデルフィルドを発つ。そればかりか、領館ごとを閉鎖するようだった。誰も反発せず、屋敷の食堂に使用人が集い、最後の晩餐を取った。あたかも五年前の英雄の死から始まっていた領館の終わりを看取るような静けさだった。

 翌朝には正式な領館となる南部へ行く馬車が来て、領主が閂を締める。 


 ただ留守にするだけだ。


 ソラはそう思うことにした。学校というところは五年間を過ごす場所らしい。

 貴族の子弟なら通うもので、また帰ってくる。帰ってくる場所は、主人と自分にとってこのグリンデルフィルドの地以外ないのだ。


「ソラ」


 声掛けられて振り向いた。ザ、と湿った土が踏みしめられ少し沈む。

 ぼんやりと見上げた。そう、いつの間にかせいは伸び声も低く変わり少年は青年になった。

  

「馬車を用意してある。乗れ」


 ソラは恨みがましい目で見返した。なんでもかんでも、言われるがままだったわけではない。その合理性を理解できたから、さしたる不満もなかったのだ。黒衣のマントも、威厳ある一張羅も、その着た分しか領主にさえない。

 返さぬソラに面倒そうに主人は言葉を足す。


「夜のうちに先に南の領館へ行け。王子の気まぐれに付き合う必要はない。いなければ追いかけるほどのものでもないだろう」


 うんともすんともソラには言えなかった。大抵の場合主人が正しい判断を下すことは知っていた。ただつまり、自分が合理の中にいることがつまらなかった。過ぎる待遇だったとはいえ、幼い頃は兄弟のように野山を追いかけっこしたこともあるのだ。


「あたしが行ったら、足手まといですか」


「それ以上だ」


 すげなく主人は答える。 


 ソラも動かなかった。命令のようにはしているが、実のところそれはソラに委ねられたものだ。従者ではなく学徒として、招致したのだから。 



「トゥル・オーダル・モルスケルタ・ホーラインケルタ ラクス・レクゥイエスカティンパーケ 」


 

 主人は突然歌い出した。そして、湖を


 ちゃぷ、ちゃぷ、と。つま先が蹴る度波紋は立ち、しかし沈むことなく進んでいく。遠くへ

「や……ご主人様」 

 ソラは飛び出した、追いかけた、そして並んだ。

 瞬発的に走りハアハアと息は途切れる。しかし確かにソラも水の上に立っていた。


「ご主人様って……魔法使いだったんですね」


 そう言うしかなく、途方もなく、ソラは笑った。

 “奇跡の英雄”、時が違えばその称号も彼が引き継いだろう。平和に落ちぶれた領主ではなく。

 グリンデルフィルドはもしかしたらただ主人を縛るものだったのかもしれない。


「お前には魔力がない」


 ともすれば自分も。

 すでに自分の中でも答えが終着に向かっているのをソラは虚しく感じた。 


「はい、ご主人様……」


 途端、ソラの足は抜け冷たい水に呑まれて沈み落ちた 瞬間

 チッと盛大な舌打ちの後、ソラは抱え上げられていた。

 

 空。夜空だけ見上げてソラはこらえた。ポタポタと垂れる水滴が主人の黒衣を更に暗くした。

 やはりそれは正しいのだ。願わくば――

 

 星。


 箒星が通るのをソラは天空にみた。


 こらえきれなかった


「降ろしてください、ご主人様」

 微動だにしなかったが、ソラも固かった。

「それでも、そういうことでしょう」


 すると腕が離される。泳いでだって……陸には辿り着ける。

 しかし今度はソラの足は着いた。それが答えだった。

 ソラはそのまま歩き出す。


「あたし、行きます」


「魔法がなんなのか分からないけれど……願うだけじゃ変えられない。願わなければ変わらない、なんだかそんな気がするんです。ご主人様の言うとおり、メイドのソラは置いていきますから、もうあたしの、、、、責任です」 


 そうして冷たい空気を吸い込み振り返った。



「ねぇスバル、願いは今も変わらない?」 


「……変わらないことが変えたことで、変わることが変えないことでもある」



 歩いた分だけ離れたまま、彼は不明の返答をした。きっと魔法はこんがらがったものなのだ。


「父上は偉大な魔法使いだったが、変えることを望まなかった」

 

 ソラはその声の響きを感じ取ろうとした。分からないことだらけだったが、それだけは知りたかった。


「グリンデルフィルドの誇りを忘れるな」 


 その答えだけで、ソラは十分だった。

 黒い水面に浮かぶ星々。ソラは夜空を歩いて帰った。

 


 ☽



 日の高く上がる頃、全ての支度を終えてソラ達が向かったのは北の森の巨大樹だった。その枝葉を悠然と広げた円の分だけ、他の樹々と重なることなく空地ができ、暗い森に木漏れ日が降り注ぐ。可憐に咲く白い花はその毒性から森の動物達に踏み荒らされることは決してなかったが、今そこには大きな獣が横たわったような跡が残っていた。


「申し訳ないことをした」


 王子は実直にこうべを垂れる。


「あまりに美しく魔力に満ちていたから取り込もうとして、瘴気しょうきに当てられた。生身の体では到底たなかったから精霊体に身を移したんだ」

 

 ソラにはよく理解できなかったが、やはりあのグリフォンは王子だったらしい。


こちら、、、の取引価格で8,800万クロナだ」

 

「勿論、それでも礼を尽くせない。レディ・ソラは命の恩人だ」


 淡々と取引を要求する元領主にちょっと引いたソラだったが、王子は軽く受け合った。流石神さまである。なんと言っても、自分達が無一文なのはよく分かっていたのでソラも口を挟まないことにした。


「それはそうとしてジーク卿、レディを夜の森に行かせるのはいただけないな」


「一人で行けとは言っていない」


 花の咲く時間には早かったはずだ、と苦虫を噛み潰したような顔でジークは答える。


「なるほど……じゃあ時の運命クロノス・クロスが僕たちを引き合わせたのかもしれないな」


 ルキウス王子は微笑んで手を差し出す。ソラもつられて手を伸ばすと、軽く持ち上げてお辞儀をし、そのまま手の甲に唇を触れた。


「レディ・ソラの勇気に限りない感謝と祝福を」


 優雅に垂れた銀糸の前髪の間から菫色の瞳が至近に覗く。その柔らかな音を紡ぐ唇がいま

 ゴルゴンの眼差しを受けたように、ソラは石になって固まった。


 そのため余計に判然としなかったが――

 また“歌”が口ずさまれ、木の幹に、ソラはまばゆい光に包まれた。

  

 暖かく溶け、包まれる。ゆりかごのなか子守唄が肌を撫でる 原初の心地よさ



 光が明けると、そこは魔法都市だった。




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