闇に吟ず 4

                   カイレンを出て、三週間ほど経ったある日のことである。

 アスティがその石版を見つけだしたのは、欝蒼と緑が繁る、森のなかでだった。



  天地の盟約 理の交わりを



 それは既に文字自体光って何者かが石版を写しとったという動かぬ証拠を見せていた。

「―――――」

 アスティはその彫りこまれた文字にそっと指を這わせてうつむいた。間違いなく彼が、セスラスがここを通ったのだという思いが、アスティの胸を強く貫こうとしていた。

(間違いない)

(王はここを通られて、まっすぐイリビアに向かわれた)

 ここから通る街道は一本、イリビアに向かっている。

 間違いなくセスラスへと近付いている、その想いがアスティの心をはずませ、知らず知らずのうちに足取りが軽くなった。日が沈み森の小都市でアスティは宿をとった。この都市は小さいと言っても二万人ほどがくらす場所で、森の中のものとしては栄えている方だ。 ルシェ、この街を人はそう呼んでいた。

 白い服、腰には銀の細鎖で剣を下げ、アスティは夕焼けの街を散歩した。セスラスを追ってリザレアを出て、そろそろ半年が経とうとしている。なんとも長い六ヵ月であった。 そして、その姿こそ掴めないものの、主セスラスには確実に近づいていっているのだ。

 路地裏に入ってから、アスティは逸る心を押さえかね、そっと深呼吸をした。

 タッタッタッ……

「?」

 後ろから規則的な足音がして、何かと思ってアスティは振り向いた。街の雑踏にはおよそ似つかわしくない、せわしないものであったゆえに。

「きゃっ……」

 アスティが振り向いた途端、長身のアスティの胸に勢いよくぶつかった少女がいた。

「ご、ごめんなさい」

「あ、いえ」

「あっちだ!」

「ここにいるぞ!」

 さらに後ろから物騒な叫び声がして、アスティはこの少女がその声に振り向き、サッと顔色を変えたことに気付いていた。

「……追われているの?」

「え、あ、いえ……」

「―――――」

 シャッ……

 アスティは彼女を後ろ手にかばいながら剣を抜いた。既に追っ手と思しき男たちはアスティの目の前まで来ていた。

「おうねえちゃん、その女をこっちに渡してもらおうか」

「痛い目をみるぜ」

「どんな目?」

 アスティはうすら笑いを浮かべてズイと歩み寄った。突然ふところへ来られて、男たちは動揺する。

 シャッ……

「……ぐ……っ……」

 剣の微かな響きと共に血けむりが上がり、同時に一人の男が倒れていた、額から血を流して。見えないほどに素早いアスティの剣の動きが、薄く彼の額を割ったのだ。

「な……っ……」

「どんな目ですって?」

 アスティはさらに詰め寄った。剣を彼らに、突き付けながら。

「え? 言ってみせてよ。どんな目? ねえ」

 アスティの後ろに蛇―――――そんな幻覚を彼らは恒間見た。

 全身から放たれる殺気、押さえ付けるかのような圧迫感、

 そしてその強烈な―――――瞳―――――。

 それほどにその眼光は鋭く、いくつもの戦を乗り越えている彼らですら、硬直してしまいそうになるのは止むを得ない。

「く……引き上げろ」

 彼らは傷ついた男を抱え上げ、路地裏から走り去った。

「どんな目かわかんなかったわね」

 アスティはその後ろ姿を見つめて呟き、それから背中にかばっていた少女を振り返って「大丈夫だった?」

 と尋ねた。まだ彼女は恐怖から立ち直れないのか、青ざめて微かに震えていた。

「……送りましょうか。そのぶんじゃ、無事に帰れそうにもないわ」

 少女は一瞬遠慮しようと口を開きかけたが、次の瞬間すぐに思い止まったらしく、わなわなと震える唇を懸命に動かし、

「お、お願いいたします」

 と言った。

「で、家はどこなの?」

 歩きながら、わざとあの男たちに追われていた理由を聞かずに、アスティは少女に尋ねた。彼女は名をリレイと名乗った。

「はい。この先を、ずっと行って、イミルダ地区の……」

「イミルダ地区……」

 といったら、確か貴族がいっぱい住んでるところよねえ、とアスティが言おうとする前に、リレイは行き先を告げていた。

「ジレルダ公爵さまの、お屋敷です」

「―――――」

 嫌な予感が、アスティの胸に去来した。

 そしてそれは間もなく、現実となって現われるのである。



「リレイを助けて頂いたそうで、ありがとうございます」

 公爵は五十前後の細身の男であった。

 髪は金茶色で、陽に透けて時々きらりと光る。目は優しげな感じがしていたが、その鋭さたるや、さすがであった。リレイが先程「公爵さま」と言っていたので、アスティは彼女は召し使いかなにかなのだろうと思っていた。

「あれは娘の大切な話相手でしてな……いや、助かりました」

「いえ……」

 アスティは微笑した。なんとも感じのいい男だと、そう思っていた。しかしアスティは最後までリレイが追われていたというその理由を、聞こうとはしなかったし、公爵もまた言おうとはしなかった。アスティが暇を告げる時間を見計らい、

「それでは……あまり長い間お邪魔しても気が引けますので」

 と立ち上がろうとしたときのことだ。今まで何かを言おうとして言い出せず、なんとも煮え切らない表情をしていた公爵が、はっとなって顔を上げた。

「もうお行きなさる……?」

「はい。明日にはここを経ちますので。では」

「あ、待たれよ」

 口止めされるのかと思った。既にアスティは自分がとある理由で旅に出ているリザレアの参謀だということを彼に告げていたから、まさかに監禁されたり、殺されることはないだろう。なにしろ、公爵家の召し使いが用事に出て何者かに襲われたというのだから、問題があるのには違いないのだ。

「何か……?」

「何度もお頼みしようとして同じだけ思い止まりました。

 なんといっても他国の身分ある方」

「本国ではよそ者ですわ」

 アスティは苦笑いしながら言った。

「いえいえ。ご勇名は聴いております。実は……大変に不躾な申し出で失礼だとは思うのですが……」

「なんなりと」

「実は娘が明後日、隣国に旅立つのです」

「隣国……イリビア?」

 公爵はうなづいて、

「はい。先日やっと輿入れが決まったのです。

 娘も家の者も心待ちにしておりますが……問題があるのです」

(お嬢さまが石女うまずめだとか?)

 アスティはちらりと思ったが、さすがにそれは口にしなかった。

「実はリレイが今日襲われたのも、それに関係しているのです」

 アスティは眉をひそめた。令嬢の大切な話相手がなにやら追っ手に追われているというのはつまり、令嬢自身が何者かに狙われているということではないのか。すると、

(ここの令嬢はそんな悪女なのかしら?)

 という疑問が、アスティの心の中にむくむくと鎌首をもたげて現われ、アスティの頭のなかを「?」で満たした。

「先日、領主のご子息との縁談が持ち上がりましてな」

(なんだ)

「はあ……」

 自分の的外れな想像力のたくましさに呆れながら、アスティはおとなしく公爵の話を聞くことにした。

 なんでも領主の息子というのは、この都市では知らない者はいないほどの遊び人で、おまけにとんでもない馬鹿息子で、権利もないのに父の仕事の一部に当の父の知らない間に首を突っ込み、危うく最大地区ニルメアを飢饉と火の海にしそうになったことは、公然の秘密であったという。顔も頭も悪いくせに言うことだけは一人前で、二十五にもなるのに夜、寝るときはお気にいりの侍女が付き添ってくれないと眠れず、気に入らないことがあるととにかくわめき散らし、辺りのものを壊しまくり、わがままで、甘ったれで、本当にどうしようもないのだそうだ。

 そんな馬鹿息子が、公爵の娘のエメルドに一目惚れしてしまったのだから、大変であった。エメルドには既に婚約者もいたことだし、その理由をこれ幸いにと、公爵家は丁重にその申し出を断った。しかし、父親が納得しても納得できないのは息子の方である。この世の中の破綻した人格を一身に凝縮したような馬鹿息子はそれからしつこくエメルドにつきまとった。やがて輿入れ日が近付くと、なんとかして足止めをしようともくろみ、色々な手段に出たのであった。

「は……なるほど。令嬢の仲の良いお話相手をさらえば、日にちがずれると思ったのですね」

 公爵は重々しくうなづいた。

「リレイも共に隣国へ行くというのを、嗅ぎ付けたのでしょうな。あれを使いに出したのが間違いでした」

「で、頼み、というのは……」

「ご領主のご子息は、まだ諦められないようなのです。臣下の者に聞いたのですが、なにやら彼の手の者が、でかける身仕度を庭でしていたとか……」

「ははあ……道々で襲うと、こういう訳ですね」

「おっしゃる通り。無論こちらも護衛をつけております。ですがあちらは金にあかせて集めた街のならず者ばかり。おまけに娘の馬車の中には、騎士は入れません。なにかあった

らと心配で……」

 アスティはだいたいの要領を呑み込んだ。

 自分が上位魔導師ハイ・ソーサラーだということは自分の名を知る者なら当然知っていることだ。令嬢からずっと離れず、腕に信頼のおける者をつけたいのであろう。

「イリビアに輿入れなさるとおっしゃられましたね」

 アスティは呟くように言い、人助けだし、ちょうどイリビアに行くところであったし、セスラスにも近付いたことだしと太っ腹になって、

「お引き受け致しましょう」

 と簡単に引き受けてしまった。

「やって頂けるか」

 公爵が救われたような表情になって身を乗りだすのへ、アスティは微笑した。

「一日くらい、出発が遅れたところでどうにも困る理由などありませんわ」

 ところがそのたった一日のずれが、実は後になってとんでもないことになろうとは、さすがのアスティにも予想できなかった。


 宿を引き払ってその夜、令嬢に公爵から引き合わされたアスティは、一瞬彼女は光神レディバの申し子かと錯覚した。

 まばゆいばかりの金の髪、ぬけるように白い肌、青い瞳は、リザレアの砂漠から見える海の色を彷彿とさせる。折れてしまいそうに細い体をしていて、三日月のような丸くてどうしようもなく美しい眉、終始柔らかな微笑みの讃えられた口元、男でなくても守りたくなってあげたくなるような、エメルドはそんな娘であった。

 これは馬鹿息子でなくても惚れるのは当たり前だと思い、彼女を妻にする男とはつくづく幸せだとも思った。

 エメルドは世に名高いリザレアの参謀が護衛についてくれるというので目に見えてほっとしていた。

 令嬢は馬鹿息子のしつこい横恋慕にいささかノイローゼ気味であったという。

「明日より護衛させて頂きます、姫君」

 アスティは腰を下げながらそう言った。

 この時のふたりを見ていた者は、どう思ったろう。

 アスティは、かつてはその存在ひとつでふたつの国に戦争をさせたほどの美貌の持ち主である。

 黒い髪、どんなに強烈な砂漠の太陽の光が差し込もうと、冷然とそれを受けとめては跳ね返すあくまでも黒いつややかな髪、赤銅色の肌は砂漠をよりいっそうと彷彿させ、強い意志と英知と深い愛情に充ち充ちた瞳は、たとえどんな光がそれを照らそうと、他の色には決して反逆しないと訴えるかのように、静かに、ただ静かに輝くのみなのであった。流れるような身のこなし、女にしては高い背丈、アスティを一目見た者は、迷わずこの言葉を口にする、

 まるで太陽のような方だ、

 と。

 皮肉にも、かつてセスラスが彼女に向かって言った言葉と同じであった。

 その太陽と月のような、まったく相反した容姿のふたりか向かいあって話をする様は、まるで夢を見ているようである。思わず側にいたリレイが、ホウ、とため息をついてしまったほどだ。

「馬車で移動される、とか」

「はい。護衛の方たちが外を取り巻いてくださいます」

「では私は万が一のときのためにあなたと共に中に入りましょう。よろしい?」

 こくりとうなづいて、エメルドはアスティに憧憬のような眼差しを向けた。

 これがかの魔神倒伐、英雄と名だたれしアスティかと、青い瞳がそう言っていた。

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