少年の嘆き声

とがわ

少年の嘆き声

 別れの季節に、僕との別れはあるのだろうか。まどろみの空間で、そう思った。

 昼寝から覚めたのは、籠った熱に侵されたからだった。

 窓は全開だというのに白いレースカーテンは全く靡かない。寝る前までは穏やかな気温だったというのに、これでは熱中症になっても気づかないままあっけなく死んでしまうなあ、と思った。いや、それでは駄目なのだ。もっと。もっと、幸せな死を。

 もう日が落ちていくという時間。まだ行かないでと、何に訴えているのかもわからないまま苦しそうに鳴く蝉の音が響いてきては、狭い部屋に、籠る。

 その音色は必死の足掻きで、最期の一音が鳴り終わった頃にはすっかり夜になっていた。

 けれどそれに悼む時間もないままに、また別の蝉の音色が響き始めた。

 日中の熱を染みこませた空気が漂う、真夏の夜。夜でも蝉が鳴くのは不自然ではない。電気のせいで明るいだとか熱帯夜だとかそういう理由で蝉は日中と勘違いして鳴くらしいときく。今の時代、人間が夜に活動することは珍しくはないし、技術の発展途上で温暖化だって進んでいく。何らおかしくないのだ。そう、蝉が短い命で鳴き続けているだけなのだから。

 昔、まだ元気いっぱいに虫取り網を持って駆け回っていたころ、大木にくっついていた蝉が突然パタリと地面に落ちるのを見た。羽を下敷きに落ちた蝉のその細い脚はすっかり閉じきっていたし、腹部も少しも動いていなかった。試しに触ってみると、まだ少しだけ温かかった。

 初めて生き物が命を尽きるその瞬間に居合わせた僕は、驚きつつも、虫って死ぬんだと初めて実感した日でもあり、同時に感動していた。こんな風に命の終点を目の当たりにできるなど滅多にない、貴重だとも感じていた。

 しかし蝉の死骸をじっと見下ろした日から一週間後、また蝉が命尽きるのを見た。それから夏休み最終日にもぼとっと命が落ちるのを見た。二度あることは三度あるというし、森に入っていく子どもたちは、意外とこういう場面に遭遇するものなのだろうとその時は思った。

 夏が過ぎてからは、当然蝉は姿を消したのでそういった場面に遭遇することはなくなった。

 安堵の溜息は心地の良いもので、しかしそれは一年と持たなかった。

 翌年の夏、それはまた訪れた。蝉が死ぬ瞬間に立ち会うのはもはや日常茶飯事となったが、それだけに留まらなかった。目の前で蛙が自転車に轢かれて潰されたし、鴉がおばあさんに叩かれて息絶えたし、猫が道路に飛び出して車に無様に撥ねられた。あの猫は不自然な動きをしていた。まるで何かに操られながら道路にのろのろと飛び出して自ら車にぶつかりに行っているようにも見えた。

 そんな死と近しい夏を、毎年迎えることになるとは思ってもみなかった。数年経って満身創痍の猛暑の夏休み。ついに人が死んだ。

 最初は人身事故だった。駅には大勢の人がいる。僕だけが目撃しているわけではないとほんの少し安堵したが、それも束の間、その三週間後には人が上から降ってきた。零時を回った深夜のことで、周囲には誰もいなかった。ただ、僕と目の前で奇妙な音をたてて崩れ果てた得体のしれない誰かがいただけで、とても静かな夜だった。


 蝉が死んだあの夏から十数年、毎年夏になるとこんな調子だ。まるで僕が死神みたいに、何者かの死が僕の人生のワンシーンに刻まれていく。それとも、死を見届けてとでも言っているのだろうか。それならばなぜ、二年前、あの人の死に際に僕はいなかったのだろう。夏が巡る度に悔しい思いは募り続けた。

 真夏の真夜中、蝉は僕に鳴き声を届ける。必死に、自分が生きていたことを訴えて、最期、悲しいその瞬間を傍で見守っていてほしいとでもいうかのように苦しく切ない音色を響かせる。

 では僕が死ぬとき、誰が傍で見ていてくれるのだろうと思った。こんな別れの季節の中で、僕は死ぬことができるのだろうか。死ぬのであれば夏に、自身が報われるような最期をと願う。しかし僕にはそれを果たせない。傍にいてほしいと思う人は、もういない。どうでもいい生き物の死に際にばかり遭遇して、大切な人の死には立ち会えなかったのだ。こんな偶然はいらない。仕方ないで片付けられるはずがない。

 あぁ。あと、どれくらいの数の死をみれば僕は報われるだろう。僕は僕の死を彩りある幸せなものになどもうできない。

 愛おしい家族の、もう会えないその影を瞼の裏に映して、今日も蝉の最期の鳴き声を子守歌に眠るのだ。

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