砂漠より、旅立ち 3
3
完全に日が暮れたのはそれからしばらくしてからであった。アスティは小さな泉を見つけ、そこで王子と共に休むことにした。アスティは疲れていなかったが、なにより王子がこのまま休まずに歩くのは無理だろう。焚火を焚き、自分の食料を王子に分け、アスティはほっと息をついた。ひとまず安心といっていいだろう。最初王子は、焚火など焚いてみつかりはしないかとアスティに言ったのだが、下草が火を隠し、木々の枝が煙を散らしてしまうだろうとアスティが言うと、安心したように干し肉を食べ始めた。
(今夜はひとまず大丈夫……)
しかし油断はできなかった。残りの者は今日中にでもあの隠れ家の死体を見つけ、追ってくるに違いない。なんとかして逃げきり、王子を安全なところへ連れて行かなければならない。と、かなりの間押し黙っていたアスティに、王子が、
「そなた……疲れたのか?」
「アスティです、王子」
「アスティ。疲れているのか?」
「いいえ。大丈夫ですわ。王子は?」
「私は……」
彼は一瞬口をつぐみ、
「わからない」
とこたえた。それからアスティに、
「――父上は、どうなさっていた?」
と聞いた。アスティは顔を上げ、思わぬ質問に知らず姿勢を正していた。
「とても……心配なさっておいででした。お探ししたいのにどうにもできぬと、ずいぶんご自分をなじっておいででしたわ」
「そうか……早く帰らなければ」
アスティは王子の心の優しさに思わず微笑んだ。しかも、とても強い。
「アスティ、水を浴びてきていいぞ」
「――は?」
「腕と足が血で汚れている。それでは不愉快だろう。そこの泉で水を浴びてこい」
なんとも奇抜なことを言う王子だ、そう思った。
彼としては、他国の人間で、こんなことまでさせてしまっているアスティに対するせめてもの気遣いなのだろう。別に水など浴びなくてもよかったが、返り血も浴びたことだしと、くすりと笑いながら、
「――それでは、お言葉に甘えて」
と言いながら、立ち上がった。茂みをへだてて泉があるから、王子に何かあってもすぐにわかる。アスティはなにかあったにすぐに大声を出すようにと言い含めて、その場を去った。
しばらく焚火の炎を見つめていたアドルリエ王子だったが、しばらく泉から何も音がしなかったあとに、ファサ……という衣ずれの音に、思わずどきりとして茂みの向こうを見やった。これでもアスティのことを心配しているのだ。
「――」
アドルリエは思わず息を飲んだ。
アスティはこちらに背を向けている。髪を前にやっているので背中がきれいに見える。 その背中の美しさ……そして、水から出てきた半透明色の、女の形をしたもの……ウンディーネと、なにやら言葉をかわすアスティのその、神秘な表情……王子はなにか見てはいけないものを見てしまったかのように、慌てて体をひっこめた。
水の静かな音だけが、闇に響いた。
パチ……パチ……
アスティは焚火の火を見ながら、傍らで眠りについた王子の寝顔を見やり、その形のよい唇に微かに笑みを浮かべた。
よく眠っている。監禁されていた間は、ほとんど安心して眠れることなどなかったのだろう。アスティのマントをかけられ、すやすやと寝息をたてている。アスティは空を見上げた。漆黒の、群青の、極上のびろうどの上にちりばめられた白銀の星々。
微かに白い息を吐きながら、アスティは昼間の石版のことを考えていた。
(王は今、どこにいらっしゃるのだろう)
あの石版の文字を手に入れ……ならばすでにこの国にはおるまい。
ではどこに? 無事でいるのだろうか?
そっとため息をついたアスティが再び焚火に目を戻そうとした時、アスティは何か気配を感じてキッと闇をすかして見た。
(……)
(……七……八……)
(もっとだ……)
アスティは剣を引き寄せた。汗が顔に浮かんでいる。
「アスティ?」
ただならぬ気配に気が付いたのか、王子が目を覚ました。剣を持ったアスティを見て、眠い顔がハッとしたものへと変貌する。
「どうかしたのか……?」
アスティは彼をみやり、顔に触れて安心させながらも、
「王子。囲まれています。十人……それ以上です。私が必ずお守りします。大丈夫ですね?」
と言った。気丈にも彼は黙ってうなづいたのみだった。アスティはうなづき返し、火を消して、それからマントを我が身に纏った。
「さ、王子」
アスティは剣を引き抜き、王子を左手に抱き上げた。
「なにがあっても離れないで……つかまっていてください」
ぎゅっ……とアスティにしがみつき、王子は恐怖からか興奮からか、目を強く閉じた。 アスティの瞳に、闇が動いた。
――来る。
ザザアッ!
疾風のごとく斬りつけてきた者の剣を、勘だけでアスティは受けた。右手が痺れるほどの強い力だ。それと同時にアスティは自分が囲まれていることに気付いた。
(これで全員か!)
アスティは斬りつけてきた男の胸を薙ぎ払って心の中で思っていた。
十重二十重に円を描いて囲まれている。
ザシュッ
大きく飛びかかってきた男の大上段をアスティは頭の上で受け、そのまま受け流して身体のどこかを斬った。返り血が顔に飛ぶ。
「手強いぞ!」
誰かが叫んだ。同時に、三方から六人の男が飛びかかってきていた。
「!」
とっさにアスティは身体の芯に力を入れた。そして王子を守るようにして、前かがみになった。
――ドン!
たちまちアスティの身体の周りに小さな爆発が起きる。その爆風をもろに受けて六人の身体がいっせいに吹っ飛んだ。咄嗟だったので完成した魔法ではなかったが、効果は充分あったようだ。しかし魔法の力場が近すぎたのか、アスティの頬も薄く切れていた。
血を浴びながら、アスティはどんどん斬り進んでいった。王子を片手に抱えているから無理な戦い方はできない。しかも、その王子を抱える腕がだるくなってきた。
(――まずい……)
汗をにじませ、目の前の大男を倒し、アスティはちっとも敵の数が減らないことに苛立ちを感じていた。
「アスティ! 後ろだ!」
「っ!」
アスティは振り向きざま槍を持った男の胸を突いた。剣の軌跡をたどって、青い光が一瞬残像を残す。
「気をつけろ! あの剣――魔力を帯びているぞ!」
ザウッ
飛びかかってきた影を見てアスティは叫んだ。
「王子! 掴まって!」
アスティは剣を大地に突き刺し、印を結んで叫んだ。
「ディヴフィ!」
ヒュッ……
アスティの身体から渦巻き状に風が起こった!
それはあまりの摩擦の強さに火すら生み、風に触れた者は引き裂かれ、身を焼かれて絶叫を上げた。アスティは大地に突き刺した剣を掴み、自分の首に必死にすがっていた王子をまた左手に抱え、どんどん斬り進んでいった。
東の空が白み始めていた。
「王子、ご無事ですか?」
「大丈夫。怪我はない。私より……」
王子はアスティを見た。
「そなたは大丈夫か?」
王子の心配はもっともだったといえよう。
両膝を追って自分と視線を同じくしているアスティは、全身に返り血を浴び、身体の所所に傷を負い、膝からは血が出ている。髪はいつしかほどけ、それが凄惨な彼女の姿をいっそう彩り、凄まじいまでの迫力でアスティを美しく見せていた。
「私は大丈夫です……じきに夜が開けます。このまま橋を渡って帰りましょう」
「せっかく水を浴びたのに……」
「こんな血まみれの女と王宮に帰るのはお嫌ですか、王子?」
アスティに微笑まれ、王子は首を振った。
「いや……そんなことはない」
それから彼は押し黙り、アスティの黒い瞳をのぞきこんで、こう言った。
「アスティ。まだ、独り身か?」
「はい。なぜです?」
王子はなにか、もじもじしながら、アスティを上目遣いに見ながら続けた。
「その……私が大きくなったら、アスティ」
「はい」
「私の妃になってくれぬか」
「――」
アスティはきょとんとして王子を見た。少年の瞳は照らいながらも真剣だ。
「私が大きくなって……国王になったら、私の、妃になってくれぬか?」
「王子……」
「――年下は嫌か」
アスティはくすりと微笑んだ。
なんと純情で、強くて、心根の優しい……。
「いいえ、王子」
アスティは彼を励ますようにその手に触れ彼を見上げた。
「この上ないほどの喜びですわ。王子が大きくなられるまで、その日を心待ちにしております。嬉しゅうございます、王子」
「約束だ」
「ええ、約束です」
二人は小指をからめあった。
その時の指の細さを、王子は、いつまでも覚えている。
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