club L

水野いつき

飛ぶパイプ椅子


 パイプ椅子が飛んだ。ユウカが切れたらしい。


 本来事務所にあるはずのパイプ椅子が、客席のテーブルに当たって落ちた。閑散としたフロアに騒音が響く。待機席で退屈そうに客を待っていたキャストは全員こう思ったはずだ。


「もっとやれ」



 私は足を組みかけて我慢する。忙しい風にスマホをいじっているけど営業なんかしちゃいない。あくびを噛み殺し、隣のキャストにもたれ掛かる。


「マイさん、煙草吸いません?」

「あたしも誘おうと思ってた」


 ひざ掛けにしていたブランケットを肩に羽織って立ち上がり、キッチンに入った。客の目から隠された、秘密の花園。



「ユウカ盛り上がってんね。店長、大丈夫かな」


 心配と見せかけて同情と好奇心の混ざった声だ。事務所でやり合っているのは短気なキャストと気弱な店長。ある意味完璧な組み合わせと言える。


「今日まだマシですよ。この前なんてボトルの鏡月ぶん投げてましたから」

「それってマシなわけ?」


 私はマイさんのジャスミンハイを作りながら、何が引き金だったのかを予想した。


「付け回しですかね?」

 

 担当する客をキャストに指定することだ。客の好みとキャストの相性を同時に見極める、指令塔的ポジション。個人売上げに直結するため、適当な仕事をすれば良くて八つ裂きだ。


 マイさんは待ってましたとばかりに、にやりとした。


「店長ミキとできてるらしいよ」


 まさか。社内恋愛はトラブルの元。キャバクラでは御法度なのに、サラリと言われグラスを落としそうになった。

 あのミキさんが、あの店長と?


「そりゃあユウカもキレるよね。色ボケしたあげく付け回しミスるなんてさ。百歩譲って浮かれるのはわかるけど、相手が店の女じゃね」

「最悪ですね」


 作った酒をマイさんに渡した。私はウーロン茶でいいかな。今日はもう、客来そうもないし。

 実の無い話をしているとキャッチに出ていた男性店員がひとり戻ってきた。マイさんが声を掛ける。


「やまぴーお疲れ。外どう?」


 やまぴーこと山下さんはエルの看板黒服だ。タメ語と敬語の使い分けが絶妙で、失礼と面白いのギリギリを攻める。黒服は基本ドリンクをサーブする為にフロアを駆け回るが、山下さんは忙しすぎてキャストが客席に着くのが遅れるとき、持ち前のノリと話術でその場を繋いでくれるから皆に重宝されている。


「ゴーストタウン。店長なんかやってんの?」


 簡潔で結構。事務所はまだ入れないらしい。


「ユウカがキレて暴れてる」

「金庫開けたいんだけどな。もう日当計算したい」

「黒服が先に諦めるのか!」

「だってお前、外見てこいよ」


 私はふたりのコントを聞きながら、ミキさんの事を考えていた。

 指名の多いミキさん。肌の綺麗なミキさん。いつも優しいミキさん。うーん、店長と付き合ってるミキさんなんて、やっぱりちょっと、想像出来ない。派手さは無いけど夜職一本の筋金入り。馬鹿じゃないはずだ。


 マイさんと山下さんは仲が良くて掛け合いが長い。冷えちゃったんでと言い残し、ひとりでキッチンを出た。


 事務所はさっきとは打って変わって静かになっていて、その静けさが逆に怖かった。

 待機席のキャストはもう、全員顔が死んでいる。私も死人みたいな顔でスマホを見た。当然、客からの連絡は無かった。



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