くらげのすむうみ

その辺に咲いてる花

うみと小説

『幼い頃の、夢を見た。

まだ純粋で、サンタさんも信じていた年の。

濁りのない瞳には、眩しすぎるほどの輝きが瞬いていた。

忘れてしまった記憶の欠片。今なら届くかもしれないと、手を伸ばす。

私は────』


消す。パソコンの中で蠢いている意味のない文字の羅列を、消していく。

最近は便利だ。結構な量のデータもボタン一つで消すことができてしまう。

さっきまであんなに悩んで悩んで、悩み抜かれて生まれた言葉は、逆さにしたコップから水が落ちるようにさらさらと無に帰した。


 大きな溜息を、一つ。


この世界には、様々な文字が存在している。

文章が存在している。表現が存在している。


私が生み出す言葉は、文章は、表現は、他の何かに重なってしまうのだ。既視感、というやつだろうか。


昔から、本の世界が好きで。いつも本や物語に身を浸していた。その結果が、これだ。


そんなものを“自分のものだ”と言ってこの世に出せるほどの自信は、私には無かった。


そもそも、自分の意志を持つことすらできなかった。

子供の頃から、だったような気がする。きっと生まれつきだ。

昔は、将来の夢があったような。あまり、覚えていない。


もうすっかり冷めてしまったココアを口に含む。甘い液体が、胃に落っこちた。

朝から何も食べてない。強い橙色の日差しが差しているのを見ると、きっともう夕方だろう。

私の朝ご飯とお昼ご飯はココア1杯だ。


食欲があまり湧かない。

代わりだというように、睡魔が襲ってくる。

そういえば、最近あまり眠れていないような…。眠くなったのも久々な気がする。


抵抗する気力もなく、重力に従って椅子に深く沈みこんだ。



───夢。これは、夢?

世界中の色がここに揃っているのではないかと思えるほどの絵が、沢山ある室内。

ワイワイガヤガヤとした、教室。

教室?


周りを見渡した。8歳くらいの男の子が、部屋を走り回っている。

目線を落として、手を見た。小さい。


「はーい、皆席についてー!

 今日は、将来の夢について発表していこうねー!」


あぁ、夢だ。

先生の顔が、見えない。だって、覚えていないのだ。


「僕、将来消防士さんになりたい!」「私はケーキ屋さん!」「お花屋さん!」


羨ましい、と感じた。

やりたいことなんて、無かった。


「──みさん?うみさん?碧海さーん?」


名前を呼ばれて、ハッとした。

こんな時、何を言えばいいんだ。やりたいこと、やりたいこと…。


やりたいことなんて、ないはずだった。


でもこれは「記憶の夢」だった。今の意思じゃない。この光景には、見覚えがある。

自分の意志とは裏腹に、口から言葉が零れ落ちる。


「…くらげ。私、くらげになりたいです。」


言ってから、目を見はった。そうだ。くらげ。くらげになりたかった。


「クラゲ?!」「なれるわけないのにね〜」「あいつ何言ってんだろ」


笑い声。


急速に耳から音が消えていく。

指先の温度がなくなり、海の底に落ちていくような感覚がした。


そうだ、この感覚。何年前だっけ。



──目が、覚めた。

酷く汗をかいていて、寒気が走った。


まだ小学生だったあの日。唯一持てた自分の考えだった、くらげになりたいという1言。

クラスが悪意のある笑い声に包まれ、私はもう自分の考えを人に伝えたくないと思った。伝えられないと感じた。


私が自分の意思を持てないのは生まれつきなんかじゃない。


くらげになれないと気付いた時、私にはやりたいことは残っていなかった。

今の仕事は、淡々とした事務作業。

給料がいいわけじゃないけど、どうせあまり使わないし、休みをちゃんとくれるのでいい働き口だと思う。


小説を書いているのは、当時の唯一の親友の「私のための物語を書いてほしい」

という言葉に、今でも縋っているという馬鹿げた理由だった。


彼女は、もうここにはいないのに。約束をしたすぐ後に、彼女は転校して、私を置いて行ってしまったのだ。


約束、したのに。


きっと私は、自分の意志を持てるときまでここで意味のない文字の羅列を製造するのだろう。


「いいなぁ、くらげ。」


無意識に声が溢れる。今度の休みに、くらげを見に行ってみようか。

なにか小説にも使えるかもしれない。


スマホを使い、SNSで呟く。


『子供の頃、くらげになりたかったこと思い出した

くらげって、確か心臓なかったよね』


アカウント名は、しぃ。名前の、「碧海(うみ)」を英語にして、Sea。そこから決めた。


フォロー数もフォロワー数もそこまで多くはないアカウントだけど、ちょっとだけ、私の気持ちと似たようなものを持っている人を見つけられた。


ピコン。と通知が鳴る。


スマホの画面を見ると、少し前から話をしている、見覚えのあるアイコンが見えた。


『将来の夢がくらげって、素敵ですね!

 くらげは心臓も、脳も無いそうですよ!』


全身の血液がドクン、と脈打ったような気がした。


二人目だった。くらげになりたいという馬鹿げた話を、笑わずに尊重してくれる人は。


アカウントを確認する。


アカウント名は、『しろっぷ』。


少し前から話し始めた女の人。どことなく考え方が似ていて、彼女と話すと少し落ち着く。ただタイミングが掴めずに、タメ口、とかは出来てないない。


『そうなんですね!

 教えていただきありがとうございます!』


無難な返信を返す。無難な返事しか、返せない。


でもそうか、くらげって心臓だけじゃなくて脳すらも無いのか。

もうちょっと、調べてみよう。


画面が暗くなっているパソコンを起こし、「くらげ」と検索をかける。


情報が、出てくる出てくる。


インターネットを初めて触ったときに感じた、数多くの大きな波に一人で呑み込まれていくような感覚。


気になった記事を片っ端からクリックしていく。


『くらげは約3000種類存在する』『海水に住むものもいれば淡水で生きていけるものもいる』『くらげは神経の刺激で泳いでいる』『くらげの美味しい食べ方』…


くらげは意外とどこでも生きていける生き物なのかもしれない。


あとくらげって食べることができるんだ。毒を持っているイメージしかないなぁ。


いつか、食べてみようと心に誓う。


あぁ、そうだ、くらげを見に行こうと思ってたんだっけ。


もう一度、検索をかける。


…山形県…クラゲ専門の水族館…。


世界でも注目されてる場所みたいだ。

でも、山形か…遠いな…。


SNSに、投稿をまた一つ。


『山形の方にクラゲ専門の水族館があるらしい。

 行ってみたいけど遠いんだよね…。』


山形のこの水族館に行くには、少なくとも6時間はかかる。


方向音痴の私には、一生辿り着ける気がしなかった。


かと言って、一緒に行けるような友達もいない。


思考を遮断するように、通知が鳴る。


しろっぷさんからだった。


『私以前そこに行ったことありますよ!

 しぃさんさえ良ければ一緒に行きませんか?』


正直、少し悩んだ。


行ったことある人が一緒に行ってくれるのはなんとも心強い。


ただ、ネット上でしか絡みのない人と会う…という行為に、不安を覚えているのも確かだった。


でも、いい人そう、ではある。


散々悩んだ上、私はしろっぷさんにDMを送った。


『すみません、誘っていただけたのは嬉しいのですが、私はしろっぷさんのことをあまり知らないので…。良ければ教えていただけませんか?』


すぐに既読がついて、返信が来る。


どうやら、しろっぷさんは女性であり、私と同じ24歳らしい。


少し親近感の湧いた私は、もう特に失うものも無いだろうという気持ちもあり、承諾した。


『では、来週の、10月7日はどうでしょう?

 空いてますか?』


『はい、じゃあ、7日に東京駅で。』


『当日はよろしくお願いします。』



…どうやら勢いのまま、出かける約束ができてしまったようだ。






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